この世は地獄だ
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カズと会うのは、高校卒業以来だった。
ランチを食べに出たオフィス街で、オレはTシャツにジーンズという妙に浮いた人影に目を引かれ、不意にそれがカズだと気が付いた。
「カズ!」
考えるより先にオレは声をかけていた。
カズが立ち止まり、高校時代と変わらない屈託のない笑顔を浮かべた。
「おお。久しぶりだな」
オレたちは少しばかり立ち話をした後、飲みに行く約束をして別れた。しかし、そんな約束はするべきじゃなかったと、オレは今、後悔している。
「会社を辞めた?」
素っ頓狂な声でオレは叫んだ。
慌てて辺りを見回して声を潜める。
オレとカズがいるのは、オレの通勤途中の駅にある居酒屋だ。
「まぁな」
カズがジョッキを口に運ぶ。
カズは成績も優秀だったがそれ以上に社交的で行動力があり、東京の大学を卒業した後、誰もが知っている大企業に就職したと聞いていた。あいつならさもあらんと、軽い嫉妬を覚えながら納得したことを覚えている。
一方のオレは、名もないIT会社に潜り込むのがやっとだった。
もっともSEという職種がオレには合っていたようで、なかなか楽しい毎日を送ってはいる。
「なんで」
「よくあることさ。上司がひどいヤツでね。仕事ができないくせに口だけはエラそうなことを言う、責任は部下に被せて手柄だけ自分のものにする。それで嫌になってね。今は嫁の実家で農業を手伝っているよ」
「お前が?そんな理由で?」
「おかしいか?」
「ああ」
と、オレは頷いた。
オレの知っているカズは、正義感が強く、自分が理不尽と感じれば相手が誰でも遠慮しなかった。高校時代には生徒会の自治を巡って学校と対立し、全国的なニュースになった程である。
「お前なら、逆に上司を追い出すまで戦うんじゃないかと思うよ」
「よく判ってるじゃないか」
どこかからかうようにそう言って、カズはしばらく視線を落として考え込んでいた。
「お前には、本当のことを話してもいいかな……」
「何を?」
カズがオレに視線を戻す。
「オレが会社を辞めた本当の理由だよ」
-2-
「変なことを聞くようだけどさ」
ジョッキを手にしたままカズが言葉を落とす。
「なんだよ」
「お前、地獄って、ホントにあると思うか?」
「……地獄?」
予想もしなかったセリフに、オレは馬鹿みたいにカズの言葉を繰り返した。
「ああ。高校の頃、お前と話したことあったの、覚えてないか?地獄なんて本当にあるのかなって」
「そういえば」
少し記憶が蘇ってきた。
「地獄があるとしたら、どれぐらいの広さがあるのかとか、話したかな……」
「それだよ。ダンテのすり鉢状の地獄とかさ、今の世界の人口からすると、とても狭くて使えないって話、しただろう?」
「よく覚えてないなぁ」
「お前、この世は地獄みたいだって思わないか?」
話が飛んだ。
「え」
「ちょっと考えてみろよ。戦争してる国、それも内戦中の国なんて酷いもんだぜ。犯罪だって同じだ。日本はそれほど酷いのは少ないけど、ちょっとネットで調べれば世界中に口にするのも躊躇われるような犯罪が溢れてる。
地獄みたいな……って表現をよく使うけど、この世って本当に、どこか地獄みたいなところがあるって、思ったことないか」
何と答えればいいか判らず、オレはカズの顔をただ見つめていた。
「オレが会社を辞めた理由だけどな、会っちまったからだよ」
「会ったって、誰に」
「誰に、じゃない。地獄の鬼にさ」
-3-
「上司がひどいヤツだったって言ったろ?それで会社を辞めたって。上司がひどいヤツだったっていうのはホントなんだ。
でも、お前が言った通り、オレはそんなことで辞めたりしないよ。
それに、さっきは誤魔化したけど、そのひどい上司というのはオレの直属の上司じゃなくてね、隣の課の課長だったんだ。
でも、傍から見てても酷くてさ。
ちょっとしたことで怒鳴る。怒鳴り声に怯えて、怒鳴られていない若い子が何人も辞める。人格を否定するような暴言を吐かれて、自殺までした若いヤツだっていた。それなのに上は何も言わない、配置転換もされない。
だったらオレがなんとかしてやろうって思ってね。ま、お前の言う通り、上司を追い出すために戦おうって決めた訳だ。
で、その課長に徹底的にいびられている年配の社員がいてさ、まずその人に話したんだ。オレが一緒に戦いますって。だからパワハラで訴えましょうって。でもその人は言葉を濁してうんと言ってくれないんだ。仕方ないんです、当然です、とか言って。
どうにも我慢できなくてね、パワハラの証拠を押さえるために盗聴器を仕掛けた」
「……どこに」
「もちろん会社。会議室とか、トイレとか。あ、当然だけど、女子トイレなんかには忍び込んでないぞ」
