【合宿2日目(昼)】
「相手はつらら女郎の水流紗雪。だいぶ苦戦してたみたいだけど怪我がなくて良かったじゃん」
尾崎先生は、まるで見てきたみたいに言う。僕は尾崎先生を振り払おうとしたけれど、呆気なく腕を掴まれてしまった。
先生のつけたライターの火が、目の前で揺れている。
「な、何言ってるんですか? さゆは僕の友達で……」
「アハッ、楓クンとぼけるの上手いね。俳優になれるよ」
尾崎先生が煙を僕の顔に向けて吐き出した。思わず顔を逸らす僕を、尾崎先生が楽しそうに見つめている。
この甘い痺れは……煙のせいか? 以前病院でも、尾崎先生は煙草の煙を使って……。
「どこまで喋っちゃったの? かんなぎのこと。聞かれたんでしょ?」
先生に煙を吹きかけられた時から、全身に甘い痺れを感じる。目の前がくらくらして、思わず口を押さえるけれど、遅かった。僕は既に煙を吸い込んでいるのだから。
「あの子、何考えてるか分からないし苦手だったんだよねぇ……返り討ちにされてザマーミロって感じ」
「な、何のことです、か。尾崎先生、あなたは……」
ようやく発した声も、呂律が回らなくて言葉になっていたかどうか分からない。
ふう、と煙を吐き出した尾崎先生が僕の肩に腕を回す。
「だからさ、最弱のキミがどーやって無傷で水流ちゃんを返り討ちにしたのか教えてよ」
「──ッ」
意識が遠くなっていく。ダメだ、体の自由がきかない……!
その時、プールから飛沫が上がり、血のように赤い刀が尾崎先生の喉元に突きつけられた。
「貴様、あの女の仲間か?」
「……アハッ、んなわけないでしょ」
尾崎先生がニヤリと笑って、吸いかけの煙草を足元に投げた。
わざとらしく両手を上げた尾崎先生を冥鬼が睨むように見つめている。
「オレは陰陽師でも妖怪でもない。ごくフツーの人間だよ、何なら裸に剥いて確かめる?」
「んなことするか、気持ち悪ィ」
冥鬼はそう言って刀を納めると、ふらついている僕に肩を貸してくれた。
そんな僕たちを、尾崎先生が楽しそうに見つめていて。
「やっぱり、冥鬼ちゃんが楓クンの式神だったんだ? お友達じゃないんだからこんなところに連れて来ちゃダメでしょ〜」
僕は反論も出来ずに目を逸らした。
警戒した冥鬼が尾崎先生を睨んでいるけれど、気にするそぶりも見せない。
僕は目眩を感じて瞼を伏せた。
「……さゆが妖怪って、本当か?」
「オレさまが返り討ちにしたけどな。オマエをつららのアートにしたいとか何とかわけわかんねえこと言いやがってよ」
冥鬼は鼻を鳴らして言った。
それじゃあ昨日、僕の部屋が氷の柱でぐしゃぐしゃだったのは、さゆが僕を襲うためにやったのか……?
信じたくないし信じられない。友達が、さゆが僕を殺そうとしたなんて。
「尾崎先生も、僕を殺すために近づいたんですか?」
そう尋ねると、尾崎先生は肩を竦めて笑った。
「オレ、殺人で捕まる趣味ねーんだけど。って言うか教師だし」
どこまで本当なのか、尾崎先生は軽い調子で言うとおもむろに足を踏み出した。
咄嗟に冥鬼が僕を守るように身構えるけれど、尾崎先生は気にした素振りもなく静かに揺れるプールを覗き込む。
「オレは楓クンを水流ちゃんから守ろうとしてたんスよ? 昨日だって……」
尾崎先生の言葉で、僕は昨夜最後に見たさゆのことを思い出していた。廊下でさゆに遭遇し、ほろ酔い状態で現れた尾崎先生のことを。あの時さゆは不自然なくらい尾崎先生のことを睨みつけていた。あんなさゆを見るのは初めてだったから記憶に残っている。
「あの子は楓クンのこと、ガチで殺ろうとしてたからね」
プールを眺める尾崎先生の横顔は、蜂蜜色の髪に隠れてよく見えない。
呑気にすいすいと泳いでいるカエルのハルだけが、この状況を理解していないようだ。
「学校のプールで楓クンが襲われた時も、オレが助けたの覚えてない?」
尾崎先生の話は記憶に新しい。
学校のプールで怪異が起こり、僕が水中に引きずり込まれた事件。その時に助けてくれたのが尾崎先生だった。尾崎先生は一服してて気づくのが遅れたと言っていたけど、あの時彼は女の人からの電話につかまっていたんだよな……。
「プールの妖怪も、まだ退治されてないんスよね」
尾崎先生の手が、プールをバシャバシャとかき回す。それを見たハルが、すいすいと泳ぎながら近づいてきた。小さな手を伸ばして先生の手につかまろうとした時、やにわに尾崎先生が体を起こす。
