白うさぎ
『白うさぎ』
「あ、先生。もうすぐ例の女の子の回診の時間ですよ」
「ああ、もうそんな時間か・・・・・・」
時計を見ると、精神科医であるルイスは机の隅に立てかけてあるファイルを一つ抜き取ると、それを片手に立ちあがる。首に聴診器を掛けると、ルイスは看護師を連れて廊下へと出た。
すれ違う患者や看護師の挨拶に笑顔で応えながら、ルイスはこれから診察に向かう少女の事を思い出す。突然、公園で同世代の子供達を包丁で刺した少女。最初は少年院へと連れていかれる予定だったのだが、その子が口走っている言葉があまりにも意味不明で、その時ルイスが呼ばれたのだ。
警察と掛け合い、常時見張りがいる状態で今少女はこの病院に入院している。自殺した少女の母親も最期まで娘が別人になってしまったと泣いており、ルイス自身も時折熱に浮かされたように少女が呟く言葉に疑問を抱いていた。
「対価を渡して夢が叶った――か」
少女の病室にはルイス一人しか入らない。看護師は突然刃物を振り回し友達を刺してしまった少女を怖がっているからだ。この精神科は犯罪を犯してしまった子供などの精神のケアなどにも取り組み、割とそういう危険な子供が隔離されている病院でもあるのだが、少女は幼すぎた。それに、いつも浮かべている不気味な笑顔を誰もが怖がってしまっているのだ。まるで、人ではないようなその笑顔に。
「・・・・・・やあ、気分はどうだい?」
出入り口であるドアを見張っている警察に一言言って、ルイスは病室へと入る。この精神科の病室は全て窓にも格子が入れられており、見方さえ変えてしまえば監獄のようにも見える。そんな格子の間から空を見つめていた少女は、ルイスの声にゆっくりと視線を動かした。
「調子は良さそうだね。少し、脈を測らせてもらうよ」
簡単に少女の体の具合を確かめ、分かったことをカルテにメモすると、ルイスはそっとそれを丸椅子の足に立てかけるようにして置いた。膝の上に肘を置き、前かがみになるような体勢でルイスは指を組む。少女は目元に笑みを浮かべたまま、そんなルイスの動作をじっと見つめていた。
「さて・・・・・・今日は君の夢を叶えてくれた場所のことを、教えてくれないかな?」
「・・・・・・ばしょ?」
「そう。君は夢を叶えてもらった。魔法使いになるという夢を」
「うん・・・・・・そうだよ。だから何でもできるの」
抑揚のない声だが、意識がないわけではない。自分の意思で、自分の考えを少女はちゃんと述べている。傍から聞けばうわごとのそれを、ルイスはそう考えていた。
「じゃあ、君の夢を叶えてくれたのは誰だい?」
「・・・・・・ねずみさん」
数週間かけて、ようやくルイスは少女からここまでを聞きだした。この病院に連れてこられた当初は、魔法使いのことしか少女は話さず、ろくに会話も成り立たない状態だったのだ。
「どういうねずみさんなんだい?」
「・・・・・・みためじゃないの。おなまえがねずみさんだったの」
「名前がねずみ?面白いね」
少女の神経を刺激してしまわないように、少女の機嫌が変わってしまわないように慎重に、慎重に、だが少しずつ会話を進めていく。
「じゃあ、どういう見た目をしてたんだい?」
「・・・・・・おとこのこ。みみのない、おとこのこ。すごくねむそうで・・・・・・ああ、ちぇしゃはヤマネとよんでいたわ」
「ちぇしゃ?・・・・・・耳がない?」
初めて聞く単語と、飲み込みがたい言葉。その意味を尋ねようとするが、それから少女はそのことについては話してはくれなかった。
「今日の進歩は耳のない眠そうなヤマネと呼ばれる男の子がねずみで、あの子の夢を叶えた。そして――」
ちぇしゃという名前。これはどこかで聞いたことがなかっただろうか。そう、それは随分と昔、まだ自分が医者に成りたてだった頃、その時受け持っていた患者との会話の中で。
「・・・・・・ちぇしゃ・・・・・・」
ぽつりと呟き、背もたれに全身を預ける。そこで、ルイスの意識は途切れた。
* *
「本当に良いのぉ?アリス。・・・・・・君がそう言うんなら、僕は案内するだけさぁ。うん、分かったよ」
誰もいない、何もない真っ暗な空間で独り言のようにぼそぼそと呟いていたチェシャの周りに、ぼんやりと明かりが灯る。その灯りに照らし出されるかのように、徐々に周りの風景が浮かびあがり、やがてその風景はチェシャがいつもいる市場の入り口へと変化した。
袖に覆われた手を口元に当てたまま、チェシャはぼんやりと石畳を眺める。
「君が望むなら――」
「ここは・・・・・・」
年若そうな男性の声が聞こえ、チェシャは下げていた視線を上げる。誘いの森の出口には、白衣を羽織った一人の男性が佇んでいた。今までのアリスと同じように、不思議そうな表情でアーケードに刻まれている文字を見つめており、何度か見たことがあるその男性に、チェシャはすっと目を細めた。
