自らを殺せてしまうということ……
「全然、怖くないんですけどぉ~」
懐中電灯を振り回すように持っているユウキがヘラヘラと笑った。
「お前ちょっと静かにしろよ。雰囲気ぶち壊しじゃないか」
ユウキのせいで折角の肝試しが台無しだ。
ナンパした女の子達も少し引いている。まあナンパしたのはユウキなんだが。
「お! ここが例の病室じゃね?」
ユウキが懐中電灯を部屋の番号札に向けた。
この廃病院が心霊スポットになった原因の部屋だ。
なんでも病気を苦にした男性が自殺を決意して、ひげ剃り用の剃刀で手首を切って失血死したらしい。死体は朝まで見付けてもらえず、同じ病室だった患者は男性の手から滴る血の音を聞いていたそうだ。
そして、死体が運び出された後にも、男性が自殺した時間になると血の滴る音がし続けた。そんな怪談話に尾ひれがついて、幽霊が出ると噂まで立ってしまった病院は、廃業せざるをえなかったということだった。
「なんにもねぇじゃん」
ユウキの言う通り、廃病院と言っても建物だけがうち捨てられているといった感じで物はほとんど残ってない。
件の病室もがらんとしていた。
「べつに夜逃げしたわけじゃないんだし、使える物は持ちだしたんじゃない?」
「あれ? これって」
女の子の声に振り向くと、備え付けの小さな洗面台の前で何かを見付けたらしかった。
「なになに?」
室内をうろついていたユウキが嬉しそうに駆け寄ってくる。
女の子の持つ懐中電灯は洗面用具を置く台を照らしている。そこにはぽつんと旧式の一枚刃の剃刀が置かれていた。
「うわぁ、こわぁ~」
女の子が2人とも身を縮めていると、ユウキはひょいっと剃刀を手に取った。
「お、おい!」
僕が止めようとするのをよそにユウキは剃刀を観察している。
「誰かが置いてったんだな。数年前の物にしてはほとんどサビてねぇし」
見識を披露しながらユウキは得意そうにネジ部を回して蓋を開いた。
「お! ご丁寧に刃まで入れてやがる」
開いた所から両刃の板状の刃を取り出してみせた。
「もうそのぐらいにしとけって」
「じぶん、うるせぇなぁ~。ごめんね、こいつ冒険心のない常識人でさ」
ユウキに親指を向けられる僕に女の子達は苦笑いする。
「こういう場所の物は気安く触るもんじゃないって話だよ」
「じゃあ、トゥームレイダーやトレジャーハンターはどうなんだよ? あれって墓暴きみたいなことすんじゃん」
「物語と現実をごっちゃにするなよ」
「じゃあ、エジプトのピラミッドはどうすんだよ? 遺跡だって古墳だってあるじゃん」「…そりゃあ、そうだけど」
「あんま気にすんなよ。常識にとらわれてるとなんにもできない人生送ることになるぞ」「経験者みたいに言うな!」
ユウキとの言い合いで暑くなってきた僕は襟巻きに指を突っ込んで首を掻いた。
「ねぇ、なんで君そんなの首に巻いてんの?」
女の子が僕の首元を指差した。
「ああ…これは、その…」
「マンガの真似だよ」
言い淀む僕にユウキが被せるように言う。
「あ、そっちの人?」
「そうそう、最近多いだろ? フツメンのオタクって」
ユウキの適当な説明に僕と女の子達との距離が少し遠くなるのを感じた。
その後、肝試しの本番ということで本当に血の音が聞こえてくるのかと耳をすませてみたが、もちろん何も聞こえてこなかった。
途中で怖くなってしまった女の子の1人が帰ろうと言い出したのでお開きとなった。
「それにしてもよ。自殺とかマジで考えらんねぇわ。俺的にはダサい死に方のワースト5に入るな」
帰りの車の中、お持ち帰りを確定したユウキと女の子2人を降ろす。
「お前もさ、もうちょっと面白い男になれよな」
女の子の肩に手を回すユウキに見送られながら僕は1人で自宅に帰った。
「マジであり得ないんですけどぉ~」
翌日、朝早くユウキからマンションに来るよう呼び出された。どうやら女の子達とエッチできなかったようだ。
「男の部屋に来て酒まで飲んでんのにエロはできねぇとかありえなくねぇ~?」
「面白い男だったからもう少し一緒にいてみたかっただけだろ? 期待しすぎなんだよ」 僕の持ってきたお菓子とジュースをつまみながらユウキはくだを巻く。
「そもそも、そんな簡単に女性と関係持つのもどうかと思うぞ」
「俺はお前みたいに頭固くないんだよ。切っ掛け作ってワンチャンあればそれでいい」
「相変わらず不貞な考え方だな」
「難しい言葉使うなよ頭痛くなるだろ」
お菓子を食べ終わってから2人してダラダラと過ごしているとユウキの携帯が鳴った。