「……何が言いたいんですか」
「楓クンは陰陽師でしょ? だったらみんなを守れるくらい強くなってよ」
濡れた手を顔の上にかざしながら笑う尾崎先生は、目眩がするほど綺麗で、不気味だった。
「貴様、一体何が目的だ」
「目的? 楓クンのお手伝い」
尾崎先生は、冥鬼の殺気に満ちた問いかけにも軽い調子で答えてからおもむろに近づいてくる。伸びてきた手が、僕の髪を下からすくいあげた。指に絡めて愛撫するように、尾崎先生の指から髪の束がするりと零れる。
「オレに陰陽師の才能は無いけど、だからこそ力になりたいんスよ。協力出来ることがあったら言って?」
僕の髪が全て尾崎先生の手から零れ落ちた時、彼の手が僕を抱き寄せた。彼がさっき吸っていた煙草の匂いと、尾崎先生が使う香水の匂いが香る。
その甘ったるい声の裏に何があるのか、睨むように見つめ返しても妖しい笑顔が返ってくるだけだ。その目に見つめられていると、気が遠くなりそうで……。
「そ、そんなこと、言われても……」
僕は、彼の視線から逃げるように目を逸らした。耳元で尾崎先生が低く笑う。尾崎先生は一体何が狙いで僕に近づくんだ? 本当に彼を信用していいのか? 何度も過ぎった疑問が再び僕を悩ませる。
「悩む必要ねーだろ、こんな奴」
冥鬼はそう言って乱暴に尾崎先生の体を引き剥がした。けれど尾崎先生は楽しそうにニヤニヤと笑っている。
「楓はオレさまが守る。貴様の出る幕はねーよ」
「オレサマ、ねぇ……」
尾崎先生は笑いをこらえるように口元を押さえると、冥鬼の顎に手を触れた。そのまま有無を言わさず、冥鬼の腰に腕を回す。
「男ぶってるのは自信がないのかな? 女の子の自分じゃ楓クンを守れないから」
そうして、いとも簡単に冥鬼の地雷を踏み抜いていく。彼女の地雷なんて、尾崎先生が知るはずないけど。尾崎先生は舐めるような目で冥鬼を見つめた。
「楓クンが教えてくれないなら、オレが教えてあげようか。キミが本当はかわいい女の子だってこと」
冥鬼の纏う空気が明らかに変わった。まずいぞ、このままだと……。冥鬼がキレたら押さえられない。
「貴様、よっぽど死にたいらしいな」
「待て、冥鬼!」
声を上げる僕のことなど気にも留めず、冥鬼が尾崎先生の胸ぐらを掴んだ。易々と床に押し倒された尾崎先生が顔をしかめる。
式神が人間を襲うなんて、絶対にやっちゃいけないことだ。もしその決まりを破ったら冥鬼は、僕達は──。
「今すぐ貴様をぶち殺して──」
完全に頭に血がのぼっているのか、冥鬼は僕の制止など聞こえていない。いつもより数倍大きく見える赤い刀を振り上げたその時、冥鬼の体から煙が立ち上っていく。
全身を覆った白煙から姿を見せたのは幼い冥鬼だった。
「おにーちゃんをいじめたらダメー!」
尾崎先生の腰の上に跨ったまま頬を膨らませた冥鬼が訴える。
「よ、よかった……」
思わず胸を撫で下ろす僕の傍で尾崎先生がゆっくりと体を起こした。
「いてて……何、楓クンの式神縮んじゃったじゃん」
「そういう奴なんですよ。冥鬼は強すぎるから、普段はその姿で……」
僕は咄嗟に自分の口を押さえた。まだ尾崎先生の狙いも分からないのに、喋りすぎた。
案の定尾崎先生が、おもちゃを見つけた子供みたいな顔で悪戯に笑う。
「なーんだ、じゃあ普段の楓クンは最弱ってことで良い?」
ゆっくりと体を起こして、楽しげに笑いながら胸ポケットからへこんだ煙草の箱を取り出した。
まずい、またあの煙を吸ったら……。
「あ、あのッ……僕、冥鬼を部屋に連れていかないといけないので」
僕は冥鬼を抱き上げて、足早に尾崎先生の横を通り過ぎようとする。けれど、先生の手が僕の手首を掴んだ。
「や、やめ……」
「これだけは言っておきたいんだけどさ」
僕の反応を楽しむようにニヤニヤと笑った尾崎先生は、舌なめずりをして顔を近づけてくる。首筋に熱い吐息がかかって気持ち悪い。今すぐ押しのけてやりたいのに、冥鬼を抱いて振り払うことが出来ない僕には、抵抗することができなかった。
それどころか、耳にふーっと息を吹きかけられて思わず目を瞑ってしまう。そんな僕を、尾崎先生はまた笑っているんだろう。だって、どうせ僕は……。
「マジで、好きな子くらい守れるようにならないとカッコ悪いぜ、陰陽師」
どうせ僕は最弱陰陽師。重くのしかかってくる言葉にさえ、言い返すことが出来なかった。




