【あかね色】
「紀藤、ちょっといいか」
同学年の部活仲間と混ざってボール拾いをしていた少年は、強面の顧問に呼ばれて顔を上げる。目が合ったのは顧問の日熊大五郎だ。日熊が彼を呼び寄せたのは職員室だった。
「何すかー、日熊先生」
「伊南のことだが……」
顧問の問いかけを全て聞く前に、少年は苦笑した。
「あー、朱音? アイツ最近学校来てないですよ。サボりじゃねー?」
冗談混じりで言ってみるが顧問は笑うこともなく怒ることもせず、口をへの字にして『そうか……』と神妙そうに呟く。
「先生心配しすぎですってー! アイツ昔から元気だけが取り柄みたいな奴だし!」
「お前は伊南の幼馴染だったな」
「はい! 腐れ縁ってヤツです」
葵は元気に答えた。長期に渡って学校を休んでいる幼馴染を心配する様子はない。年頃の子供はこんなものなのか、と思いながら日熊が引き出しを開けた。
「なら、これを伊南の家に届けてくれないか」
そう言っておもむろに日熊が差し出したのは、次回行われる合同試合の告知プリント。葵も初めて見るものだった。
「先生、これって……!」
葵が驚いた声を上げる。手書きのプリントに書かれているのは西妖高校バレー部との試合のことだった。前回の大会で、東妖高校バレー部は西妖高校に僅差で負けた。レギュラーになれなかった葵とは違い、朱音は一年生ながらも早くから女子バレー部の中心になって活躍している。当然、そのプリントには朱音の名前があった。そして今回、葵も男子バレー部のメンバーとして抜擢されている。
「俺、試合に出られんのッ!?」
「大きな声を出すな! また仮の告知だ。向こうの顧問との日程の相談もある」
日熊が葵よりも大きな声を響かせる。いつもなら驚いて謝ってしまうところだが、葵はすっかり舞い上がっていた。ずっと頑張ってきた努力が報われたのだと思うと嬉しくて、今すぐにでも叫びだしたい。
「それに伊南の体調次第ではメンバーを組み直す必要がある。これを渡すついででいい。伊南の様子を見てこい」
「行く行く! アイツこれ見たらすぐ学校来るんじゃね?」
葵はそう言ってプリントを半分に折りたたんだ。そんな葵を見て、日熊は少し笑ったように見える。
「お前は最近上達してきたからな……努力の成果だ。その調子で練習を怠るな」
「ありがとうございまーすっ!」
葵は無邪気に笑って元気のいい返事をすると、跳ねるように職員室を飛び出した。試合に出られるという喜びや、滅多に褒めてくれない顧問の激励で彼の足取りも軽やかになる。プリントを渡せばきっと、腐れ縁の彼女も学校に来ることだろう。彼は寄り道もせずにまっすぐに伊南朱音の家へと向かった。
季節は十月下旬に差し掛かり、先月と比べると明らかに日中の時間が短くなっている。部活を終えて地元に辿り着いた頃には、既に辺りは漆黒に染まっていた。
やけに薄暗い住宅街は静まり返り、ほんの少し不気味さを醸し出している。葵は少しだけ怯んだが、慌てて鼻歌を歌いながら恐怖を払拭しようと試みた。
「……にしても、静かすぎじゃね?」
葵がぽつりと呟く。いくら日が短くなってきたとはいえ、犬の散歩に出歩く人間や車すら見ない。ひんやりした秋風が葵の頬を撫でて、その何とも言えない感触に思わず身震いしてしまう。
「なんか、出そう……あはは、まさかな」
強ばった顔で葵が言いかけた時、草むらから長い紐状のものが三本飛び出した。
「うわっ!」
驚いてその場で転んでしまった葵は、間一髪それから逃れることが出来た。葵に襲いかかってきたのは、小さなキツネだ。だが、やけに胴が長い。
「クク……」
キツネが笑ったような気配がして、葵は半泣きで駆け出した。手から滑り落ちたプリントが地面に落ちるが、気づく余裕などない。突然得体の知れない怪異に襲われパニック状態なのだ。
「たっ、助けてっ! 誰かっ!」
暗くて長い道を駆けながら、葵が震えた声で叫ぶ。そんな彼を嘲笑うように、背後からキツネが襲いかかってきた。葵の足首に絡みついて、自由を奪う。片足を引っ張られた状態の葵は顔から倒れ込んだ。
「がっ!」
咄嗟に両手で体を庇おうとする時間もなく、葵は倒れ込んでしまう。頭を強く打ったせいで、彼の意識は朦朧としていた。
(や、ば……俺、死ぬのかな)
耳元で聞こえるキツネの笑い声をぼんやりと聞きながら、葵は力なく瞼を下ろしていく。
薄れゆく意識の中で、人影がゆっくりと近づいてくるのが見えた。暗くて顔が見えないばかりか、全身が黒くてその服装すら分からない。手足の細いその少女は、ふらついた足取りで近づいてくる。
「あ、かね……」
黒髪からは煤が飛んでおり、その手足は炭化してパラパラと散り始めていた。
けれど葵には、何故かそれが伊南朱音であると分かったのだ。
幼馴染の彼女のことを、葵はよく知らない。いつから幼馴染だったのか、自分が彼女をどう思っていたのか。彼女が、鬼火という存在だということも。
陰陽師を狩るためだけに与えられたその役目も、まもなく終わりが近づいている。用が済めば始末されるだけだ。
「葵を囮に私をおびき寄せるなんて、飼い主に似て頭良いんだね」
黒煤の少女が自嘲気味に笑う。彼女の残り少ない妖気では人の姿を保つことはできない。
少女を追って管狐が飛びかかってくる。気を失っている葵を守るように少女が立ち塞がった。少女は自らの体を燃やして管狐を焼き殺していく。
指先が零れ、崩れ落ちていく。葵にとって、怪異に巻き込まれるのはこれで二度目。一度目は、彼女がミズチの封印を解いて怨憎符を貼ったために彼は危険な目に遭った。
「全部私のせいなんだ。ごめんね」
少女は地面に落ちたプリントを拾い上げる。指先は炭化してこぼれ落ち、第一関節しか残っていない状態だ。そんな手で掴んだプリントを、気を失っている葵の手に握らせた。
黒い煤がはらはらと舞って葵の頬に落ちる。少女は葵の頬を指で軽く撫でるとゆっくり体を起こした。
自分は間もなく、ここで消える。
「喰いたきゃ喰いなよ。その代わり、葵に手を出したら許さないから」
少女はそう言うと、背筋を伸ばして前方を見据えた。暗闇の中から、ゆっくりと近づいてくる黒い影を睨みつけながら。




