【海から山へ】
遠くで日熊先生の声が聞こえる。到着だと、僕を呼ぶ声。けれど声はあまりにも遠くから聞こえていて、それが夢か現実かすら、今の僕には分からない。
「楓、起きろ」
今度こそ、すぐ近くで日熊先生の声が聞こえた。さすがにこれは夢じゃない。
それにしても、何だかずいぶん長い間眠っていたような気がするぞ……。
「んん、すみません……」
ゆっくりと目を開けて辺りを見回すけれど、尾崎先生やハク先輩、ゴウ先輩に小鳥遊先輩も車の中に居なかった。外で休憩でもしているんだろうか……?
「寝ぼけてないで降りてこい」
日熊先生が苦笑気味に外から窓ガラスを叩く。学校での『日熊先生』なら絶対に見せない顔だ。
というか……日熊先生こと豆狸師匠は外で僕を『楓』とは呼ばない。妖怪としての自分を見せられる場所(例えば家だ)でしか僕を名前で呼ばないのだが……。
「どうしたんですか、ししょ……」
足をもつれさせながら外に出るとそこは……見慣れない公園だった。
「どもどもー、鬼道殿」
「うわ!?」
突然目の前に飛び出してきた軽快な声と不気味な鳥の面。和装に身を包んでいるそいつは、小田原さんの式神……烏天狗だった。
「な、何でッ、烏天狗がここに……」
「やだなぁ、お土産渡すって言ったやないですかー。これが思いのほか賞味期限短くて、一週間ですよ一週間。あっ、鬼道殿もはよ食べんと無くなりますよ!」
烏天狗が一方的に話す中、師匠と冥鬼はお土産のきびだんごを頬張っている。待て待て待て、何がなんだか分からないけど落ち着け、僕。
僕たちは合宿を終え、師匠の車で帰っていたはずだ。運転は尾崎先生で──もしかして僕、ずっと寝てたのか? ハク先輩たちに挨拶することも出来ずに?
「おじさん、帰り大丈夫ですか? 免許取りたてだって聞きましたケド、森林公園からやとここから国道に入って道なりに……あ、今度オレも乗せてくださいね! 指切りげんまん!」
烏天狗はタブレットを覗き込んで一方的に喋ったと思えば、師匠の手を取って指切りをしている。師匠は怒ったり不機嫌になるどころか、まるで親戚の子供でも見るような顔で楽しそうだ。
先月、確かに土産の話はされたけど、でも烏天狗の主は小田原さんだ。同業者と言えども彼は僕をよく思ってない。そんな彼の式神が何でわざわざ……。
そもそも、いつもの師匠なら怪しい奴はとことん疑ってかかるのにどうして烏天狗には無反応なんだよ。こんなに不気味……だし。
「どうした、楓?」
「ヤキモチですよー、おじさん! うちのご主人も昔からこうなんですもん。かわいいですよねぇ」
警戒心たっぷりで後ずさる僕に気づいて師匠が首を傾げると、烏天狗がこそこそと耳打ちした。妬いてないし丸聞こえなんだが……。
「なるほど……そんな顔するな。また迎えに来てやるから。帰る時は連絡してくれ」
師匠は、誤解したまま僕の首根っこを掴んで烏天狗に引き渡す。
「違います。ちょ、師匠!?」
事態が飲み込めなくて師匠に救いを求めるけれど、彼は無慈悲に運転席に乗り込んで呼び止める隙もなく行ってしまった。
こ、こんな知らない場所で置き去りにされるなんて……。
途方に暮れる僕のことなんかお構いなく、きびだんごを食べ終えた冥鬼がすぐ近くに見える山を見てキョロキョロしている。
「うみのつぎはやまのぼり?」
「姫、海行ったん? いいですねぇ」
烏天狗は呑気に返事をすると、おもむろに僕に近づいてきた。
い、一体彼は何が目的なんだ? 師匠のことも、彼の考えていることも分からない。
もしかして小田原さんの命令で僕たち二人を山に捨ててこいなんて言われたんじゃ……。
「あ、今何か物騒なこと考えてますよね? ホンマおもろいなあ、鬼道殿」
烏天狗は肩を揺らして楽しげに笑いながら、不気味な黒いお面を鈍く光らせた。
「とりま、家帰るんで──失礼」
「えっ?」
下駄の音も立てずに近づいてきた烏天狗は、僕と冥鬼をそれぞれ両脇に抱えると黒い翼を大きく広げた。
烏天狗が翼で風を起こした次の瞬間、彼の体は風に乗って飛び立つ。
「な、な……落ちるッ!」
「落ちたりなんかせぇへんよ。鬼道殿が暴れなければね」
わざと脅すように烏天狗が笑うもんだから、僕は振り落とされないように烏天狗の腕をギュッと握った。
