【避暑地の妖しい夜】4
「よかったわね、レンちゃんならきっと元に戻る方法を調べてくれるわ」
「ありがとうございます、ハク先輩のおかげです」
部長の部屋を出てすぐ、安心して胸を撫で下ろしている僕を見てハク先輩が微笑みかけてくれた。
即座に礼を言うと、ハク先輩はちょっと言葉を濁して視線を泳がせる。
「ううん……私、楓くんに意地悪なことしちゃったし」
「意地悪って、ろ……ローションのこと、ですか?」
言いながらさっきのことを思い出して恥ずかしくなってくる。ハク先輩は、遠慮がちに僕の手を握った。
「そう。目の前にいる冥鬼ちゃんは楓くんなんだろうなって何となく分かってたのに、わざと困らせるようなことばっかり言っちゃった……ごめんなさい」
繋いだ手が、熱を持っている。顔を上げると、ハク先輩の頬が少しだけ赤くなっていた。きっと、僕も同じ顔をしているはずだ。
「……もし、僕がハク先輩にローションを塗るって言ったら……どうするつもりだったんですか?」
いつもよりハク先輩との距離が近くて、ドキドキする。もちろん、ハク先輩にローションを塗るなんてそんな恐れ多いことは出来ない。
勇気を出して問いかけると、ハク先輩はキョトンとしてから恥じらうような笑みを浮かべた。
「ふふ……そこまで考えてなかった」
その笑顔はすごく愛らしくて、綺麗で。僕は彼女の笑顔に見とれていた。
やっぱり──僕、この人のことが好きだ。
「……」
「……」
何とも言えない無言の時間が二人の間に流れる。気まずいわけでもなく険悪な空気ってわけでもない。だけど何だ、このムズムズとした空気は。
今、僕が本来の体だったなら……ハク先輩に想いを伝えることができたのかな。
「じゃあ、私はこっちの部屋だから──何かあったらいつでも呼んでね」
「ありがとうございます、ハク先輩」
いや、例え本来の姿でも口にすることは出来なかっただろう。僕はハク先輩に礼を言うと、彼女の後ろ姿を見送った。
さて、どうしようか……。
僕は自分の部屋へと戻る前に冥鬼の様子を見たくて、その場から離れた。本来は僕が泊まるはずだった部屋……鬼道楓の部屋と書かれたネームプレートが下がった扉の前へやってくる。
冥鬼はまだ寝ているだろうか。体調が悪そうだったし、寝苦しい思いをしているかもしれない。
そんなことを考えながらドアノブに手をかけるが──扉が開かない。どうやら鍵がかかっているわけじゃなくて、何かが扉の内側に引っかかってるみたいだ。
「……そうだ、僕は今冥鬼なんだからこのくらいの扉……」
僕は少し力を込めて扉を押し開けようとする。
ほんの少し軋んだ音が聞こえて、扉の隙間からひんやりした冷気を感じた。それでも扉が開く気配はない。
「くっ……何だよ、これ……」
扉を手のひらで強めに叩く。
すると、隣の部屋から赤ら顔の日熊先生が出てきた。
「ヒック……ど〜した冥鬼、ここはお前の部屋じゃあ〜ないだろう……さっさと自分の部屋に戻れ!」
「酒くさ!」
僕は思わず顔を背けた。こいつ……どれだけ飲んだんだよ……。というか妖怪も酒を飲むんだな……。
「こ、このドアを開けてください。僕の部屋……開かないんです」
「なあ〜にを言ってるんだお前……」
日熊先生は眠そうに目を擦りながら怪訝そうに僕を見つめている。僕は深々とため息をついて日熊先生のみぞおちを思いっきり突いた。
「うぎゅう……」
「経緯は省きますけど僕は楓です。中にいるのが冥鬼なんですよ」
「う、うむ……わかった、何が何だか分からんが、もう突くな。口から出そうだ……」
日熊先生はよろめきながら腹を押さえると僕の部屋のドアノブを握ってグッと押すがやはり扉は軋むだけで開かない。
