【二口女】3
帰宅早々、僕は救急箱を持った冥鬼によって手荒い応急処置を受けることになった。冥鬼は消毒液をコットンに含ませて遠慮なくベチャベチャと僕の額の傷を叩くと、すぐさま包帯を使って顔全体をぐるぐる巻いていく。
「僕をミイラ男にでもする気か?」
「うるせェ! 初めてなんだよ、手当なんか」
包帯でぐるぐる巻きにされながら僕がくぐもった声を上げると、冥鬼は不機嫌そうに唇を尖らせてポイッと包帯を放り投げた。
「反省しろ、馬鹿。オレさまがどれだけ心配……」
「悪かったよ、足を引っ張って」
僕は顔中に巻かれた包帯を解きながら言った。少しふてくされたように聞こえたかもしれないし……実際、ふてくされてた。
冥鬼はそんな僕に舌打ちをして救急箱を足で蹴る。蹴られた救急箱が、僕の足に当たった。
「──ちッ! 本当にな」
ギスギスした空気の中、僕は自分の怪我の具合を確認する。
額の傷はともかく、腹に強烈な一撃を喰らったこれは──内出血程度で済むと思いたいな。未だに鈍く痛むが、痛み止めを飲んでおけば我慢できなくはないだろう。
「オレさまを助けたりしなけりゃ、そんな目に遭わずに済んだのによ」
めちゃくちゃにされた包帯をきちんと元通りに巻き直して救急箱へと収納し、額にガーゼを軽く当ててテープを貼っている僕へ、冥鬼が不機嫌そうな視線を送ってくる。
「そうだな。でも──僕はお前を傷つけたくなかったんだよ」
僕がそう告げると冥鬼はちょっと驚いたのか、目を丸くしてから次第に白い肌を赤く染めてしまった。先程の威勢はどこへやら、明らかにしおらしくなってしまっている。
「あ、ありが……と……」
「何か言ったか?」
「何でもねえよ! ……これ、返す」
冥鬼が投げ渡してきたメモ帳には、汚い字で討伐時間らしきものが殴り書きされていた。
「時間、書いておいてくれたのか……ありがとう、冥鬼……いてて……」
メモ帳を受け取るために上体を捻ると、再び鳩尾が痛んだ。これはきっと明日には痣になっているだろうな……なんて、そんなことを考えながらうずくまる僕を、冥鬼が慌てたように覗き込む。
「だ、大丈夫かよ!?」
「大丈夫……動くと痛むだけだ……」
僕は冥鬼を軽く手で制してから鳩尾を押さえた。少し休めば痛みも和らぐはずだと、そう答えると……冥鬼は心配そうな表情のまま、遠慮がちに僕を抱き寄せる。
「少し……横になれよ。オレさまの膝、特別に使わせてやるから」
そう言って、冥鬼が僕の頭を自分のふとももへと乗せる。僕は冥鬼を見上げる形で、鳩尾を押さえながらゆっくりと呼吸を整えた。
「……ごめん、冥鬼。いつも迷惑……かけて」
軽く鳩尾を撫でながら、静かに謝罪を述べる。何となく冥鬼の顔が見れなくて、視線を天井へと向けた。
しかし、今度は冥鬼が嫌味を言うことも、声を荒らげることもない。
「僕がもっと強かったら、一人で何とかやれたはずなのに……な」
呼吸がしづらくて、息が詰まってしまう。僕は鳩尾を押さえながら呼吸を整えて、小さな弱音を吐いた。
「違うだろ」
僕の独り言を、冥鬼の小さな声が否定する。視線を泳がせて顔を確認すると、彼女は泣きそうな眼差しで僕を見つめていた。
ああ、こうしてみると……いつもの小さい冥鬼の面影があるな、なんて。
そんなことを考える僕に、冥鬼が手を伸ばす。僕の前髪をぎこちなく、けれども優しく撫でた。
「──オレさまが……だったら、もっと上手くやれたのに」
「え?」
肝心な部分が聞こえなかったせいで聞き返すけれど、冥鬼は小さく唇を噛んで何も答えない。
傷の痛みが落ち着いた僕は、メモ帳に今日出会った怪異について簡単に書き留め始めた。
名前は二口女。日熊先生の話によると、以前から鬼ヶ島駅周辺に現れては人間を狙っていたようだ。あの大きな口で襲ってくることは無かったが、主に長い髪の毛を自由自在に操って攻撃してくる方が多かった。
そして──。
(アイツ、探す手間が省けた……って言ったよな)
人を脅かす妖怪は数多く存在するが、陰陽師を狙いにくる奴なんて聞いたことがない。もしくは、あれが特別、陰陽師に深い恨みを持っていたのかもしれないけれど。
彼女が言った『あのお方』という存在も気になるが、既に二口女を倒してしまった今、それを調べる術はない。
「う……」