「うつろ、市場・・・・・・?」
気付いたら薄暗い森の中で、適当に歩きまわっていたのだがまるで導かれるようにしてこの場所に出てしまった。四十年ほど生きてはいるのだが、こんな森や市場は聞いたことがなく、ルイスは一体どうしてしまったのだろうかと指先で目を押さえた。
こんな不気味な夢を見るほど、疲れが溜まってしまっていたのだろうか。そんなことを考えていると、突然白衣をくいくいと何かに引っ張られた。
「・・・・・・君は?」
「僕はチェシャって言うんだぁ。こんばんはぁ、ルイスセンセイ」
「チェシャ・・・・・・?」
その言葉に覚えがあるルイスは、眉根を寄せてチェシャを見つめた。だが、こんな奇抜な格好をしている少年に見覚えはなく、ルイスはさらに頭を混乱させる。見覚えがないというのに、なぜこの少年は自分の名前を知っているのだろうか。
「どうしたのぉ?」
にやりと笑いながらチェシャは首を傾げる。その声に我に返ったルイスは、いや、と短く返して市場を覗きこんだ。
「ここは?」
「ここはうつろ市場って言うんだぁ。願いを叶えるための市場だよ」
「願いを叶える・・・・・・?ここに、お客は来たことがあるのかい?」
ルイスの質問にチェシャは笑うだけで、答えようとはしない。だが、ルイスはそのチェシャの表情を見てはっとなった。チェシャの笑顔と今受け持っている少女の笑顔がとても似ていたのだ。三日月を描いたような目と口元。普通の人間らしからぬその笑顔だが、チェシャには目を疑いたくなるほどその笑顔が似合っている。
「たくさん、沢山来たよぉ。ところでセンセイ、君は探しに来たんじゃないのぉ?」
「探しに、来た?」
「正確には知りに、かなぁ。――この市場のことを」
「私が?この市場を知りに?」
チェシャの突拍子な発言に首を傾げながらも、ルイスは不思議と、その言葉に同意することが出来た。そうだ、私はここのことを知りたい、知らなければならない。
「僕はこの市場の案内人。だから、案内してあげるよぉ。そして、最後には連れて行ってあげる」
「・・・・・・どこへ?」
「センセイが望んでいることを叶えてくれる場所に、さぁ。さあ、ついておいでぇ」
にやにやと笑うと、チェシャはくるりと半回転して歩きだす。それに続いて、ルイスもゆっくりと歩き出した。ルイスの腰ほどしかチェシャの身長はないため、必然的にルイスの歩調はゆっくりなものになる。かといって、チェシャは歩調を速めるつもりはないらしく、おかげでルイスはしっかりと市場を見学することが出来た。
「そこは帽子屋。扱ってるのは有機物とか、実在する「物」だよぉ。噴水のところはハンプティっていうおじさんのテリトリーで、ハンプティが扱ってるのは「命」さぁ」
「帽子屋にハンプティ・・・・・・」
チェシャに言われ帽子屋に目をやると、灯りが漏れる窓の傍で何かがごそごそと動いたような気がした。きっと帽子屋の店主があそこにいるのだろう。次に、市場の中央にある噴水を見上げる。立派なそれからは、綺麗な水が絶え間なくあふれ出し、静かな広場に涼しさを提供しているように見えた。
下から上へと銅像を眺めてみると、銅像のてっぺんに片足だけのふくよかな体格をした男性がちょこんと座っていた。被っていたシルクハットをぱっと持ち上げ、にこやかな笑みを向けられる。その笑顔に引きつった笑みを返すと、ルイスは何も見なかったことにしてチェシャの後を追いかけた。
「そこのホテルは「夢」を扱ってるよぉ。その隣の崩れかけた壁の中には、トカゲが住んでる。トカゲが扱ってるのは「地位」さぁ」
他の建物よりはひときわ大きいが、ホテルとしては小さい部類に入るであろう建物。見た目も質素で、以前出張の時に帰れなくなり急遽泊ることになったホテルに似ているなぁと思いながらルイスはホテルを眺めた。
足を進めるにつれてホテルの前を通過し、元々壁があったのだろうか、崩れたレンガがその隣には積み重なっていた。かろうじて壁の形を保っている部分もあるが、軽く触れただけで壊れてしまいそうな危うさがある。確かに、がれきの山ならばトカゲのような生き物にとっては丁度良い住処だろう。
「奥に見えるお城には、女王様がいるよぉ。まあ、名前ばっかりで別にこの辺りと統治してるっていうわけじゃないけどねぇ」
「そうなのか?」
「首を集めるのが趣味な偏屈さんだよぉ。取り扱ってるのは「愛情」さぁ」
「首を・・・・・・集める・・・・・・?」
夜の暗さも手伝ってか、一瞬は荘厳に見えたそれもチェシャの言葉で不気味なものへと変化する。あの大きなお城に生首が飾られているところを想像したルイスは、身震いをした。
「そっちに見えるおもちゃ屋は「絆」を扱ってるよぉ。店主は双子さぁ。そっちの肉屋は「肉体に関するもの」だよぉ。まあ、ちょーっとばかし店主さんは変だけどねぇ」
