【二口女】4
その日の夜。鬼道家の食卓には珍しい姿があった。焼きたての魚を頬張って白米をかきこんでいるのは、僕の父──鬼道柊。ちゃらんぽらんな性格で、自由気ままなところは猫みたいなおっさんだ。いつも夜中に帰ってきたり明け方に帰ってきたりと、不規則な生活をしている。
生活費には一切手を付けず、陰陽師時代に稼いだへそくりで娯楽を楽しんでいるらしい。息子の僕よりよっぽど子供っぽい人だ。
「ほお、二口女ねえ……」
食卓を囲んで、そんな親父が口を開く。
どうしようもない人間ではあるが、一応僕の大先輩だ。
僕が生まれる前は、10代でその名を関東に知らしめ、最強の陰陽師と呼ばれていたという。……まあ、それらは全部、親父に仕事を奪われたという大人たちが口にしていた話だ。
僕は実際に、親父が戦ったところを見たことはない。
「ランクで言えばC+妖怪ってところだな……良くやったじゃねェの」
「あれでC+かよ……」
親父は無精髭にご飯粒を付けたままという間抜けな顔で、箸の先を僕に向けて笑う。
僕は鳩尾を押さえながら、笑うこともできずに口元をひきつらせた。
「おにーちゃんね、けがしたの……。メイのこと、たすけてくれたんだよ……」
甲斐甲斐しく全員分の食器を用意していた冥鬼が、茶碗を両手に持って涙声で俯く。
すると、親父は冥鬼を慰めるように頭を撫でながら何度か頷いた。
「そっかそっか。好きな女を守るのは男の義務だからなあ……楓も本望だったろうぜ」
「おい、親父。別に好きとかそういうんじゃ……」
余計なことを口にする親父にすかさず反論を試みるが……僕の反論も虚しく、冥鬼は目をキラキラさせている。
「おにーちゃん、メイのことすきなの?」
「え? ……あぁ、まあ……嫌いではないけど」
照れくさくなって曖昧に答えると、冥鬼はさらに目をキラキラと輝かせて僕の手の中の茶碗を奪った。
「おかわりよそってあげる!」
冥鬼は満面の笑みを浮かべてそう告げると、しゃもじで一生懸命炊飯器の中の白米をよそい始める。
いや、一言もおかわりがほしいなんて言った覚えはないんだが……。そもそも僕は少食だ。待て待て、そんなによそうな。
「しっかし……冥鬼ちゃんがお前の相棒でよかったな〜、今回はさすがに危なかったみたいだし?」
親父がしみじみと呟いて、エプロン姿の冥鬼をだらしない顔で見つめる。おい、エロ親父の顔になってるぞ。
そんな息子の白い視線に気づいたのか、やがて親父の視線は、僕の額の怪我へ向けられた。
僕は鈍く痛む鳩尾を軽く擦りながら、意を決して口を開く。
「……なあ、やっぱりほかの陰陽師は、陰陽師自身も戦えたりするんだろ? 親父はどうやって妖怪と戦ったんだ? 僕にも──」
戦い方を、教えて欲しい。
そう言おうとした時、キャットフードを食べていた魔鬼によって遮られた。
「楓、奴はもう陰陽師ではない。一般人に戻った陰陽師には守秘義務がある。それが例え家族であろうとな」
それは常々魔鬼から言われていることだった。親父はもう陰陽師ではないから、僕に何かを教えたり指導することは出来ないと。
分かってはいるけど、アドバイスくらいは求めたっていいだろう。僕には師匠も先生もいなければ、困った時に頼れるような陰陽師仲間もいないんだから。
「──まァ……ひとつ言えるとしたら、だ」
一度、箸を置いた親父が無精髭についたご飯粒を指で取りながら言った。
そのご飯粒を口に放り込み、親父は目を細めて笑う。
「お前にゃ偉大なご先祖さま、鬼道澄真の血が流れてんだ。みにくいアヒルの子だって最終的に綺麗なフラミンゴになるだろ?」
「それを言うなら白鳥だろ」
例え話が上手く締まらない親父に突っ込む。
親父は『あれ、そうだったか?』なんてとぼけながら続けて言った。
「とにかくよ、お前は自分でも気づかないくらいスゴい才能を秘めてンだよ。これを言っちまっていいのかは分からんが──俺だって大人になるまで陰陽師の修行は独学だったし。周りに色々言われても気にすんな……お前は自慢の息子だぜ」
親父は魔鬼の判断を窺うように視線を向けていたが、魔鬼は知らんぷりをしてキャットフードを食べている。それで気を良くしたのか、親父は鼓舞するように僕の肩を叩いてくれた。
「……あり、がと」
