【豆狸の冒険】0
秋の気配が訪れ始めた午前中のこと。
朝から鬼道家は静まり返り、若き当主である楓はガールフレンドとショッピング。彼の式神も付き添いだ。八重花も楓によって暇を与えられ、椿女と服を買いに出かけている。青蛙神のハルは朝から姿が見えないが、いつものように一人で自由気ままに出歩いているのだろう。
生徒はもちろん、普段大柄な男に変化している彼にとっても今日は貴重な休日となっている。小さな体をゴロゴロと転がしながら日向ぼっこを楽しんでいた。その時……。
玄関から軽快な声が聞こえた。それは彼がよく知る若い教師の声。
「こんちは〜、東妖高校の尾崎です〜」
ぴく、と耳を立てて小さな体を起こした狸は、両手でゴシゴシと目を擦った。部屋の外で物音が聞こえて、廊下からもう一度尾崎の声が聞こえた。八重花め、鍵をかけていかなかったなと豆狸は唇を尖らせる。
「東妖高校の尾崎九兵衛ですけどぉ〜、誰かいねえっスか〜?」
ちょっとイラついたような尾崎の声が聞こえた。このままでは勝手に家に上がられるのも時間の問題だ。豆狸は冷や汗をかきながら覚悟を決めて廊下に出るのだった。
「き、きゅ……?」
なるべく動物らしく四つ足で歩み寄った豆狸を、尾崎がちょっと驚いたような顔で見つめている。例え都会から離れた田舎の家だとしても、小さなタヌキが現れたのだから当然驚くだろう。
九兵衛は時間が止まったような顔で狸を見つめると『えっ』と小さな声を上げるのだった。
「楓クンの家ってタヌキ飼ってんの? 野生? つーか自治体に許可取ってる?」
矢継ぎ早に突っ込む尾崎に返ってくるのは豆狸の『きゅうぅ……』と言う情けない返事のみ。
やがて、尾崎は気が抜けたような顔をして豆狸を見下ろした。
「あ〜、タヌキが家主を呼んでくれるわけねえよな……出直すか」
乾いた笑みを浮かべて玄関の戸を閉めようとする。豆狸は慌てて玄関まで下りた。尾崎の足元でウロウロして何か言いたそうに見上げてみるが、さすがに人の言葉を話すわけにはいかない。
「──なによお前、人懐っこいね」
突然近づいてきた狸を気に入ったのか、尾崎はその場に屈んで豆狸の頬を指でくすぐった。その気持ちよさに、豆狸はついつい顔を押し付けてしまう。その反応が嬉しかったらしく、尾崎が指先で頭をわしわしと撫でてくる。
「アハッ、さすがイヌ科」
尾崎は自分に懐いてくる小さな豆狸に好意を持ったのか、両手で包んで抱き上げた。琥珀色の妖しい瞳がジッと豆狸を見つめている。まるで自分の正体が見破られてしまうような気持ちになって、豆狸が目を逸らした。
「家の中で待たせてもらうけど良い?」
「き、きゅ〜……」
豆狸が返事をすると、尾崎はアハハと笑って鬼道家に入っていく。
居間に辿り着いた尾崎は、古びた家の中を見回した。まるで観察をするかのように。一体なぜ突然、彼が鬼道家にやってきたのか、小さな頭で考えてみるが豆狸には問いかけることが出来ない。せめて人の姿に化けられれば良いのだが、化けるとしたら日熊大五郎、もしくは鬼道楓の姿だろう。
細心の注意を払いながら豆狸が部屋を出ようとした時だった。
「オレが昔住んでた家も木造だったっけ」
尾崎がどこか懐かしそうに呟く。その表情は豆狸には見えなかったが、表情を窺うようにジッと見つめていると尾崎に首根っこを掴まれた。豆狸の体を膝の上に乗せて、頭を撫で始める。よほど気に入られてしまったらしい。
しかし、悪い気はしなかった。それどころか嬉しいようなくすぐったいような、変な気分だ。普段、挑発的な言動を繰り返す男が今は子供のような顔をして自分を撫でている。尾崎九兵衛という男の新たな一面を知れた気がして、豆狸は不思議な気持ちだった。
そんな彼の心を知ってか知らずか、尾崎が静かに語り始める。
「あの頃、初恋の先生が居てさ」
その話は豆狸にも覚えがあった。合宿の夜に聞かされた昔話。その男に憧れて教師を目指したのだと尾崎は言った。
「体も声も大きくて、いかにも体育会系って感じのむさ苦しい奴。ガサツでうるさくて……ぜってーモテないよ。今もだけど」
いたずらっぽく笑って話す尾崎の横顔を、豆狸はまじまじと見つめる。普段じっくりと見られない尾崎の横顔は、女子生徒たちが黄色い声を上げて騒ぐのも頷ける。だがそれは、今のように無邪気な表情ではないのだろう。
