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【避暑地の妖しい夜】2

 男は煙草の煙を吐き出す。

 一本吸い終わったら寝るつもりではいるが、なかなかその場から動けない。


「合宿──ねえ」


 ぶっちゃけこれただのバカンスでしょ。

 そう呟くと、サウナ室から戻ってきた半裸の男が体から湯気を立ち昇らせながら近づいてきた。


「尾崎、お前まだ起きていたのか」

「アンタはいつまでサウナを満喫してたんスか」


 呆れたように言うと、男はサッパリした顔で笑った。散々風呂に入りたくないと駄々をこねていたのが嘘のようだ。すっかりサウナにハマった獣臭い男に引きずられるようにして浴室に閉じ込められ、慌てて出てきたのが三十分ほど前の事だった。


(夏は好きだけど、不細工男とサウナは無理……)


 ふうっと煙草の煙を吐き出した若い男が微睡んだ。

 火照った熱が引き、心地いい気だるさが体に広がってくる。久しぶりの長距離移動と生徒たちの引率。慣れないことをしたせいか疲れもあった。


「尾崎、さっきから携帯が鳴ってるぞ」

「ああ──それ無視していいっス」


 後ろで大柄な教師が声をかけてくるが、男はしれっとした顔で答えた。


(どうせ無断外泊なんかしたからキョーヤさんからのお叱りの電話。あるいはあのババアだ)


 どいつもこいつも束縛が強めで嫌になる。あどけなさの残る男はため息をついてスマホから目をそらした。そんな彼を、半裸のままの男が不思議そうに見ている。視界にチラチラ入る胸毛が鬱陶しい。


「日熊ちゃんってさ、マジで妖怪信じてないんスか?」

「ふん──妖怪など居るわけがないと何度言ったら分かる」

「……オレ、妖怪だけど」


 煙草の煙を吐き出しながら笑うと、教師の目が丸くなってみるみるうちに青ざめていった。


「な、な、なん……だと……」

「アハッ、嘘だよ」


 衝撃を受けているその顔がおかしくて吹き出してしまう。大柄な教師は全身で安堵を示すように胸を撫で下ろした。


「と、年上をからかうんじゃない!」

「サーセン」


 そして遅れて怒った様子を見せるが、男はとくに気にした素振りも見せずにヘラヘラと笑った。

 放り投げたベッドの上でスマホが音を立てているが、男は気にする様子もなく灰皿に煙草を押し付ける。


「尾崎、俺からも質問いいか」

「ん?」


 気がつくと目の前にバスタオルを頭からかけた暑苦しい男がどっかりと腰掛けていた。

 立派に膨らんだ胸板にはまるで密林のようなもじゃもじゃが生え揃っており、火を付けたらよく燃えそうだな、などとぼんやり思う。

 年の頃は四十代、あるいは五十代くらいだろうか。既婚者か独身か、煙草は吸うのか、そんな疑問が頭に浮かんだが口にはしなかった。

 尾崎九兵衛(おさききゅうべえ)にとって、日熊大五郎(ひぐまだいごろう)という人間は『タイプ』ではないのだから。


「お前はどうして教師になった?」


 タオルを首にかけて日熊が問いかけてくる。

 尾崎はしばらく日熊を冷めた目で見つめた後、やがてわざとらしくゆっくりと足を組んで言った。


「子供が好きだから?」

「嘘をつくな。しかもなぜ疑問形なんだ」


 ため息まじりに日熊が切り捨てる。さすがにこの嘘はバレるか、と尾崎が鼻で笑った。


「お前はむしろ、子供が嫌いだろう」


 日熊はそう言って手を伸ばすと、尾崎の手の中にある煙草の箱から一本抜き取った。

 そして、火をつけろと言わんばかりに煙草の先を向けてくる。


「はあ……何が悲しくてオッサンの相手しなきゃなんないんスか」


 尾崎はため息をついてライターの火を日熊へ近づける。本当に胸毛を燃やしてやろうかと思ったが、後が怖いのでやめておいた。

 サウナ室でも逃げようとするたびに思い切り絞め技を決めてきた男だ。何をされるかわかったものではない。

 大人しく煙草に火をつけてやると、日熊は煙草を咥える。しかし、すぐに大きくむせ始めた。


「ゲホッ、ゲホ!」

「何やってんスか……ダッサいなぁ。アンタ煙草吸ったことないの?」


 激しくむせている日熊にドン引きしながら、尾崎はテーブルを軽く指でコツコツと叩く。


「慣れてないうちは少しずつ吸いなよ」

「い、いや……もういい」


 日熊は涙目でむせながら煙草を灰皿に押し付けようとする。

 すぐに日熊の手から煙草を奪い取った尾崎は、気にした様子もなくそれを咥えた。これ間接キスじゃん、などと思いながら何とも言えない顔で頬杖をつく尾崎を日熊が見つめていた。