何だか照れくさくて、ぶっきらぼうなお礼になってしまう。
自慢の息子──今は、その言葉だけで充分だ。
「ひいらぎ、おみそしるのおかわりはー?」
親父の手元をチラチラと見ながら冥鬼が無邪気に声をかけてくる。
既にお椀の底が見えるほど、味噌汁を食べ切っていた親父はすぐにお椀を冥鬼に差し出した。
「おう、おかわり!」
「はーい! おみそしる、あっためなおすね!」
冥鬼は嬉しそうにお椀を受け取ると、くるんと身を翻してキッチンへ向かった。
甲斐甲斐しさたっぷりの小さな後ろ姿を見ていると、先程小さな胸を借りたことを思い出して少し恥ずかしくなってしまう。
「そう言えばさ、小さい頃の冥鬼について……聞いたことないんだけど」
そう言って、キャットフードを食べている魔鬼に視線を向ける。親父はパリパリと音を立てて漬物を食べながら、ちらりとキッチンの奥を見た。
「小さい頃って、冥鬼ちゃんは今でも十分小さいだろ?」
「そうじゃなくて……本来の冥鬼は年頃の女の子なんだろ? その冥鬼の小さい頃はどんな感じだったのかなって思ってさ」
キッチンの前に立ってそわそわと鍋の様子をうかがっている小さな背中を、親父と共に見守りながら口にする。
すると、魔鬼は俯きがちにトレイの中に顔を突っ込んでいたが、ゆっくりと顔を上げて静かに呟いた。
「今と変わらぬよ」
ぺろ、と口の周りを舌で舐め取って、魔鬼は前足を揃えるようにして姿勢を正す。
「姫は昔から無邪気で、甘えたがりで……誰よりも強いお方だが……常夜を統べるため、王子となることを選んだのだ」
「王子?」
どこか引っ掛かりを感じるその言い回しを疑問に感じた僕が首を傾げると、魔鬼は静かに目を伏せて頷く。
「近い将来、常夜の国を継ぐには王でなければならない。現常夜王……豪鬼様の子は冥鬼様だけだが……女性が国を統べることに抵抗がある者もいる」
いわゆる、男尊女卑ってやつだろうか。常夜の国にもそんな古いというか、頭のカタい考え方をした人がいるんだな……と僕は思った。
「姫は、自分が女性として生まれたことを深く後悔し、悩まれたはずだ。そして──」
そこで一度言葉を止めた魔鬼は、未だキッチンに立っている冥鬼の姿を確認してから、先程よりも小さな声で言った。
「すっかり男らしく振舞うようになられた。剣の腕も、並の男では太刀打ちが出来ぬほどになり──まさに、鬼神と呼ぶに相応しい王子に成長されたのだ」
「王として生きることを選んだお姫様……ねェ」
親父はそう言って無精髭を指で撫でる。
二口女に傷つけられた僕を抱きしめたあの腕は震えていた。その理由が、少しだけわかった気がしたんだ。
「……本当は、戦いたくないのかもしれない」
僕の呟きを聞いた魔鬼は、驚いたように丸い瞳を見開いた。
そのまま、しばらく黙って僕を見つめていたが、やがて長い睫毛の影が落ちるほど目を細める。魔鬼の口元は、わずかに緩んでいた。
普段は皮肉を吐いてばかりの黒猫が、今は何だか嬉しそうに見える。そんな魔鬼の心情を表すように、細い尻尾は穏やかに揺れていた。
「我は今日……姫の主が、おぬしで良かったと改めて思った」
「……え?」
穏やかな声色で、魔鬼が言う。
「おぬしは姫の心に寄り添える人間だ。きっと互いに高め合って成長していけると……我は思っている」
それは買いかぶりすぎだぞ、と口を挟もうとするが……僕が何かを言うよりも先に、魔鬼が続けた。
「そして──姫は本当に王子として生きたいのか、姫であることを願うのかを……おぬしとの暮らしの中で学んでいくのであろうよ」
魔鬼はそう言うと、皿の上の残り少ないキャットフードを少しずつ食べ始める。
同時に、冥鬼がキッチンから戻ってきたため、僕は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「ひいらぎ〜、ふーふーしてたべてね!」
「お! サンキュー、冥鬼ちゃん」
親父は冥鬼から味噌汁の入ったお椀を受け取って、冷めかけた白米を投入し始める。
冥鬼は満足そうに笑うと、僕の傍に戻ってきて言った。
「おにーちゃんも、おみそしるのおかわりはー?」
冥鬼が無邪気に尋ねてくる。
僕は一生懸命家事をこなそうとしている小さな女の子を見上げると、その言葉に甘えるようにして味噌汁のおかわりを頼んだ。