意外な一面に目を奪われていた豆狸だったが、どこか含みのある尾崎の言葉に首を傾げた。『今も』とは……まるで普段からその教師と会っているような口振りだ。
そんな豆狸に気づくことなく、尾崎は懐かしそうに目を細めた。
「日熊大五郎先生」
「──!」
豆狸は思わずビクッと体を震わせた。突然尾崎が自分の名前を呼んだからだ。驚いた様子の豆狸に気づいた尾崎が苦笑した。
「古臭くて驚いた? 初恋の人の名前なんだよね」
尾崎が悪戯っぽく笑う。穏やかな声で語る尾崎とは裏腹に、豆狸は動揺して視線をさまよわせている。
覚えていないのだ。どれだけ記憶を呼び起こしてみても、豆狸の中に尾崎九兵衛という子供のことも、それこそ誰かを救った記憶すらもない。もちろん尾崎は妖怪ではなく人間だ。この男が子供だった時など、豆狸にとってはつい昨日のようなもの。例え五十年や百年前の話であろうと忘れることは無い。
同姓同名の他人かと思い込みたい気持ちもあったが、尾崎の言葉は疑惑を確信に変えたのだ。
「今もきっと、スゲー好き」
まるでぬいぐるみにでも話しかけるように、尾崎は小さな声で言った。その顔が無邪気な子供のものでも、人をからかう悪戯なものでもなく、泣きそうに見えてしまい、豆狸の小さな胸をキューッと締め付けてしまう。
「アハッ、タヌキ相手に何言ってんだオレ」
尾崎は自嘲気味に笑って豆狸の体を畳の上に下ろすと退屈そうにスマートフォンを触り始める。
豆狸は惚けたように尾崎を見つめていたが、やがてじりじりと後ずさると弾かれたように部屋を飛び出すのだった。
「な、な、なッ……何だそれッ!? どういうことだー!?」
沸騰しそうな頭で豆狸は考えるけれど、考えれば考えるほど尾崎が自分を好きな理由はわからなかった。誰かに好意を向けられた経験などない豆狸にとって、尾崎の発言は彼の心を揺らすには充分すぎる。
彼が合宿で話した初恋の先生がまさか自分だったとは想像できるはずもない。豆狸は、やがて息を切らせて立ち止まった。
「……何で、こんなオイラなんかを?」
豆狸は小さな手を見下ろして呟いた。
彼の術は、彼の知らない存在にも化けられる。当然化けるなら相手を丸ごと模倣する必要があるため、ある程度の性格や好きなものを把握しておけば完璧に化けることが可能だが、日熊大五郎に関しては顔写真すら見たことがない。豆狸が生まれて初めて化けた日熊大五郎という人間の姿は大好きな老夫婦のためだったが、今では人間社会で生きていくのに必要な姿となっている。それが人間の美醜では醜い部類に入るということも分かっている。尾崎はそんな自分が好きだと言うのだ。
「で、でも……アイツのことだから、またオイラをからかってるんじゃ……」
豆狸が上擦った声で呟いた。いっそ人の姿に化けて尾崎の元に戻り、全部聞いてやったぞとからかってしまおうか。お得意の『嘘だよ』と言われてしまえばそれまでだが。
「……どう見てもあの目は嘘じゃないぞ」
嘘だと思い込めば思い込むほど、小さな胸をチクチクと刺激する痛みは時間とともに広がっていく。どこか泣きそうな尾崎の顔が豆狸の中で引っかかった。
そんなに好きなら告白でもプロポーズでもしてくればいいじゃないか。
「きゅうぅ……!」
豆狸は息を切らせて尾崎の元に駆け戻ってきた。その口にはサザンカの花が咥えられている。小さな体の彼に出来るのはこれが精一杯だった。
「何、くれんの?」
尾崎が手を出すと、豆狸は手の上にサザンカを乗せた。赤く美しいサザンカの花。庭で咲いていたものを慌てて手折っただけのものだ。キラキラとした宝石でも金でもない。今の豆狸に出来る精一杯の返事だ。
「あ……」
豆狸が意を決して人の言葉を紡ごうとした時だった。
「ありがと」
尾崎はサザンカを胸ポケットに納めると、片手で豆狸を摘みあげる。きょとんとした顔の彼に尾崎が口付けたのはごく自然な動作だった。
「きゅわわっ!?」
「アハッ、変な声」
尾崎がイタズラに笑う。顔が赤くなっている豆狸の反応が面白いのか、尾崎は豆狸の鼻っ面を指でちょんとつつく。豆狸は今度こそ茹で上がったように赤くなってしまった。
「生まれ変わったらタヌキになろうかなあ。そしたらさ、オレのこと貰ってよ」
尾崎の琥珀色の瞳が豆狸を映す。その目で見つめられているだけで豆狸はクラクラした。
恥ずかしさで意識が遠のく豆狸の耳に、尾崎の笑い声が聞こえる。それは決して不快なものではなく、合宿の夜に耳にした心からの笑い声だったのだ。




