2・ニュクスさん、ヒマを持て余す
僕の置かれた状況を簡単に言うと同棲してる、という事になるのだろうか。いいや、しゃべるペットを飼っている、という方が正しいかもしれない。
「明徳、朝だよ。ぐずぐず寝くさってないで、とっとと起きて私のために稼いできなさい」
「いつもそうやってやる気を削ぐような言葉で起こすのはやめてくれませんか、女神さん……」
目が覚めたらほぼ全裸の異性が横たわっている。こう表現するとなかなか平常心ではいられないだろうが、僕はこの人を女として見たことはない。確か説明したと思うが、欲求に蓋をされた様な感覚に陥るのである。
「あんたは本当に覇気ってものがないわね。もう何百人か何千人か忘れちゃったけど、今まで見てきた人間の男の中で無気力ランキングナンバー3ぐらいかしらね」
「へえ、それは光栄です。どんな事であろうと順位が上の方になるのは嬉しいですから」
女神さんは人間の寿命の数百倍は生きられるらしく、あまりにも永い時間を持て余してしまい、時々こうやって転がり込んではヒマつぶしをしているらしい。
いったい何歳なんですか、と聞いたらそんなだからあんたは女に縁がないのよと一蹴された。失礼な人である。否定はしないが、あくまで今のところはその通りなだけなのだ。
「人間の世界もずいぶん平和になったのねー。まあ、この国は特にそうみたいだけどさ。なーんかせっかく来た意味が無いって感じ。つまんない。明徳、この私を笑わせてみなさい」
「上司でもないのに命令しないで下さいよ」
「はい、まったく面白くない。罰ゲームでぇす」
「臭っ?! ちょっと、いきなり何するんですか女神さん!」
女神さんは床に置かれた僕のパンツを広げ、いきなり顔面に押し付けてきた。自分の体臭とはいえこれはたまらない。こういう事に使われるのだから、さっさと洗っておけば良かったのだ。
顔を洗ったところで拭くものならあるよとまた同じパンツを押し付けようとしてきたので、咄嗟にかわす。さっきペットを飼ってる様なものだと言ったが、ペットの方がましだろう。
なぜなら、犬だろうが猫だろうが、ご主人様の顔に汚い布を押し付ける事は出来ないからだ。しかもバクバク飯を食ったりしないし、頻繁に臭いオナラもかまさない。何より見ているだけで癒される愛玩動物とは対極の存在である。
「男として生まれたからには、もっと女の子を喜ばせる技術を磨きなさい。魅力的な男性っていうのはね、みんなそこが秀でていたのよ」
「ちょっ、ちょっと?! 今度は何してるんですかあなたという人は?!」
突然ベルトを外され、せっかくはいたズボンを脱がされた。こんな小学生レベルの悪戯をする様な人が技術だのなんだのと、何を言っているのだろうか。せっかく早起きできたのにまた時間を潰されていく。
「いい加減にしてください、怒りますよ。早くズボンを返してください、こら、待って。あなたはいったい何がしたいんですか?」
「ヒマつぶしだよ、強いていうならそれかな。さあ本気で私を捕まえてごらんなさい、おーっほっほっほっほっ。神様であるこの私に、たかが人間が追い付ければの話だけどね」
普段はあまり意識していないが、こういう時に彼女が人ならざる存在……すなわち神様なのだという事を実感させられるのだった。
体を変形させて、いつも身に纏っている黒布とまるで溶け合うかの様に一体化させ、ワンルームの狭い空間を自在に飛び回る。ズボンとそれを持っている手だけはそのままなので、知らない人が目撃すれば怪奇現象以外の何物でも無かった。
目にも止まらないほどの速度ではないにせよ、高いところまで逃げられたら手も足も出なくなる。悲しい、どうしていつも邪魔されなきゃいけないんだ。3ヶ月ほど前までは平穏だったのに。
正直なところ、退屈ではあった。恋人もいない、友達も少ない。家と会社の往復、休日は近くのラーメン屋に行くぐらいしか楽しみが無かった生活。特に贅沢をしたい訳でもないが、物足りなく味気ない日々。
それを見事にぶち壊してくれたのがこの人だった。いつもの様に帰ってきて鞄を置いたら、何やらはみ出ていた。あの黒布である。マフラーかと思ったが、買った覚えのない色。
というかその時は秋頃だったのでまだそれほど寒くもなく、マフラーが必要な時期ではなかった。
警察に届けようとしたら、突然ふわりと浮き上がったのだ。それだけでも腰を抜かしそうだったが、そこから女神さんが出てきたので失禁してもおかしくないほど驚いた。
「初めまして、ニュクスだよ。夜の女神。特技は喧嘩の仲裁。よろしくね」
結局ずるずると住み着かれた。拾ったというか、勝手に転がり込んできやがったのだ。冗談みたいでまるで夢みたいな話かもしれないけれど、実際に体験した事なのだ。
「どうしたの? もう諦めるつもりなのかしら。あんたはもっと女の子に貪欲になるべきなのよ。異性に興味を無くした人間なんて、生きる屍も同然なんだから」
「はぁっ……はぁっ……か、勝手なことばっかり言って……本当にいい加減にしてくださいよ、遅刻しちゃうじゃないですか。これじゃ、何のために早起きしたのか分かんないですよ」
僕と女神さんの不毛で下らなくてどうしようもない鬼ごっこは、十分近く続いたのだった。とうとう捕獲できず、飽きた女神さんの方からやめるという情けない結果である。
「いい運動になったでしょ、明徳。寒いのに汗ばんでるわ、普段からろくに動いてないからそうなるのよ。たまには走ってきたらどう? 一緒に遊んであげてもいいわよ」
「まったくもう……そうやって、引っ掻き回すのはやめてくださいよ……はぁ、はぁ。確かに運動不足ですけどね……大きなお世話です、自分の、健康は……自分で、管理っ、しますから……」
たかが鬼ごっこくらいで息が上がるとは思わなかった。その気になれば、人間は広さなど関係なくエネルギーを効率よく消費できるのかもしれない。だが、失った時間を考えると、やっぱり無駄で不毛としかいえなかった。
「あーあ、行っちゃうんだ」
「休めって言うんですか? 無理なお願いですね。あなたに1日付きまとわれたら参っちゃいますから。大人しくしてて下さいよ」
「うん……わかってるよ、変なことはしないから」
ようやく出勤できそうになると、途端にしおらしくなった。別に悪戯したのを反省しているという訳じゃない。いつもの事なのだ。いなくなると、こういう態度になる。
「今日も遅くなるの?」
「さあね。会社に行ってみないと分かりません。まあ、たぶん残業しなくても大丈夫だと思います。あれ、もしかして寂しいんですか?」
「調子に乗るなっ! だ、だっ誰がお前みたいなひょろひょろした覇気のないネギやろうなんかがいなくなって、寂しがったりするもんですか。神様をなめるんじゃないわよ」
僕のほっぺに中指と親指を食い込ませ、悪態をつく女神さん。自分は人間よりも偉いんだぞ、と言いたげなのが痛いほど伝わってくる。分かりやすいのだ、この人は。
会社にはこうして感情を率直に、飾ったり気取ったりせずぶつけてくる様な人間はいない。何百年か、あるいはもっと永く生きているはずなのに、わがままを言う子供みたいだった。
「じゃあ、行ってきます」
ドアを開けようとしたら、袖をつかまれた。まだ何か言い足りないのだろうかと振り向く。
「……いっ、行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます」
うつむいて、目を逸らしながら小さな声でつぶやく女神さん。
これが初めてじゃないのに、僕はいつも思う。男っていうのは、バカなんだな、と。
~続く~