【小森トア】2★
男の声とともに、素早い生き物が空を舞ったのは同時だった。黒丸の背中から黒い羽根が出現し、その身を包んで正装へと変わる。翡翠色の勾玉から出現した刀が受け流そうとするが思いのほか威力が強く、黒丸は僅かに後ずさった。
「ちッ……」
その生き物は、まるでイタチのように長い胴体をくねらせた。竹筒へと戻っていく姿は、おそらく管狐だと黒丸は推測する。
視線の先に居るのは眼鏡をかけた長身の男。男の背後には銀色のしっぽが靡いている。黒丸はその姿に見覚えがあった。古御門家で出会った、自称医者を名乗る男。
「医者って難儀な仕事やねぇ。こんなことまでしとるんですか、狗神先生?」
飄々とした口振りで、しかし敵意を隠さずに黒丸が問いかける。男は眼鏡のブリッジに指を当ててくつくつと笑った。
「お久しぶりです、烏天狗様。ですがこれは古御門家とは関係ありません。私はただ──何も知らない子供を悪質な誘拐犯から守ろうとしているだけですよ」
ねっとりとした男の視線に、清純はすくみ上がった。なぜだかこの目を見ていると恐ろしくて体の震えが止まらなくなる。それがなぜなのか、ただの人間である清純には分からない。
「おじさん、誰……?」
「あなたのお父さんの友達です。お父さんもお母さんも、トアくんが居なくなってとても心配されてましたよ。一緒に帰りましょうか」
狗神がにこりと微笑みかける。人の良さそうな笑みだった。しかし……。
(違う……)
清純は咄嗟に、違うと思った。彼は、嘘をついているのだ。この人についていったら、良くないことが起こる。
ぎゅ、と清音の服を掴む小さな手が震える。黒丸は狗神と向かい合ったまま言った。
「すみクン連れて出来るだけ遠くに逃げて、きぃちゃん!」
黒丸が大きく羽根を広げたのを合図に、清音は清純の手を引いて弾かれたように駆け出した。清純は転びそうになりながら清音の後に続く。二人の後ろから襲いかかる管狐を叩き落としたのはつらら女郎の紗雪だった。
「急いで……!」
清音と清純は紗雪の援護を受けながら住宅街へと逃げ込んだ。
──嫌な予感がする。
それは清純がずっと感じている不安だった。もしあの男の言うことが本当で、本当の両親に会えたなら──記憶も戻るかもしれない。けれど、それは小田原清純ではいられなくなるということ。
分かっているのだ。自分が、彼らの本当の家族にはなれないことを。
「大丈夫よ、私たちが守るから」
小さく震えている清純に気づいたのか、清音が言った。清純は泣きそうな顔をしてしがみついた。
「お姉ちゃん……ごめんね。ボクのせいだ……ごめんなさい」
清純が小さく体を震わせる。清音はおもむろに屈むと、清純の頭を撫でた。
「何で謝るの? 私は感謝してるんだよ」
「感謝……?」
涙を浮かべている清純をあやすように、清音は優しい声で続ける。
「清純が居なかったら、お父さんとこんなに早く仲直りできなかった。あなたはクロの言う通り守り神で、私たちの大事な家族なの。だから──お姉ちゃんに守らせて」
清音が微笑む。清純は小さく唇を震わせながら『お姉ちゃん』と呟いた。そんな彼らに黒い炎が襲いかかってくる。
「清音、危ない!」
清音は清純を庇うようにして後ずさった。黒い炎は揺らめきながら清音の目の前へ近づいてくる。
「仕事を途中で投げ出すなよ。四神はもうお前と鳳凰しか残ってない。その鳳凰も用済みだってな」
黒い炎から不気味な声が響く。清純は震えながら清音にしがみついた。
「ひ、火が喋った……!」
そんな清純を後ろに下がらせて清音が炎を睨みつける。炎の正体を、その喋り口調を彼女は知っていた。仙北屋黒夢だ。
「私……もう、あなたたちに協力しない。お母さんは私の力で助ける」
「誰に口きいてんだ?」
仙北屋の声をした黒い炎はそう言うと、清音の足元でぐるぐると旋回した後、彼女の足に絡みついた。
「清音に……触らない、で!」
すぐに紗雪が氷柱を出現させて炎を氷漬けにしようとする。しかし黒い火の粉がぷすぷすと音を立てて氷柱を突き破って辺り一面に降り注いだ。それは清純の頭上にも容赦なく降り注いでくる。
「──っ!」
恐怖で立ちすくんでしまう清純を、紗雪がぎゅっと抱きしめる。紗雪の背中に黒い火の粉が降りかかった。
「さゆちゃん!」
「だい、じょうぶ……。それより、清音が……」
紗雪は顔を顰めながらぎこちなくはにかむと、炎に絡め取られた清音を見て絶望的な表情を浮かべる。紗雪の力では仙北屋の炎には敵わない。
「お前の母親にかけられた呪いは、怨み屋がかけた凶悪なヤツだ。元気になるにはふたつにひとつだぜ? 消去法で考えたら、どっちが簡単か分かんねえのか? 東方清音!」
炎の勢いが増して清音の体を締めつける。熱く、焼けるような痛みが清音を襲った。清純が駆け寄ろうとするが、炎によって阻まれる。
「うっ……お姉ちゃんを返して!」
熱い炎のせいで呼吸が出来ず、むせながら清純が声を上げる。
仙北屋の望む答えはとてもシンプルで、残酷なものだった。
「お前の母親は俺の親父の顔に泥を塗った。よりにもよって小田原牛蒡のものになったんだからなぁ!? 親父の苦しみがお前に分かるか?」
ごうっと音を立てて炎の勢いが増す。熱くて呼吸が出来なかったが、仙北屋の炎は清音の肌を焦がすことはせず、ただ彼女を苦しめるためだけに燃え続けている。
もがく清音の目尻に涙が浮かんだ。
「ううっ……」
「俺の奴隷になれよ。そうしたらお前の母親にかけた呪いを解いてやってもいい」
黒い炎に身を絡め取られながら苦しそうな声を上げる清音の返事など、仙北屋は求めていない。この男は昔からそういう奴だと清音は知っていた。
炎によって口を塞がれた清音の脳裏に、幼い頃の記憶がよぎる。それはまだ母が元気だった時。妖怪はみんな優しくて楽しい人達ばかりだと信じていた時の記憶。
『オレもきぃ様が大好きだから』
幼い清音を助けた妖の姿が、こんな時に蘇る。
「……、スイ……お兄、ちゃ……」
意識が炎にのまれそうになる間際、清音の口から小さな声が漏れた。このままでは清音が危ないと判断した紗雪が黒い炎へと凍える力を蓄えた指先を向けた瞬間。どこからともなく風の音が聞こえて仙北屋の炎が弱まっていく。
「何だ、何だよこの風はァ……!」
怒り狂った仙北屋の声が反響する。くるくると小さな竜巻を起こした風が紗雪の傍に近づいてきた。仙北屋に捕らわれていた清音の姿はその場に無い。頭上に大きな影がかかったことに気づいた紗雪が顔を上げると、片翼を焼かれた一羽の天狗が清音の体を抱いて頭上に浮遊している。
「約束通り会いに来たし。きぃ様」
息を切らせてそう言った天狗が、黒い炎を見下ろしていた。