「お! 合コンだ! やっりぃ~」
ユウキがメール画面を僕に見せる。
「お前も来るか? 今なら捻じ込めるぞ」
「悪い、金がない」
「マジで?」
「マジで」
「マジかぁ~」
メールを返したユウキが身支度を始めたので、僕も帰ろうと思った。
「やべ、ヒゲ剃んねぇとダセぇわ」
洗面所に立つユウキに帰ることを伝えようと立ち上がる。
「痛ってぇ!!」
大声がしたのに驚いて洗面所に駆け寄った。
「どうしたんだよ?」
ユウキが腕を押さえてうずくまっていた。
「クッソ! ありえねぇ!!」
見るとユウキの手首に剃刀の板刃が切り込んで立っている。かなり深く刃が入っていて流れるように血が溢れていた。
「な、何やってんだよ! 取りあえず救急車呼ぶからな!」
緊急連絡を済ませた僕は洗面所にうずくまったままユウキの手首にタオルを当てて止血した。
「これは刃は抜かない方が良いかもな」
強く抑えるとみるみるうちにタオルは赤く染まっていく。
「お前、何してたんだよ?」
「こいつが壊れやがったんだよ!」
ユウキが顎をしゃくったのはあの廃病院で見た剃刀だった。
「なんでこんなもん…、まさか持って帰ってきたのか?」
「こいつで剃ろうと思ったらいきなり壊れやがって、飛び出した刃が手首に落ちてきたんだ。そしたらサクッて入りやがった!」
「んな訳あるか、こんな軽いもん」
「実際、入ってんだろうがよ!!」
「ああ、わかったから、取りあえず落ち着け…」
ほどなく救急隊が到着した。現場処置を終えて救急車で搬送されるユウキに病院まで付き添った。
夜にユウキのお母さんが病院に来たので入れ替わりで自宅に帰った。
翌日の昼頃、僕はユウキのマンションを片付けていた。
昨日は急いで出てきたので鍵しか閉めてなかったからだ。
ドアを開けた瞬間、部屋の熱気に混じった血の臭いに鼻を突かれた。窓もドアも開け放して、床で固まってしまった血をタオルで拭き取った。
そして、洗面所の床に転がっていた剃刀を持ち上げる。蓋の部品が取れていて、中に刃はない。
いくら鋭いからって、剃刀の刃があんなに深々と入るか?
それにしてもこんなもん持って帰ってくるなよ。
「捨てておこう」
洗面所の床から顔を上げて見た鏡のむこう。
鏡に写る僕の顔の後ろに、もうひとつ顔があった。
周りをくまで真っ黒にして落ちくぼんだ目に、べっこりと頬の痩けさせた男の顔。
「うぅっ!!」
ぞっとして振り返りながらその場に尻餅をついた。
誰もいなかった。
だが、さっき掃除したはずの床に、ぽつんぽつんと赤い血が滴っていた。
その血は玄関にまで続いていた。
ユウキのことが気になった僕は病院へと急いだ。
受付に行くと面会謝絶になっていると言われる。
なんとか担当医をつかまえてユウキの容態を尋ねた。
手術をしてもなお傷口からの出血が止まらなくて輸血しながら治療しているそうだ。
「それで、あいつどんな感じですか?」
「どんな感じと言われても、私も1人の患者に付きっきりというわけにもいきませんのでねぇ」
「意識があるなら、話くらい出来ませんか? 少しでも精神的に助けになると思うんですけど」
「ユウキくんは今、絶対安静ですので、もし興奮させて出血を早めると回復が遅れる可能性もありますから…」
それ以上はのらりくらりと取り合ってもらえなかった。
僕はユウキの病室を探し出した。
面会謝絶と張り紙がされたドアに手をかけるとあっさり開いた。
病室はユウキの部屋で嗅いだのと同じ血の臭いがした。
点滴の透明な液体の代わりに赤い輸血バッグから伸びるチューブにつながれたユウキがこっちに目を移した。
「おう…、来てくれたのか?」
ユウキの声にはいつもの力がない。顔色も陶器のようで活力の失せた白さだ。
「思ったより大丈夫そうだな」
僕は元気づけようと思ってそう言った。
「そう見えるか?」
「ああ、見える」
「そうか、なら良かった」
言葉づかいまで弱くなっているユウキとしばらく話をした。
その間に、行かなければという決意が固まった。
そろそろ行こう。
「帰るのか? もうちょっといてくれよ。お前がいてくれると気が紛れるんだ」
「すぐ戻ってくる。ちょっと待っててくれ」
そう言って僕は病室を出ようとした。
「…おい」
ユウキの声に振り返る。
「どうした?」
「汗疹に気をつけろよな」
おどけた調子でユウキは僕の首に顎をしゃくる。
「ああ…、ありがとう」
僕は襟巻きのシワを伸ばすと、急いであの廃病院にむかった。