「オレね、恩師に憧れて教師を目指したの」


 は、と鼻で笑うが、日熊は笑わなかった。それどころか尾崎の真意を探るように太い眉を寄せて見つめている。

 尾崎は気にするそぶりもなく話を続けた。


「ガキの頃、結構荒んでてさ──あ、オレがじゃなくて周りがね? そんな時に出会ったのが恩師。当時のピュアでチョロい尾崎少年は、先生に恋しちゃったわけ」


 尾崎は煙草をくわえ、煙を日熊の顔に吹きかけてやった。日熊は驚いたように目を丸くすると、むせながら煙を払っている。その行為がどんな意味を持つのか、日熊は理解していないようだった。


「いつか、この人みたいにいじめっ子から生徒を救える先生になれたらなって思った」

「性根がいじめっこのお前には無理だな」


 煙にむせている日熊が不機嫌そうに鼻を鳴らす。尾崎はイヒヒと肩を揺らして笑った。


「ちょっと日熊ちゃんさあ、人が美談にしてんのに台無しにしないでくんない? 泣いちゃうじゃん」


 泣くぞ、と言いながらも尾崎は肩を揺らして楽しそうに笑っている。


「逆に質問すんだけど……オッサンって結婚してんの?」

「してるように見えるか?」


 日熊が咳払いをする。だよねーと尾崎が笑った。

 女に無縁そうな熊……を通り越してゴリラのような男が家庭を持っているところが想像できない。


「学生時代に付き合ってた子は?」

「居ない」


 わざと困らせてやろうと思って問いかけると、日熊はあからさまに嫌な顔をした。やはりこの手の話は苦手らしい。

 尾崎は煙草を取られた仕返しとばかりに質問を続けた。


「じゃあさ、ファーストキスは? 女の子のタイプは? さすがにその年で童貞なわけは無いっしょ? 魔法使い通り越して賢者になっちゃうし──」

「うるさい奴だな……どれも経験はない」


 わざと際どい質問を投げかけてみる。日熊はムスッとした顔のままで答えた。


「マジで? 性欲はヒトの三大欲求なんだけど」

「なら俺は人じゃないんだろうな」


 日熊は、視線を逸らしてペットボトルの水を飲んだ。

 旅行に出発する前に尾崎が自販機で買ったものだ。普段なら、日熊に自分の水を勝手に飲まれたら憎まれ口のひとつやふたつ叩いてやるところだが……。

 尾崎は、日熊の口元に垂れる水を指ですくう。固い無精髭が指にチクチクと刺激を与える。


「じゃあさ、オレで捨てとく? 童貞」


 濡れた指をぺろっと舐めて、挑発的に問いかける。


「……くだらん」

「今の間なに? オレなら抱いてもいいとか思っちゃった?」

「ふざけるな、若造が」


 ニヤニヤしながら問いかける尾崎に、日熊は怒ったように眉を寄せる。

 どうみても四十代半ば、あるいは五十代くらいのむさ苦しい男。相手にしないしタイプでもない。だが……。

 彼の恩師は厳しくて体が大きくて、ちょっと変な臭いがする男。動物園のゴリラみたい、と思ったのを覚えている。本物のゴリラなんて、幼い彼は見たこともなかったけれど。


『俺がお前を助けてやる、九兵衛』


 名前も覚えていないどこかのファミレスで、恩師は大きな手で幼い子供の頭を撫でた。

 狂った家庭環境と、学校でのいじめ。体と心を壊された幼い子供に耐えることは出来なかった。尾崎である自分を、ずっと呪い続けていた。毎日、自ら命を断つことばかり考えていた。そんな少年の支えになったのが恩師だったのだ。

