ちょっとした進化
幼い頃から、死ぬことがたまらなく怖くなることがあった。自分の存在が無くなる、何も考えることができなくなる、それが永遠に続く、そんなことを考えると怖くて怖くて何も手につかなくなった。そんな感情は大人になっても何回か襲ってきた。そんな僕が、あの時は自ら死に向かおうとしていた。
自殺の方法として、電車への飛び込みを選んだ理由は何だっただろう。一瞬で終わりそう、準備がいらない、最後ぐらい人に思いっきり迷惑かけてやろう等々、いろんな思いが交錯していたと思うが、今となってははっきりしない。そもそも自殺しようと理由すらはっきりしない。部下のミスが原因で12年勤めた会社を解雇されたこと、その直後5年付き合っていた彼女に振られたこと、その後の転職活動で10社連続書類選考に落ちたこと、36回目の誕生日を誰とも話さず過ごしたこと、貯金が残り42円になったこと等々、今となってははっきりしない。そんなふわふわした感じだったからか、僕はホームに佇み、何台もの電車を見送っていた。通勤の時間帯も過ぎ、だんだん人がまばらになってきていた。このままでは駅員にも不信がられてしまう、次こそと意を決して一歩踏み出した僕は、何となく顔を挙げた。向い側のホームに喪服姿のひとり女性がいた。彼女は、全身を硬直させ、目を閉じ、恍惚とした表情をしていた。それは、僕の数少ないセックス経験、数多いアダルトビデオ鑑賞経験では見たことのない淫靡で美しい顔だった。飛び込むはずだった電車が通り過ぎると、彼女はいなくなっていた。知らない間に僕のペニスは硬直していた。同時に僕の中の死神は消え、死ぬことがまた怖くなった。それが僕としずくとの出会いだった。
頭の片隅に常に彼女の姿を置きながら、僕は1年半を生きた。なんとか就職できた小さな広告会社で、年下の上司に怒鳴られ続けるような毎日だったが、死にたくなるようなことはなかった。
ある日、会社の得意先の偉い人の父親がなくなり、僕も葬儀に駆り出された。広い会場の片隅で、会ったこともない人間が葬儀に出てるって、故人はどんな気持ちだろう、そんなことをぼんやり考えながらあたりを見回していた。僕のいる場所のちょうど反対側の隅の椅子に彼女はいた。駅のホームにいたときと同じ喪服を着て、同じ表情をしていた。僕は彼女から目を離すことができなかった。やがて彼女は目を開け、僕と彼女の視線はぶつかった。彼女は一瞬驚いた表情をし、すぐに立ち上がりその場を去った。僕は彼女を追いかけ葬儀場を飛び出した。道路に出て辺りを見回すと、足早に地下鉄の階段を下りて行く彼女の姿が目に入った。僕は何年ぶりかの全力疾走をした。PASMOを叩きつけるようにして改札を抜けた僕はホームで彼女の姿を探した。彼女は1年半前と同じように反対側のホームに立っていた。
「すみません!」
僕は周りも気にせず叫んだ。彼女が顔を上げた。
「少しだけ、少しだけ時間ください!あなたは僕の命の・・・」
轟音と共に電車が入ってきて、僕の声はかき消された。
「あなたは僕の命の恩人です」
僕はうつむきながら、もう一回静かにつぶやいた。電車が去り、静かに顔を上げると、彼女はまだそこに立っていた。そして僕にそっと微笑みかけてくれた。僕は2度目の全力疾走をした。
近くの喫茶店に入った僕たちは、簡単にお互いの自己紹介をした。彼女の名前は水森しずく、建設会社の受付嬢をしているとのことだった。年齢は30代前半ぐらいで、喪服を着ているせいか、長い黒髪のせいか、静かな話し方のせいか、しとやかでおとなしい印象を受けた。しずくは1年半前の僕のことを覚えていた。
「ほんと、2度もあんな恥ずかしいところをお見せするなんて・・」
しずくは頬を赤らめうつむいた。
「そんな、とんでもない・・・僕、あの時・・・」
「わかってます」
「え?」
「感じるんです。他人の、なんというか、負の、なんというか、オーラみたいな・・・」
「え?」
「私、特殊な人間なんです」
その後、彼女は堰を切ったように話し始めた。話を聞いてもらえることが嬉しくて仕方のない様子だった。彼女は自分のことを『LE』と呼ばれる進化した人間の一人であると言った。『LE』とは『Little Evolution』、ちょっとした進化という意味で、日本に数百人、世界だと数万人はいるらしいが彼女自身も何人いるか正確にわからないとのことだった。人間の体内では、脳からの指令が細胞への伝達し、筋肉を動かす際に電気を発生させている。それはいわゆる気配を感じるという時の気の正体といわれている。彼女達『LE』はその気を異常に感じ取ることができるらしい。しかも彼女の場合、人が絶望的な気分になったとき発する強い気を、性的興奮に近い物として感じるのだという。僕はうなずきながら彼女の話に耳を傾けていたが、それは完全に僕の理解の範疇を超えていた。恋愛小説が急にSF小説になったような感じだった。それでも僕は彼女の話を信じた。それほど彼女に惹かれていた。一気にしゃべったあと、コーヒーをひとくち飲み、彼女はぼそりと呟いた。
