【二口女】2
「探す手間が省けたわ」
そう言った女の髪が、ムチのようにしなって伸びる。冥鬼を呼び出そうとする僕の動きよりも早く、その髪が僕の腕に巻きついた。
「ぐっ!?」
「おにーちゃ……!」
髪に絡め取られた腕が、強く締め付けられる。冥鬼が泣きそうな声を上げて髪にしがみつき、躊躇いなくその髪の毛に歯を立てた。
「がぶーっ!」
「キャッ!」
冥鬼に思い切り噛み付かれたのが効いたらしく、女が叫び声を上げて髪の拘束をゆるめる。
僕はすぐに手に持った札を使って相手の動きを封じようと試みる──が、敵の反撃の方が早かった。
「ぐっ!」
髪が鞭のようにうねり、僕の手から霊符を叩き落とす。続けざまに、鋭利な刃物のように尖った髪先が、札をズタズタに引き裂いた。
「こんなもの、私に効くと思う?」
女は、クスクスと笑いながらゆっくりと歩み寄ってくる。僕の足元に、切り裂かれた札が木の葉のように舞い落ちた。
「ずっと待ってたのよ。陰陽師のほうから近づいてきてくれるのを」
二口女は白いワンピースを靡かせながらゆっくりと僕へ歩み寄ってくる。
突然の出来事に、冥鬼は顔面蒼白でおろおろと僕を見ていた。
「うふふ、しかもまだ子供じゃない。こんなご馳走に出会えるなんてね……あのお方に感謝しなきゃ」
「あの方……? あの方って誰だ」
二口女の唇から伸びた舌が、大きく舌なめずりをする。彼女の髪は、それぞれが意思を持ったかのように束でうねっていた。まるでギリシア神話のメドゥーサみたいに。
「知りたい? なら……良い声で鳴いてみせて!」
ニタリと笑った唇が大きく裂ける。
同時に、鞭のような髪が僕の体に打ち付けられた。
「ううっ!」
小気味いい音を立てて、二口女の髪が僕の肩を殴る。続けて腹、足──。
二口女は、僕を痛めつけて楽しんでいるようだった。
「ほほほ! 簡単に殺したらつまらないものね! ご馳走は最大限に痛めつけてから殺さないと美味しくならないわ」
上機嫌に笑い声を上げた二口女に、僕は距離を取りながら冥鬼に視線で合図を送る。《彼女》を呼び出すためだ。
悔しいけど僕には戦うための力が無い。現状、アイツを倒せるのは《彼女》だけだ。
「冥鬼……」
「あぅ……はうぅ……」
小声で冥鬼を呼んでみるが、彼女は大きな緋色の瞳からポロポロと涙を零しながら小さく震えている。
冥鬼の奴、僕の合図が見えていないのか?
「おにーちゃ……おにーちゃんが、けが……しちゃったぁ……」
冥鬼がしゃくりあげながら僕を見つめている。やがて、冥鬼はおぼつかない足取りで僕の前に立つと、両手を広げて言った。
「や、やめてぇ……ぐすっ……おにーちゃあ、を……ひっく……いじめな、でぇ……」
「あらあら、お兄ちゃん想いなのねえ?」
体をぷるぷる震わせながら僕を庇おうとする冥鬼を見下ろして二口女が笑う。
俯きがちに大きく頷いた冥鬼は、既に声も上げられないほど泣きじゃくっていて痛ましい。二口女はニタリと笑うと──長い髪が鞭のようにしなり、冥鬼に向かって勢いよく振り下ろされた。
「ダメだッ!」
反射的に、体が動いていた。
僕は冥鬼の手を掴んで、素早く後方へと引き寄せる。冥鬼の体が、しりもちをつくようにコロンと転がった。
同時に振り下ろされた髪が、鈍い音を立てて僕の額に叩きつけられる。
「ぐ……ぁ……」
額が熱を持ったように熱い。たまらずフラついて膝をつくと、足元にポタポタと水滴が滴った。
──汗、か?
そんなことを考えながら額を拭うと、ぬるりとしたものが手に触れる。
指先をぐっしょりと濡らしたのは汗ではなく、僕自身の鮮血。
「は、は……」
その血を見て最初に思ったことは、あの攻撃を喰らったのが冥鬼でなく、僕で良かったということ。こんな一撃を幼い子が喰らったら間違いなく即死だ。いや、冥鬼は人間じゃないから即死はないにしても──やっぱりその万が一は想像したくない。
「力加減を間違っちゃった。ごめんなさいね?」
二口女はニタニタと笑いながらそう告げると、今度は僕の鳩尾を狙うようにして髪を叩きつけてきた。
当然、避ける術なんてない。
「が、は……」
激しい痛みで呼吸が出来ない。僕は、崩れ落ちるようにしてその場に倒れ込んでしまう。
呼吸することを忘れるほどの激痛。ぐらぐらと揺れる世界。遠くなりそうな意識──。
体は、懸命に酸素を取り入れようとするけれど、呼吸をするたびに鳩尾がズキズキと痛んで僕を現実に引き戻してくる。
「う……」
骨はやられていないだろうか。僕はこのまま、死ぬんだろうか。
そんなことを考える僕の脳裏をよぎったのは、僕を見下ろす諦めと嘲笑の声。
『最強の子だからといって、マトモな教えも受けていない子供が陰陽師とは……』
『父親共々、永遠に表舞台から消えていれば良かったものを』
僕の胸に、暗く深い呪いを撃ち込んだ言葉たちが渦を巻いた。
ああ、そうか。やっぱり……僕には無理なんだ。
おかしくもないのに笑みが零れる。
急速に体から力が抜けて、指先が冷たくなっていく。
霞んでいく視界の中、赤いエナメルの靴がゆっくりと僕に向かって歩いてくるのが見えた。
冥鬼……か?