 誰もが見て見ぬふりをする中、涙ぐみながら真剣に話を聞いてくれたのは、この人が初めてだった。


(アンタがずっと一緒に居てくれたら……オレも狂わずに済んだんスかね、日熊先生)


 尾崎は煙草を咥えたまま苦笑した。初恋だった恩師は、かつての教え子のことを覚えていない。こうして対面していてもだ。散々ヒントをあげたのになぁ、と尾崎は思った。

 突然目の前から居なくなった恩師を恨んではいないし、今更執着もしていない。

 この感情を恋だの愛だのと呼ぶには、時間が経ちすぎてしまった。


「全て興味は無い。何度も言わせるな、この話は仕舞いだ」


 日熊はぶっきらぼうに答えると、その話から逃げるように立ち上がった。背を向けて、着替えを取りに向かった日熊の腕を、尾崎は反射的に掴む。

今度こそ迷惑そうな顔で日熊が顔だけを向けた。引き止める気はなかったはずなのに。


「あのさ」


 ただ、もう少しだけ、あと少しくだらないやりとりを続けたかった。

尾崎は、一度口を開きかけてから言葉を選ぶように視線を泳がせる。

無言の時間が続いたことでからかわれたと感じたのか、日熊が眉根を寄せたその時だった。


「オレと飲みませんか?」


 あまりにも言葉選びが拙すぎて童貞のナンパかよ、と内心自分に突っ込んでしまう。


「何を企んでる?」

「企んでないから。そもそも臭いのと汚いのはタイプじゃねぇんだよ」

「そ、そこまで言わんでもいいだろ……」

「アハハッ! オレはただ、副顧問の日熊先生と親睦を深めたいなーと思っただけなんスけどー」


 日熊はちょっと心外そうに顔を歪める。喜怒哀楽が分かりやすい子供のような男だ。

 日熊は怒ったような顔で尾崎を見つめていたが、尾崎が軽くソファを叩くとやがて大人しく尾崎の隣に座った。


「何だ、親睦って」


 仏頂面で日熊が問いかける。尾崎はおもむろに立ち上がって小さな冷蔵庫に近づいた。


「高千穂ちゃんに用意してもらったんスよ。とっておきの酒を用意しておいてくれって」

「酒?」


 そう言って尾崎は、冷蔵庫の中で冷やされた酒瓶を何本か取ってテーブルの上に置く。


「大吟醸に純米大吟醸、芋焼酎もあるっスよ。どれからいく?」


 目の前に並べられた酒瓶をしげしげと眺めた日熊は、やがて太い指で芋焼酎を指す。


「む……では、これを」

「イヒヒ……焼酎ね。じゃあオレも同じヤツにする」


 尾崎はそう言って冷蔵庫から冷えたグラスを取り出すと、中に氷を入れて戻ってきた。

 それぞれのグラスに酒を注いだ尾崎は、日熊へとグラスを向ける。


「何だ」

「乾杯っスよ、乾杯。したことない?」


 日熊は自分のグラスと尾崎を交互に見つめると、大人しくグラスを差し出した。

 涼やかな音が鳴り、二人は同時に酒を飲んだ。


「……うまい」


 一口飲んだ焼酎に、日熊が目を輝かせる。いつも家では柊が飲む安いビールをちょっと舐めさせてもらう程度だったせいか、特に美味しく感じるのだが……さすがにそれは口にしなかった。豪快な日熊の飲みっぷりに、尾崎はグラスを揺らしながら笑う。


「旅行終わったらさ、宅飲みでもしない? 職業柄、お互い遠出は出来ねえけどオレの家だったら良いっしょ」


 酒が入ったせいなのか、尾崎は穏やかな口ぶりで言った。日熊は雰囲気にのまれて頷きかけるが、慌ててまたお得意の嘘かと気づく。


「貴様、誰にでもそういう嘘を言ってると後で痛い目を見るぞ」

「アハハ、もう散々痛い目見てるわ」


 グラスの中の氷を見つめながら、尾崎は琥珀色の瞳を細めた。それに、と穏やかな声が続ける。


「オレ、今夜はもう嘘つかないよ」


 まるで子供のように尾崎が笑う。日熊はそんな尾崎を見て少し考えるような表情を見せたが、すぐに酒を飲み干した。

 相変わらず、ベッドの上のスマートフォンは呼び出しを続けている。その発信先の名は『狗神鏡也』と表示されていた。

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