「私、怖いんです」
「怖い?」
「知らない間に、不幸な人を探しているんです、自分の快楽のために。今日もこうして知らない人のお葬式に・・・」
彼女の少し潤んだ瞳を見て、僕は自分でも驚くぐらいキッパリと応えた。
「いいんじゃないですか」
「え?」
「いいと思います。人なんかみんなそうですよ。週刊誌だって、テレビのワイドショーだって結局不幸な人探してるんですよ。それ見てみんなで喜んでるんです、大差ないですよ」
「でも、私、このままだと自分で、犯罪とか」
「大丈夫です。僕が何とかします。しずくさんのために不幸な人探してきます」
「そんな・・・」
「おねがいです、どうしても役に立ちたいんです」
僕は深く頭を下げた。顔を挙げたとき、彼女は困った顔をしていたが、僕の目を見て微笑んだ。
「じゃあ、もしお暇なときがあれば・・・」
「ありがとうございます!」
「こちらこそ」
僕は今までの人生で一番美しい笑顔を見た。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
聞きたいことは山ほどあったが、ぼくはひとつだけ彼女に尋ねた。
「『LE』って他の人と、なんか、体とか、違ってるところあるんですか?」
彼女は黙って両手を合わせた。
「右手の薬指が、左手より少しだけ短いんです」
確かに彼女の右手の薬指は、左手の薬指より、関節の半分ぐらい短かった。
早速次の日から、僕の不幸な人探しが始まった。まず手始めに自分の勤めている会社の中から見つけようとしたが、普段あまり人付き合いをしていないためかなり難航した。結局見た目で勝負するしかなく、経理部の年齢40歳、独身、体重約100キロ、かなりの薄毛の男に声をかけた。彼は突然の僕からの食事の誘いに驚いたが、人から誘われることが少ないようでOKの返事をもらった。夜、会社の近くの蕎麦屋に、二人で入り、先に呼び出していたしずくの後の席に座った。当然会話が盛り上がるはずもなく、男二人でただひたすら蕎麦をすすった。結局沈黙に耐えきれず、30分ぐらい出店を出た。彼と別れた後、僕はすぐに蕎麦屋に戻り、しずくの前の席に座った。
「どうでした?」
しずくは、静かに首を振った。人は見た目ではわからないものであることを改めて知らされた。彼は彼なりに人生を楽しんでいるのであろう。しずくは、ふと3つ離れた席に座る一人の男を指差した。彼は成績優秀で、30才にして最近部長に昇進し、できる男として会社でも有名な男だった。確か最近子供が生まれたという話を聞いた。気がつくとしずくは、例の恍惚とした表情になっていた。僕は慌てて立ち上がり彼女を隠そうとした。本当に人は見た目ではわからない。
不幸を闇雲に探していくことに限界を感じた僕は、事件、事故、火事などの情報収集をすることにした。興味のなかったSNSのアカウントも取り、時間さえあればパソコンの前にいた。警察無線が傍受できるものも探したが、かなり難しいらしく断念した。情報を得たらしずくを拾って、すぐに現場に駆けつけることができるよう中古で車も買った。今までの人生で、こんなに積極的に行動したことはなかったんではないかと思う。
ある日、近くのマンションで麻薬所持で逮捕者が出るとの情報を得て、急いで、しずくと現場に向かった。着いたときは、正に手錠をかけられた犯人がパトカーに乗り込む瞬間だった。これは大物ゲットだとしずくを見たが、まるで何も感じていない様子だった。残念に思い、車を出そうとした瞬間、しずくの表情が一変した。しずくの目線の先には、逮捕される夫を見つめる女の姿があった。事故現場に駆けつけたときも、しずくに快感をもたらしたのは、被害者の家族であり、加害者の家族だった。
その日、僕としずくは火事現場に来ていた。みんな『LE』なんじゃないかというぐらい大勢の野次馬が、嬉しそうな顔をして、見世物の燃える家を見つめていた。おそらく人生をかけて建てたであろう一軒家が燃えて崩れ落ちていく様を眺める中年男性の顔を見て、しずくは絶頂を迎えていた。炎に照らされるしずくの表情を見て僕は満足していた。しかし、しずくは突然表情を変えた。しずくの視線の先には、ひとりの若い男がいた。