「お前」
正義感が強いとは思っていたが、ここまでだったとは。いや、高校時代の騒動では、実際にはやらずに終わったものの、校長室を占拠しようとまで主張したヤツだ。
コイツなら何をやっても不思議じゃない。
「凄いと、言っておくよ」
カズが苦笑する。
「ちょっと呆れてるだろう、お前。ま、いいけどよ。
で、その盗聴器で聞いちまったんだ。課長と、課長にいびられている人の会話」
「……何を話してたんだ?」
「課長が実は、地獄から来た鬼、だって」
「会話の内容からすると、課長は地獄から出向して来ているってことだった。いびられていたのが罪人で、責め苦を受けるために地上に送られて来ていたんだとさ。だから仕方ないとか、当然だとか言ってたんだ。
高校の頃に話した通りなんだよ。
世界の人口が増えすぎて地獄が狭くなって、最近は地上に地獄の出張所を作っているらしい。
地獄の連中が戦争を起こしているって意味じゃないぞ。人間が起こしている戦争を利用しているだけなんだ、ヤツラは。
地獄の誰かが気付いたんだな、地獄は狭くなっちまったけど、なんだ、地上も地獄と同じじゃないかって。それで、紛争地なんかで亡くなった心のきれいな人の魂を神の御許に救い上げて、空いた身体に罪人を押し込んでいるんだってさ。
詳しく聞いたところじゃあ、時間の中をループさせて、何度も何度も死なせて苦しませているらしいよ。
怖い話だよな」
「詳しく聞いたって、誰に?」
半ば答えを予想しながら、オレは訊いた。
「課長その人に決まってんだろ。盗聴したデータを聞かせたら教えてくれたよ」
「おいおい」
「映画みたいだったぜ。こう、課長の額から角が生えて来たんだ。流石に腰を抜かしかけたぜ。ま、平気なフリをしてたけどな」
「無謀にもホドってモンがあるだろう」
「いやあ、課長も同じことを言われたよ。でも、オレの無謀さに免じて見逃してやるってさ。それに、こんな話をしたところで誰も信じないだろうって」
カズがオレの顔色を窺う。
「でも、お前なら信じてくれそうだし、他の誰かにしゃべったりしないと思ったんだ。
どうだ、信じてくれるか?」
「信じるよ」
オレはビールを飲みながら頷いた。実際、疑う気持ちはまったくなかった。
「嘘をつくにしても、お前ならもっと上手い嘘をつくだろうし、盗聴器を仕掛けたとか、妙にリアルだったからな。お前なら如何にもやりそうだ」
「褒めたんじゃないよな?」
「もちろん」
カズが満足したように笑う。
「ま、信じてくれたんなら続けるとしようか。
課長が担当してたのは精神的な責め苦で、努力をぜんぶ否定して、人格を徹底的に否定し続けるんだとさ。
かなりきついよな。それって。
その課長が言ってたんだが、鬼ってヤツは人を苛めるのが仕事だし、こっちに来ているヤツはみんな単身赴任させられてるからいつもいつもイライラしているんだと。だから罪人以外の人間を苛めてしまうことも良くあることらしい。もし自分が罪人じゃないって認識があるんなら、理不尽に苛められ始めたらすぐに逃げろ、だってさ。
課長自身、いつかお前をイビり倒しそうだってオレに言ってた。こう、牙を剥き出して笑いながらな。
だから、オレは仕事を辞めたんだ。
お前もさ--」
カズがビールを喉に流し込む。
「もし、会社で理不尽なメにあって辛い思いをしているなら、転職を考えた方がいいぞ。ひょっとすると、上司が本物の鬼かも知れないからな」
「会社は楽しいよ」
オレはそう言った。
カズがどこか安心したように笑う。
「それなら良かった」
「ああ」
そう頷いて、オレは苦いビールを喉に流し込んだ。
会社は楽しい。
ただし、会社は、だ。
-4-
オレは自宅マンションのある最寄駅のひとつ手前の駅で電車を降りた。
残念ながら健康のためとかじゃない。
自宅には、社内恋愛の末に愛し合って結婚した妻がいる。
子供は、まだいない。
結婚する前にはいつも笑顔だった妻は、いつからかほとんど笑わなくなった。家事を手伝っても手伝わなくても彼女の口から出てくるのは文句ばかりで、そして毎晩のように、子供が出来ないのはオレのせいだと、彼女はオレを理不尽に責めた。最初の頃は笑って聞いていたけど、彼女の不満が少しずつオレの中にも溜まっていって、最近はオレも笑えなくなっちまった。
この世で一番落ち着いて安心できる場所。
それが自宅だと、結婚するまでは思ってた。
帰り道の途中にある小さな公園に入り、薄汚れたベンチに腰を下ろす。
残業するのが当たり前の生活だが、たまに早く帰れる日でも、いつもここで時間を潰してから帰るのがいつの間にか習慣になっていた。
カズの話がオレの脳裏から離れなかった。
「……努力をぜんぶ否定して、人格を徹底的に否定し続ける、か……」
この世にあるという地獄。
それは意外と、オレのすぐ近くにもあるのかも知れない……。