【避暑地の妖しい夜】1
夕飯はフランス料理だった。見たことも無いくらい豪華な料理がずらりと並び、どれから手をつけていいのか分からない……。とりあえず冷たいポタージュをいただこうかな。それとも夏野菜たっぷりのマリネから手をつけるべきか……。
「それ食わねえんだろ? もーらい」
隣でマナーもへったくれもなく牛フィレ肉を貪っていた冥鬼が僕の皿から子羊のナヴァラン風煮込みを摘む。僕は食事の手を止めて冥鬼に食事のマナーを注意しつつ、せめてナイフとフォークを正しく使うように小声で説明した。
「おい、髪が乱れてる」
「ええ? 別にいいだろ、どうせ風呂に入るんだし」
「そういう問題じゃない。僕がどれだけこの髪に時間をかけて──」
そう言いかけて、僕は咳払いをした。
「お前は髪に時間をかけてるだろ。大切な髪だっていつも言ってた……じゃねーか」
くそ、冥鬼の真似がなかなか上手くいかない。案の定、ゴウ先輩が疑いの眼差しを向けていた。
「なーんか、今日の鬼道ヘンだよなー」
ゴウ先輩がアイスを食べながら僕達を見る。
「髪がボサボサでも気にしねーし、なんつーか挙動のひとつひとつがガサツっつーか……男みてえ」
「はあ? 僕は男ですけど、チビ猫先輩」
冥鬼が楊枝を咥えて肩をすくめる。僕は慌てて冥鬼を押し留めた。
「せ、先輩に対してその口の利き方は止めろ! すみま……ご、ごめん、ネコちゃん……」
「おかしいと言やオマエもだぜ」
ゴウ先輩はネコ呼ばわりされたことも訂正せずに、僕に疑いの眼差しを向ける。
「妙にしおらしいしさ、ずっとそうしてりゃ女らしいのに」
「ああ!?」
僕より先に冥鬼が席を蹴って立ち上がる。
「コイツのどこが女に見えるんだよ。どっからどう見ても男だろうが!」
「めっ……楓、頼むからテーブルに足を乗せるな!」
冥鬼の足を叩いて再三注意をするが、コイツの耳には入ってない。
「お行儀が悪いのはだめよ、楓くん」
ハク先輩がちょっとたしなめるように冥鬼を呼ぶ。僕は血の気が引く思いで、必死の形相で冥鬼にしがみつく。
「ご、ごめん! コイツ疲れてるんだっ! いつもはこんな悪い奴じゃなくて……!」
そう言いながら顔を上げると、アイツの顔は何だか赤くなっている。
「お前、もしかして熱があるんじゃないのか……? 昼間はしゃぎすぎたんだろ」
「うるせぇ……熱なんかねえし」
冥鬼は僕の手を払おうとするがその手には力がない。
「す、すみません! ちょっとこの馬鹿を部屋に連れて行きます! 料理は後で全部食べますから!」
僕は深々と頭を下げて冥鬼の肩に手を回すとまっすぐに個人部屋へと向かった。心做しかさっきよりも熱くなっている冥鬼の体をベッドに寝かせる。
「あっちぃ……」
「やっぱり熱があるんじゃないか……」
僕はため息をついて冥鬼の髪を軽く撫でると自分の荷物の中から冷却シートを取り出してひんやりした粘着部分を冥鬼の額へ貼る。
冥鬼は、ようやく気持ちよさそうに瞼を伏せた。
「……オマエの体、全然思い通りに動かねーじゃん」
「だろうな」
逆に僕は体力が有り余っているし平気で山の頂上まで走れそうだ。これが妖怪の体ってやつなんだろう。
「海、楽しめたか?」
「疲れたぁ〜」
冥鬼のボヤきに、僕は笑ってベッドの端に腰掛けた。
「楓は……ねーちゃんと遊びたいんだろ?」
ふと、冥鬼がぽつんと呟く。
否定も肯定もできずに黙りこくった僕に、冥鬼が笑った。
「早く、元の体に戻る方法……見つけなきゃな」
そう言って冥鬼が寝返りを打つ。僕はボサボサになった冥鬼の髪に手をかけた。
するりと紐を解いて指を通す。
「髪、結い直そうか?」
そう言うと、冥鬼がゆっくり体を起こした。
僕は黒髪を丁寧に梳いていき、冥鬼が好む三つ編みにしていく。冥鬼の手は僕より小さくて、コツを掴むのに苦労した。
「お前、こんな小さい手で戦ってたんだな」
僕は髪を結いながら冥鬼に話しかける。アイツは眠いのか、俯きがちに口を開いた。