僕は冥鬼の手を借りて上体を起こし、学ランを勉強机の椅子の背もたれへと引っ掛ける。
一連の動作を見ていた冥鬼は、毛先を弄ったりスカートの端を握ったりしながら、チラチラと僕の顔色を窺うように見つめていた。
「どうした? 何か気になることでもあるのか?」
「べつに……」
冥鬼は何だか気を悪くしたようだ。あからさまに唇を尖らせて子供のように拗ねている。もしかしてまだ僕が無茶をしたことで怒っているんだろうか? 男っぽい割に案外根に持つタイプなんだな……。
なんて思っていた僕は、ふと冥鬼の髪を結っている解けかけのリボンに気づいた。
「冥鬼、ちょっとそのまま動くなよ」
「へ?」
そう言って冥鬼の髪に手を伸ばす。
解けかけたリボンを一度解き、みつあみを結び直してやる。
「これでよし。お前が跳ねようが転がろうが簡単には解けないはずだ」
冥鬼は、僕がリボンを結ぶまで落ち着かなさそうに視線を彷徨わせていた。けれど部屋の中にある姿見で自分の姿を確認すると、みつあみの先に結ばれたリボンを見て目を丸くしていた。
「あ……」
何度もおさげを揺らしたり撫でたりしながら、ヘアスタイルを確かめている。
やがて勢いよく顔を上げた冥鬼は、はにかむように微笑んだ。
「あ、ありがと、おにー……」
そう言いかけた冥鬼の表情が固まる。その顔は、みるみるうちにツノの色と同じくらい赤くなっていった。
「冥鬼?」
「ううううるせえ! お、鬼のオレさまに似合うカッコイイ髪型じゃねーかって言おうとしただけだからなッ!」
冥鬼は慌ててまくし立てると、リボンを弄りながら遠慮がちに口を開く。
「な……なあ、このリボン、明日も……」
「いいぞ、結んでやる」
僕がそう応えると、冥鬼は今度こそ嬉しそうな表情を浮かべてリボンを触った。先程までの仏頂面はどこにいったのやら……。
やがて、その姿は時間切れと共に火の粉となって消え去り、幼い子供の姿へと戻っていく。
みつあみを弄ったままの冥鬼は、嬉しそうに部屋の中を跳ね回った。
「飛び回るほど嬉しかったのか?」
「うんっ!」
冥鬼は即答するなり、僕の足に抱きついて満面の笑みで言った。
「おにーちゃん、だーいすき!」
「ん? ああ」
僕の返事を聞いた冥鬼は鈴の転がるような声で笑い、僕の足に顔を擦り付ける。まるで猫みたいに。
僕がゆっくりその場に座ると、冥鬼が嬉しそうに股の間に座り込んだ。
「ねえねえ、おにーちゃん」
甘えた声で僕を呼んだ冥鬼は、おもむろに手を伸ばして僕の髪を優しく撫でた。
「おにーちゃんは、とってもがんばったから……いいこいいこしてあげる」
そう言ってあどけなく微笑み、丁寧に僕の髪を撫でた冥鬼は、自分の胸に抱き寄せるようにして僕の頭を抱きしめた。
「いいこ、いいこ」
やわやわとした小さな手が、僕の髪を撫でていく。誰かに頭を撫でられた経験なんてそうないはずなのに……何故だか、酷く懐かしい。
母親の愛情にも似て──いや、母親を知らない僕にとって想像でしかないのだけれど、まるで母親に撫でられているような、心ごと包まれるような感覚だった。
「……ありがとう、冥鬼」
僕は、小さな彼女の胸に顔を寄せたまま瞼を伏せる。冥鬼は、ただ静かに僕の頭を抱きしめて優しく撫でてくれた。
この小さい体のどこに、こんな包容力があるのか。いくら本来の冥鬼が僕と同年代くらいの女の子とは言え、今の冥鬼は幼い子供だ。立ち振る舞いだって、精神年齢だってずっと低い。
そのはずなのに──。
僕は、記憶の中にすら残っていない母さんの面影を、目の前の小さな女の子に重ねていた。
いつまで、そうしていただろう。ふと視線を感じて顔を横に向けると、障子の隙間からゴミを見るような目で僕を見ている黒猫の姿があった……。
「楓……今の光景は一字一句、王に報告させてもらうからな」
僕が慌てて頭を上げると、冥鬼は大きな目をぱちぱちさせながら僕の視線を追う。どうやら魔鬼の存在に気づいていなかったらしい。
魔鬼は僕に冷たい視線を送ってから冥鬼の元へと向かい、王の帰還を喜ぶように足に擦りつく。冥鬼はすぐに魔鬼の体を抱き上げて、黒い毛並みを楽しそうに撫でている。
僕はと言えば、中途半端に書き記したままのメモ帳を放り投げて、すかさず誤解を訴えにかかるしかなかった……。