「うーむ……中で何か挟まってるのか?」
「開けられそうですか? 僕の力じゃ扉を壊しそうで……」
日熊先生はおもむろに距離をとると、扉にタックルをした。みし、と中で何かに当たった音が聞こえる。
何回か扉にタックルを繰り返した時、日熊先生の部屋からこれまた酔っ払った様子の尾崎先生が顔を覗かせた。この人たち、同部屋なのか……。日熊先生と一緒の部屋なんて、尾崎先生は嫌がりそうな気がしていたけど一緒に酒を飲んでたなんて意外だ。
「何やってんの〜オッサン、もう少し飲もうよぉ〜。ゴリラの威嚇行動はその辺にしてさあ」
へら、と笑って尾崎先生が日熊先生をからかうが、僕に気づくと満面の笑顔で手を振った。
千鳥足で近づくなり僕の肩に腕を回してくる。
「なーんだ冥鬼ちゃんか……こんな遅くに起きてちゃだめっしょ〜? ヒック……悪い子になっちゃうよ〜……」
「……尾崎先生、失礼します」
僕は小さな声で呟くと、ベロベロに酔っ払っている尾崎先生のみぞおちを指で突く。
尾崎先生は腹を押さえながら膝をついた。
「ッッ……」
「この扉を開けたいんです。尾崎先生も手伝ってください」
腹を押さえて蹲っている尾崎先生を日熊先生が哀れみの目で見つめていた。
「うえぇ……ちょっとオッサン邪魔、退いてくんない?」
尾崎先生は脇腹を押さえながらフラフラと立ち上がると、ちょっと不機嫌そうな声で日熊先生を手で払った。
続けて、尾崎先生が足で扉を思い切り蹴りつける。その姿はまるで、借金取りの人みたいだ……。
「ほーら、開い──」
思い切り足で蹴りつけた扉が開かれる。その瞬間、扉の中からすさまじい冷気が吹き込んできた。
冷気をもろに浴びた尾崎先生の前髪が凍っている。
「……これは、一体どういうことだ」
日熊先生が震えた声で部屋へと入る。それは寒さのせいか、それとも部屋の中の異様さのせいか……おそらく両方だ。
部屋の中は、僕の知っている部屋ではなかった。天井からは巨大な氷柱が何本も生えており、家具や床もびっしり氷が覆っている。
扉にも分厚い氷が張られていて、このせいで扉が開かなかったようだ。
「冥鬼ッ!?」
僕は慌てて部屋に入り、氷漬けのベッドに駆け寄る。けど、そこに冥鬼の姿は無かった。まるで串刺しにするようにベッドから氷柱が生えている。
……まさか、部長に脅迫状を送った奴の仕業か? もしかして、僕を狙って……。
「何かあったのか」
僕のベッドに生えた氷を手で掴んだ日熊先生が険しい顔で言った。ぐっと手に力がこもり、氷がみしみしと音を立てるけれど太い柱は折れない。
「部長が、宿泊者の誰かが死ぬって脅迫状をもらったみたいなんです。もしかしたらそのせいで……」
「なんスか、そのどっかのサスペンスみたいな展開。ウケるわ〜」
尾崎先生が部屋の入口でツッコミを入れる。
「つーか二人ともよくこんな寒い部屋に入れるね……オレ寒いの超無理。夏男だから」
面倒くさそうな顔で部屋を覗き込んでいた尾崎先生は、ふと何かに気づいたように部屋の中を指した。
「あ、窓が開いてるじゃん。まさか窓から飛び降りたんじゃねえっスか?」
その言葉に、僕は氷柱を薙ぎ払いながら窓に近づいた。氷柱は意外と脆くて、手で払うだけでポッキリと折れる。きっとそれは僕の体が冥鬼のものだからだろう。
でもあいつは今……人間なんだぞ。自分の弱さは僕が一番よく知ってる。
開きっぱなしの窓を覗き込むけど、そこには不気味なほど黒い海と砂浜が見えるだけだった。
なまぬるい潮風が僕の頬を撫でて、嫌な予感が胸の中に広がっていく。
「冥鬼ッ!!」
僕の声は、夜の海にかき消されるように消えた。