「健也!」
しずくは叫んで、男に向かって走り出した。それに気づいた男は野次馬をかき分け逃げ出した。僕も慌ててしずくの後を追った。野次馬を抜け出し、10メートルぐらいしたところで、しずくの足はもつれ、その場に倒れた。
「しずくさん!」
駆け寄った僕にしずくは懇願した。
「お願いです、あの人追ってください!」
ぼくは、遠くに見える男を全力で追った。しかし、普段から運動不足の僕に追いつけるはずもなく、あっという間に見失った。しずくは、転び方が良くなかったらしく、しばらく松葉杖が必要になった。病院のあと、喫茶店で、僕は逃げた男について聞いた。
「弟です、もう5年ぐらい会っていませんでしたが」
しずくは絞り出すような声で続けた。
「おそらくあの火事は健也の仕業だと思われます」
しずくの弟の健也はしずくより3歳年下で、しずくと同じように人間の負のオーラで性的興奮をする『LE』ということだった。健也は、はじめのうちは、しずくのように葬式巡りをしたり、裁判所へ行ったりして不幸な人間を探していたが、徐々に満足できなくなり、ついに自分で不幸な人間を作り出すことを始めた。端麗な容姿を利用して女性を騙し、多額の借金を負わせた上で、ゴミのように捨てたり、主婦とその娘の両方と関係を持ち、家族を崩壊させたりした。5年前、しずくに問い詰められ、家を飛び出した。
「何とか、あの子止めてください、お願いします、こんなこと頼むのどうかしてると思いますが、あなたしか頼る人がいなくて・・・」
あなたしか・・・そんなこと言われたことのなかった僕は、完全に舞い上がり、次の日には興信所をはしごしていた。
一週間後、最初に依頼した興信所から連絡があった。健也の住んでいるアパートを見つけたとのことだった。僕は教えられた住所にすぐ向かった。都心から少し離れた、築三十年は超えているであろう古い木造アパートだった。人気のない廊下を歩き、教えられた部屋番号の前まで来た。表札はない。思い切ってノックしてみたが返事はない。恐る恐るドアノブに手をかけた。予想に反してドアノブは右に回り、ドアが開いた。僕は吸いこまれるように中に入った。部屋は散らかっており、壁には新聞記事、写真などが満遍なく貼ってあった。よく見ると、今まで僕がしずくと見学した、事件、事故、火事の記事も多く見受けられた。貼ってある写真はそれらの関係者の物らしかった。それらの記事を食い入るように見ていた僕は、突然の後ろからの強い衝撃を頭に受け、意識を失った。
鼻を突くようなガソリンのにおいで目が覚めた。目の前で見知らぬ男がタンクの中に入ったガソリンをまいていた。
「あっごめんなさい。目、覚めちゃいました」
男は僕に気付き、満面の笑みで話しかけてきた。僕は生まれて初めて狂った目というものを見た気がした。しばらくして男がしずくの弟の健也であることを理解した。声をだそうとしたが出ない。猿轡に使われているタオルの布の味が口に広がった。立とうとするが身体も動かない。僕は見たこともない部屋、というより小屋の真ん中で、椅子にしばりつけられていた。
「なんか、ほんと、俺、暴力とか、殺人とかやなんだけど・・・」
健也はガソリンをまきながら話し続けた。
「しずくがどうしてもって言うからさあ・・・」
「健也!なにしゃべってんの」
女の声がして、ドアが開いた。しずくが入ってきた。全身合羽を着て、手に包丁を持っていた。顔はしずくだったが、中身は別人のような気がした。
「そういうの、全部私が言うって言ったじゃん」
「ごめんごめん」
健也は作業を続けた。しずくは僕を見て、微笑みながら近付いてきた。
「ごめんなさいね、まあ、なんというか、こういうことなの」
僕は頭をフル回転させ、自分が騙されていたこと、そして、命が危険であることを察知した。全力で身体を動かそうとしたが、動けず、僕は椅子ごと仰向けに倒れた。僕をのぞきこむしずくの口からは淫靡な吐息が漏れていた。
「あーいいわ、あなた、やっぱり私と相性いいわ」
しずくは、包丁の刃を舐めまわすように見た。
「ほんと、ごめんなさい」
そう言うと、しずくは表情を一変させ、包丁を僕の腹に思いっきり突き刺した。一瞬時が止まり、すぐに激痛が僕を襲った。
「いいわ、もっと・・・もっと絶望を感じて」
血だらけになって感じているしずくの後ろで、健也はおどけた表情で、僕に向かって手を合わせていた。左右の薬指は同じ長さだった。
僕は最高に淫靡で美しい顔を見ながら、意識を失った。
〈完〉