僕の耳にはぴちゃっぴちゃっという音がまとわりついていた。
ユウキは切った方の手をベッドから出した状態にされて、流れ出す血を床に置かれた洗面器に落としていた。
病室にいるあいだ、ずっと聞こえていた血の音が、移動する車の中でも鳴っているような気がした。
廃病院についた僕はこの前とは違うと思った。
音が響かない。なのに落ち着かない。
濃い霧に包まれているような、なのに人混みの中にいるような嫌な感覚だった。
病院の中に入るとムッとした空気に包まれた。
外よりも湿気が多い。歩くと空気が身体をなすってくるようだった。
僕はあの病室に足を早めた。
不思議と早足になった途端に湿気を感じなくなった。
自分の足音が前方にだけ響いてる。
何かが道をあけているようなそんな気がした。
あの病室に辿り着き、ゆっくりとドアを開ける。
室内に足を踏み入れると、何かがそこにいるのを感じた。
目に見えるものじゃない。
異様な圧迫感と温度の塊が目の前に立っていた。
声も音も聞こえないが、僕は今、そいつと向かい合っている。
「あんたはあいつを勘違いしてる」
何も聞こえない。
「あいつが自殺をダサいって言うのはバカにしているわけじゃない」
返事はない。
「じゃなきゃ僕を止めたりしない」
僕は首から襟巻きを外した。
目の前の気配が身じろぎするのを感じた。
僕の首には一生消えない跡がある。
社会人になって2年目の時、世の中という物がようやく分かって嫌になった僕は自分で自分の首を縛った。
内側から上がってくる血液が頭に溜まってきて、眼球と唇がぴりぴりと痛みだす中、手に持った遺書と自分の行いの惨めさに涙がボロボロと出できた。
そこにやって来たのがユウキだった。
僕が住んでる安アパートの鍵をあっさりと開けて入ってきたのだ。
僕のありさまを見てユウキはこう言った。
〝おう、元気そうだな! 会社辞めて飲みに行こうぜ!〟
「あんただって、止めてくれる人がいたら自殺なんてしなかっただろ? 病気が治らなくても最後まで生きたんじゃないのか?」
僕の声が闇に溶け込むようにして消えていった。
それと同時に僕を包んでいた異様な空気もすぅっとなくなっていく。
残るは目の前の圧迫感だけとなった。
「あいつを殺さないでくれ。自殺を止める人なんて僕はあいつ以外に見たことがないんだ」
そいつはまだ目の前にいるようだったけど、さっきまでの圧力はもう感じなかった。
もう何も言えなくなってしまい、僕はうつむいてしまった。
何を偉そうに言ったところで、好きこのんでここに来たのは僕たちなのだ。
事情も知らずに、文字通り土足で踏み込んで彼らの場所を荒らしたことに違いは無い。
僕は頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。どうか許して下さい」
僕はそいつの気配がなくなるまで頭を下げ続けた。
空が明るくなり始めた頃、携帯の震えで目が覚めた。
振動音が響く部屋には、もうあの気配はなくっている。
ぼうっとしたまま着信に出ると、ユウキのお母さんだった。
ユウキの出血は深夜に止まったらしく、傷口が塞がりしだい退院できるそうだ。
僕は廃病院を出たその足でユウキの病院にむかった。
ユウキの病室からは張り紙は外されていて、中には思った以上に元気そうにしているユウキがいた。
「よお、けっこう遅かったな。すぐ戻るって言ってたのによ」
「ああ、思った以上に時間がかかった」
ユウキは何だか全部知っているような雰囲気だった。
「俺、悪いこと言っちまったんだな」
「ああ…、そうだな」
「謝りに行かないとなぁ~」
「いや、謝っておいたから。もう、ああいう場所には行かないでおこう。むこうだっていたくていてるわけじゃないんだろうし」
ユウキも僕も思うところを思い出してしまい、しばらく交わす言葉がなかった。
「俺さぁ…」
と、不意にユウキが口を開いた。
「自殺ってどんな気持ちなのかようやくわかったよ」
ユウキは手首に巻かれて血を滲ませた包帯に目をおとしている。
「自分の血が徐々に減っていくのが、滴っていくその感覚と音で知らせてきてよ。痛みとどうしようもない不安感で頭ん中がぐちゃぐちゃになるんだよな。
でもよ、自殺する人ってその痛みや不安感を味わってでも死にたいって思ってて、それくらい人が作るこの世の中ってのが嫌になってるんだよな…」
哀しそうに顔をかげらせるユウキを見ながら、僕は首の跡を隠している襟巻きを軽く撫でた。