「楓みたいになれたら、オレさまはお前よりずっと男らしくなれると思ったのに」
「実際男らしいよ。ハク先輩も喜んでたし……いっそお前が鬼道楓として生きたほうが何もかも上手くやれそうだ」
自嘲気味に笑うと、冥鬼は突然僕の手を取ってベッドに倒した。
冥鬼の瞳には涙が浮かんでいる。細い腕が震えていた。
「……だもん」
そう言った冥鬼は、しゃくりあげながら涙を拭う。
「メイのお兄ちゃんはお兄ちゃんだけだもん」
赤い目からポロポロと涙を零している。その姿が小さな冥鬼とダブって見えた。
僕は、幼い冥鬼にするように頭を抱き寄せる。
「泣くな、その顔は僕だぞ」
慰めの言葉としては適切じゃないけど、僕は冥鬼の頭を撫でてなだめる。冥鬼はしゃくりあげながら僕にぎゅうっとしがみついた。
やがて泣き疲れたのか腕の中で静かな寝息を立て始める冥鬼を、僕はそっとベッドに寝かせるのだった。
「……何だよ、急に泣き出して」
「楓くん」
安堵のため息をついた時、背後から声が聞こえて慌てて振り返る。そこには、扉に寄りかかるようにハク先輩が居た。
「……か、楓は眠っちまった、けど」
「そうなんだ……」
高鳴る胸の鼓動を押さえながら精一杯冥鬼のようにぶっきらぼうに告げる。ハク先輩はにこりと笑って部屋に入ってくると、冥鬼を挟むようにして腰掛けた。
「あんなにはしゃいでる楓くん、初めて見た」
「……は、ハクねーちゃんの水着が見れてテンション上がってたんじゃねーの」
僕は冥鬼の髪を撫でながらそれっぽい返事をしてみせる。
「ふふ……さすが冥鬼ちゃん。楓くんのことは何でも知ってるんだ?」
「そりゃ……」
僕のことですから、とは言えずに僕は口を噤む。うう、もどかしいな……。
「楓くんのこと、大好きなんだね」
ハク先輩が、にっこりと笑った。
すぐさま否定しようとするけど、先程泣きじゃくっていた冥鬼の心情を思うと、首を横に振ることはできなかった。
「……べ、別に……一緒に暮らしてればそのくらい分かるって言うか……」
「そうなの?」
目を逸らそうとすると、ハク先輩のいたずらな眼差しが覗き込んでくる。
僕は自分の顔が熱くなるのを感じていた。ハク先輩が僕の手を優しく握って、ゆっくりと顔を近づけてくる。心臓の音が聞こえてしまいそうで、恥ずかしくて、僕は顔を逸らす。
「……ッ、顔……近く、ないですか」
「うん?」
ハク先輩は僕の顔を覗き込んで優しく微笑んでいた。すぐ傍で先輩の匂いがする。女の子の甘い匂いが……。
「ねえ冥鬼ちゃん、いっぱい日に焼けたからローション塗ろっか」
「へえっ!?」
僕は間抜けな声を上げてしまう。
ハク先輩はにっこり笑ってポーチからピンクのボトルを取り出した。
「これ塗ると気持ちいいのよ。せっかくだから私にも塗ってもらおうかしら」
「だ、ダメですッ!」
僕は自分でもびっくりするくらいの大声を上げる。当然、ハク先輩が驚いて目を丸くした。
「っそ、その……ここには楓もいるし、あの……そもそもここは楓の部屋で……」
「じゃあ私の部屋に行く?」
ハク先輩はおしとやかに、それでも有無を言わさずに僕の腕を掴む。
ハク先輩の部屋!? 二人きり!? しかもローションの塗り合いだと!? そんな、そんなこと、そんなこと、許されるわけない……。
「いや……でも……」
「冥鬼ちゃん、すごい汗よ……」
ガチガチになっている僕に、ハク先輩が心配そうに首を傾げる。
「私の部屋、冷房つけてあるからおいで?」
優しい誘惑が僕の中の悪魔を刺激する。今の僕は女の子なのだからついて行ってしまえと悪い顔で囁く。一方で、僕の中の天使は、いくら女の子の体になったとは言え男の僕がハク先輩の部屋にいくべきではないと訴えた。
当然、僕は……僕の答えは……。
「は、い……」
優しく囁くハク先輩の言葉に抗えるはずなどない……!
天使の囁きを振り切り、とうとう頷いてしまったのだ。