1話 はじまりのはじまり
夢を見た。
開けた視界に映りこんでくる世界は、見渡すだけでここが夢の中の世界であるとわかる。それほどに美しい世界だった。
見える世界に終わりはなく、どこまでも続く地平線が見える。
その彼方では終わりに近づいた夜が代わりに産まれようとする朝に微笑んでいる。ふと足元に視線をずらすと一面の白に自分の素足。そよ風に舞い上がる命の雪を両目のレンズで捉え、ここが花畑であるとわかる。咲き乱れる花はすべてが真っ白で、まるで一面の雪景色みたいだ。
だが、やはり夢なのだ。こんなにもたくさんの花に囲まれているにもかかわらず全く匂いなどわからないし、そよぐ風も素足で踏みしめる地面の感触だって感じない。
疑問はない、ただ少しでも長くこの空間にいたいという思いだけがはっきりと実感できることだった
***
「はぁ・・・」
昔から特に理由もなくため息をする癖が自分には合ったが、今日は珍しくこのため息にも理由があった。
「黒井」と書かれた可愛らしい名前シールの張ってある机に突っ伏している若い男性。特徴的な凛々しい綺麗な目、日本男児としては平均的な背丈にやや痩せ気味な身体は灰色のスーツに覆われている。
「黒井似流」と書いて「くろいにる」というのが彼の名前だ。変わった名前であることと親しみやすさからたいていの人は初対面でも「ニル」と呼ぶ。
「どうしたのニル君、そんなぼけーっとして。・・・寝不足?」
コーヒーを片手に隣の席に着く女性がニルの脱力加減に声をかける。ゆったりとウェーブを描く茶髪は腰まで伸びている。地味だが整っている顔つきはどこか落ち着いた雰囲気を醸し出している。大量の本で埋まる机のどこにコーヒーを置いたものか思案しているこの女性は新川愛華という。
「いや、昨日見た夢がすごい綺麗な夢だったもんでさ。ついつい。」
「乙女かお前は。」
「なんだよー」と不服そうなニルに微笑みながらコーヒーに口をつける愛華。
「ため息はいいけど、あんまり生徒の前ではしないようにね。ほら、ため息をつくと幸せが死ぬとかいうじゃない。一応教師なんだからさ。」
「一応って地味にひどいな・・・」
ニルの職業は教師である。担当は世界史だ。ちなみに愛華は古典担当。
彼女は積まれていた本の中から一冊抜出しパラパラとめくりながら、
「ため息といえばまた出たね、通り魔。今月でもう三度目。私も帰り道のことを考えるとため息つきたくなるよ。」
「通り魔か、まだ捕まってないんだっけ。おっかない町になったねぇこの町も。」
最近巷を騒がせている「通り魔事件」はこれまでに三人の被害者を出している。いずれも死傷者はないものだったが、
「暗い夜道でさ、刃物を持った男がゆっくり近づいてくるんだよ?斬りつけられた子が恐怖で足がすくんじゃってるのをじっと動かず見つめてるんだって。怖すぎない?」
「日が暮れたら外に出ないように生徒には言い聞かせてるけど、私らも気を付けないとうかつにおつまみさえ買いに行けないね。困ったな。」
「・・・ずっと気になってたけどさ、ニル君ってなんで一人称私なの?いや別に全然いいんだけど。」
「特に理由はないよ、しいていうならなんとなく言いやすいからかな。」
「ふーん?」
別に男が「私」というのはおかしな話では全然ないのだが、なんだか愛華は釈然としないようだ。
「まぁとにかくさ、君も気を付けなよ。い・ち・お・う・非力な女性なんだから」
「まるであたしが非力じゃないし女性でもないみたいな言い方だなァ?辞書と接吻したいならそうしてやってもいいけどォ?」
「すみません言いすぎました」
「全くもう・・・」といいながら手にした分厚い本をおろす愛華を思わず苦笑いしながら見る。
今夜起こる恐怖の、ほんの二時間前の出来事は同僚との和やかな談笑で終わった。