「く、るな……」
蚊の鳴くような声では、彼女に聞こえたかどうか分からない。
今の冥鬼は何も出来ない子供だ。
二口女にもう一度襲われたら、あっという間にやられてしまうだろう。札を出す時間も、体力も、集中力すら、今の僕にはない。
「楓お兄ちゃん」
ゆっくりと僕の目の前で膝をついた少女が上体を屈め、僕の頬を優しく撫でた。
「我は古の盟約に従い、力を与える者」
その言葉は、普段のふにゃふにゃとした冥鬼とは違っていて、ヤケにハッキリとした声色だった。朦朧とした意識の中で冥鬼の姿を見ようと目を開ける僕だったが、不意に柔らかいもので唇を塞がれる。
徐々に額の痛みと体の痛みが和らいでいくような、不思議な感覚が全身を包んだ。
「──今一度……人の世に顕現し、貴様の相棒としてこの力を振るおう」
唇が解放されるや否や、すぐそばで冥鬼の声がする。顔を上げた僕が見たものは、キラキラと周囲に舞う火の粉と、赤毛の少女の姿だった。
桃色のスカートをなびかせて、赤いエナメルの靴を履いた僕と同い年か、それよりも年下くらいの女の子。
少女は、大きな緋色の瞳で静かに僕を見つめた後、ゆっくり瞼を伏せてから体を起こした。
二口女が開きっぱなしの口からよだれを垂らしながら冥鬼に歩み寄ってくる。
「貴様……コイツが誰のモノか分かってるか?」
冥鬼が顎で楓を示しながら、底冷えするような声で言った。
そして──。
「……さっきは綺麗なねーちゃんかと思ったが──よく見りゃ不細工な間抜け面だな」
冥鬼が挑発的に二口女の姿を嘲笑う。その眼差しが向けられた時、二口女の表情が変わった。挑発された怒りなんかじゃない。そいつの顔は青ざめていた。
「……あ、あなた、一体何者……?」
二口女の問いかけには答えず、冥鬼が真っ直ぐ前方へ手を伸ばす。紅蓮の炎と共に姿を現した大きな刀が、小さな手に握られていた。
「オレさまは常夜の国の鬼神──冥鬼。名乗ったところで、貴様は此処で死ぬんだ。忘れちまいな」
ゾッとするほど冷たい声に、僕はおろか二口女も顔が青ざめる。冥鬼の全身を纏う妖気は燃えるように熱く、美しい紅蓮の色をしていた。
「楽に逝けると思うなよ」
怒りを含んだ声で冥鬼が告げる。
「う……わああぁッ!」
それまで棒立ちだった二口女が、弾かれたように飛び出した。
先制攻撃を仕掛けようと、鋭利な刃物となった髪の束で攻撃をしようとした瞬間、全てが終わったのだ。
「すぅ……」
冥鬼の唇から小さく息を吸う音が聞こえ、続けて鯉口を切る音が聞こえる。
次の瞬間、二口女の体は見事なまでの細切れに切断されていた。
「──雑魚はさっさと退場しな」
鼻を鳴らして冥鬼が血のついた刀を振るうと、それは鞘ごと炎に包まれて消える。
その無駄のない動作は、血なまぐさい戦闘というよりも、まるで優雅な舞を見ているかのようだった。
いつもながらチートすぎるぞ……。
僕はしばらく冥鬼の華麗な剣さばきに惚けていたが、慌ててメモ帳を取り出そうとした。討伐時間を記録するためだ。
しかし、手が震えてメモ帳は地面に落ちてしまう。
もがくように上体を起こそうとした時、冥鬼によってメモ帳が取り上げられた。
「な、何す……」
「黙れ」
冥鬼は眉間に皺を寄せたまま僕を睨んでいる。
もしかしなくても……怒ってる、のか?
「殺されかけた自覚、ねえのかよ」
冥鬼が静かに、だが怒りを抑えたような声で告げる。その顔は怒りたいのか泣きたいのか、複雑そうに歪められていた。
返答に困っている僕に、冥鬼がやにわに膝をつく。間髪入れずに伸ばされた腕が、僕の首筋に回って抱き寄せられた。
「め、冥鬼……?」
ぎゅう、と抱き寄せてきた腕の中の少女は、僅かに震えていた。
しかしそれも一瞬で、冥鬼は突然僕の体を抱えると地面を蹴って身軽に跳び上がる。
「お、おい! 冥鬼!?」
「舌噛むぜ。家につくまで──静かにしてろ」
冥鬼は不機嫌そうな声で告げると、民家の屋根に何度か降り立つようにして夕陽を背に、僕達の家へと戻るのだった。