烏天狗は悠々と翼をはためかせながら高く上空を目指していく。景色がどんどんミニチュアみたいになっていって、万が一落下した時のことを考えると頭がクラクラした。
「ひとがいっぱいいるー!」
「あはは、今はお祭りやっとるからねぇ。後で天狗みこし見ましょーね、姫」
冥鬼の指した方向には赤い天狗の顔をしたお神輿があった。すごい人の数だ……上空からでもよく見える。
大きな翼がはためいて、どんどん山へと近づいていった。まるで、本当に自分が鳥になったみたいだ。
「わあ、きもちいー!」
冥鬼が楽しそうに叫ぶ。僕もちょっと気持ちよかったけれど、でも烏天狗の狙いが分からない以上手放しで喜べない。人を襲う妖怪も居るんだから……。
やがて山頂に近づいた烏天狗は減速して、ゆっくりと地面に降り立った。
そこには大きな古民家が建っている。玄関には白い翼をした二人組が待っていた。恐らく、彼らも天狗だ。
「紹介しますねー。この二人はオレの友達で──」
烏天狗が紹介をしようとした瞬間、勢いよく二人の天狗が飛んでくる。それはまるでロケットか何かのようだった。
白い天狗たちは両側から烏天狗に抱きついてくる。
「黒丸様ヤベエ! しばらく見ない間に縮んでるじゃないッスかッ!!」
「馬鹿、黒丸様はダイエットしてるんだし。最近体が重くて飛ぶのに苦労してるって言ってたし」
「あはは、しばいたろか?」
烏天狗は両側から撫で回されながら乾いた声で笑う。確かに二人とも烏天狗より背は高かった。烏天狗も大きな方だとは思うけど……と思いながらやたら歯の長い下駄を見下ろす。
「この二人はオレの弟子で、口が悪いのがオオルリ、性格が悪いのがヒスイです。かわいいでしょ? 双子ちゃんなんですよ」
烏天狗はそう言って背の高い二人を紹介した。白い翼に、銀の髪……何だか妖怪というよりも別の生き物に見える。神秘的っていうか、ハルのような霊獣みたいな……。
「すっげー! 俺、陰陽師って初めて見たッス! めちゃくちゃかっけーし!」
「黒丸様の主殿も陰陽師だし。もう忘れてるとかさすが鳥頭だし」
「誰が鳥頭だコラァ!? 子供は初めてって意味なんだよッ!」
喋ると二人とも残念すぎるんだが……テンションの高いほうの天狗が僕の装いを珍しげに眺めてはもう一人の天狗に怒鳴り散らかしている。その剣幕に驚いている僕に気づいたのか、はたまた烏天狗が咳払いをしたおかげか、慌てて僕の荷物を取った。
「お待たせしてすんません! 中まで運ぶッス!!」
「ど、どうも……オオルリ、さん」
確か口が悪いのがオオルリという名前だったはずだ。おずおずと頭を下げると、オオルリは意外と人懐っこく笑った。
「オオルリでいいッス!!」
「じ、じゃあオオルリ……」
「あざっす!!」
僕の荷物はオオルリに、冥鬼の荷物はヒスイに預けられた。古民家に招かれた僕達は、烏天狗たちに誘導されるように家に上がった。
お城のような高千穂家の別荘も快適だったけど、やっぱり木造の家はホッとする。
「ふわふわ〜!」
「あの馬鹿よりふわふわだし。触る?」
冥鬼はヒスイの翼が気になるのかぴょんぴょんと跳ねながら手を伸ばしている。ヒスイは冥鬼が触りやすいように翼を冥鬼の頭上に広げていた。
初対面では少し警戒したけど……悪い奴らではない、んだと思う。けれど、安心する前にハッキリしなければいけないことが僕にはあった。
「教えてくれないか? 何で僕たちがここに連れてこられたのか」
障子を開けて客間らしき部屋を見回した烏天狗は『んー?』なんてとぼけて笑う。
……だんだん嫌な予感がしてきた。僕の頭の中に陰陽師狩りという言葉が過ぎる。
もしも、だ。こんな人里離れた山の中で人喰い天狗が居るとしたら……?
「あはは、鬼道殿がオレたちを人喰い天狗じゃないかって疑ってるよ」
「俺もヒスイも人間はまだ食ったことねえッス!!」
「まだってこれから食うみたいじゃん! でもまあ……」
オオルリの一言にツッコミを入れた烏天狗の雰囲気が少しだけ変わる。烏天狗がまっすぐに縁側に近づくと、玄関から下駄を持ってきたオオルリがそれを烏天狗の足元に置いた。ずいぶん歯が長くて歩きにくそうな一本歯だが、烏天狗はそれを履いて、軽い足取りで庭先にポンと降りる。
「そういうことにしといた方がやりやすいか」
そう言って振り返った烏天狗は、鳥の面をつけていても分かるほど楽しげに、不穏な妖気を纏わせて笑うのだった。




