【小森トア】1★
「清純、疲れてない?」
彼が小田原家に引き取られてしばしの時が流れた。
本当の名前は覚えていない。両親の顔も思い出せないが、彼は幸せだった。小田原家が自分の本当の家族のように優しくしてくれるから。清純という名前を与えてくれたから。
「大丈夫だよ。ありがとう……おじさん、清音お姉ちゃん」
かぶりを振って少年が礼を言うと、後ろから黒丸がぎゅーっと抱きついてきた。
「おじさんやなくてお父さんやろー、すみクン!」
「で、でも……」
少年が遠慮がちに言い淀む。すると男が頭を撫でた。
「年内にでも養子縁組せんとなあ」
「お父さん、何言ってるの。そんな簡単にいくわけないでしょ」
清音が呆れたように父親に釘をさす。しかし、その顔は以前よりずっと穏やかだった。清音の隣で、紗雪がぽつりと呟く。
「すみくん……は、清音を元気にしてくれた……から、好き」
そう言って清音のさげたビニール袋の中からキャンディを取り出して少年に握らせた。
「さゆちゃん分かってるー! オレもオレも! きぃちゃんめっちゃ元気になったし」
「あんたはうるさいだけ……」
尾羽を犬のように振ってかしましく行ったり来たりする黒丸のことも、少年は好意的に思っていた。少年が手をぎゅっと握ると、黒丸は嬉しそうに握り返す。
「ありがとう……お父さん、お姉ちゃん、さゆちゃん……それから、クロ」
少年はこの一ヶ月で何度も病院に通い、様々な治療法を試みた。しかし、彼の記憶が完全に戻ることはなく、時折見ていた夢も最近ではすっかり見なくなっている。けれどまだ、ぬいぐるみは少し苦手だ。
「清純、退屈な検査ばっかで疲れたやろ。夕飯は何が食いたい? こう見えてお父ちゃんも料理作れるんやで」
そう言って牛蒡が少年の手を握る。少年は目を丸くすると、ちょっとだけ恥ずかしそうに黒丸に目配せをしたがすぐに『カレーライス!』と声を上げた。
「おっしゃ、カレーやな! 一番の得意料理や。任しとき!」
「何張りきってるの。キッチン汚されたら嫌だから私も手伝う」
腕まくりをする父に、清音が唇を尖らせて言った。
そんな二人を見て紗雪はホッとした表情を浮かべ、黒丸は幸せそうに笑う。
「すみクンは、小田原家の守り神さんやねぇ」
そのしみじみとした呟きに、少年は照れくささで肩を竦めた。
「守り神って、大袈裟だよ……」
「だってすみクンに出会ってから二人とも嬉しそうだ」
黒丸はそう言ってどこか大人びた表情で牛蒡と清音を見つめると、笑顔の自分を指した。
「オレも、すみクンに会えてよかったと思ってるし!」
無邪気に笑う黒丸に、少年はちょっぴり胸がポカポカする。
小田原家のことは大好きだが、その中でも自分を救ってくれたこの妖怪は特別な存在だった。出会いが衝撃的だったせいもあるだろう。きっと、誰かを好きになるのは生まれて初めてだと断言出来るほど、少年は恋をしているのだ。
「どーしたん? オレの顔じーっと見て」
黒丸が不思議そうに首を傾げる。年齢は少年とあまり変わらないようにも見えるが、この中の誰よりもずっと年配者のように見えた。
「お嫁さんにしても良いよ、クロのこと」
「ホンマかわいいなぁ! すみクンのおマセさん!」
精一杯のプロポーズだったが、黒丸は本気にしていないのか、かわいくてたまらないといったように抱きついてきて少年の頭を撫でている。
このまま、みんなとずっと一緒に居たい。小田原清純として、彼らと暮らしたい。そう思っていた。
「見つけましたよ、小森トアくん」
そんな幸せが、たった一言で砕けていく。銀色のしっぽを揺らした不気味な男が、視線の先で微笑んでいた。