「確かに、願いが叶う市場というのが納得出来る品揃えだな・・・・・・」
「・・・・・・ちなみにぃ、僕が扱ってるのは「過去と未来」さぁ。さあ、センセイ、ここが最後のお店だよぉ」
「・・・・・・時計屋?」
チェシャが最後にやってきたのは、レトロな雰囲気のある時計屋さんだった。看板にも時計がはめ込まれているが、針は動いていない。もちろん、ショーウィンドウに飾られている時計もだ。
無言でチェシャはドアノブに手を掛ける。ぐっとチェシャが腕に力を入れると、ぎいっと軋みながらドアはゆっくりと来訪者を中へと迎え入れた。店内の壁という壁に大小さまざまな掛け時計が飾られ、置時計や柱時計などの時計が所せましと並べられている。だが、やはりどの時計も針は動いてはいなかった。
「白ちゃーん、センセイが来たよぉ」
「白ちゃん?」
「白うさぎだから白ちゃんさぁ。あ、きたきたぁ」
どたんばたんと騒がしい音が店の奥から聞こえ、何かが崩れ落ちたような音が響く。積み上げられた時計の山でも崩れたんだろうねぇとチェシャはのんきにつぶやき、ルイスはそのあまりにも大きく盛大な音に、逆に白うさぎのことが心配になった。
「ったたたた・・・・・・チェシャさんじゃないですか!久しぶりです!ってわー!え?もしかして先生!?うわあ!初めまして!」
頭にたんこぶを作りながら奥から現れたのは、ルイスよりも若干年下に見える男性だった。大人しそうな風貌とは裏腹に、顔をしかめたくなるような大きな声で忙しく挨拶をする青年。白髪に赤い目をしているその容姿は、確かに白うさぎを連想させるものだった。
ただちょっと格好が変わっており、派手な色をしたスーツに肩掛け鞄ではなく、肩掛け時計を掛けている。そして、白うさぎはハンプティと同じように――いや、ハンプティとは反対の足が無かった。
「うわわわわっ!先生がいるっていうことは、もしかしてもしかしてかい?チェシャさん!」
「うん、全然意味が分からないねぇ。もしかしても何も、別にないからぁ」
笑顔で耳を塞いでいるチェシャに、白うさぎは肩をすぼめてごめんごめんと謝る。そのやり取りを、ルイスはただ呆然と眺めていることしかできなかった。
「まあ、ここに来たっていうことは先生にも願いがあるっていうことだよね?先生は特別サービスだから、対価無しで売ってあげるよ」
「――ちょっと待ってください、その対価って何なんです?この市場は一体何なんですか?」
ルイスの言葉に、きょとんと白うさぎは首を傾げた。
「え?対価は対価です。貴方がただって買い物をする時にはお金を払って物を貰うでしょう?それと同じように、叶える願いと同等の対価を支払うのがこの市場の決まりなんですよ」
「この市場は願望を叶えてくれるのさぁ。さっき取り扱ってる品を説明しただろう?普通のお店では絶対に手に入らないものを与え、本来なら決して叶うことのない願いを叶える代わりに、対価を貰うんだよぉ」
「では、例えば、ですよ?私が親友を生き返らせてほしいと頼めば、それが叶うということなのか?」
ルイスの声は真剣そのものだ。白うさぎはその真剣さが理解できずにさらに首を傾げ、チェシャは小さく息をつく。
「そうだよぉ」
「その対価は何になる?」
「そうですね・・・・・・私の分野ではないのですけれども、まあ貴方に近い存在である方の命や、それに相応するものでしょうか。ねえ?チェシャさん」
「・・・・・・そうだねぇ」
「そんな・・・・・・」
そんなことがあるだろうか。いや、でもチェシャは言っていた。今まで多くの客がこの市場を訪れたのだと。つまりは、一度や二度ではないのだ。
「・・・・・・魔法使いになりたい。そういう夢を持っていた少女がここに来たことは?」
「――前にどんな客が来たのかは教えてやれない。このルールは絶対だよ」
チェシャの口調が突然固くなり、少年とは思えないほどの重みがあるその声に白うさぎはびくりと体を震わせる。ルイスはぐっと唇を噛むと、難しそうな表情をした。
「私が願っていることにここは応えられると君は言ったね?それはどうして?」
「センセイにとってはありきたりな事だったのかもしれないけど、それだけで今自分を保って生きてる者がいるのさぁ。そのことを思い出すことが、センセイが知りたがっていること全てに繋がってるから、僕はここに案内したんだよぉ。僕は案内を間違えたことは一度もないからねぇ」
「チェシャさん・・・・・・」
「・・・・・・白うさぎさん」
「は、はいっ!」
突然名前を呼ばれ、再びびくりと白うさぎは跳ねる。眉間に深い皺を刻み、ぎゅっと目を閉じていたルイスは意を決したように目を開けた。
「私は、貴方達の名前や存在に覚えがある。貴方達が呼んでいるように、私は医者だ。そして今、不思議な場所で夢を叶えてもらったと言い、友達に刃物を刺した少女を今診ている」
ルイスの言葉に、チェシャの細めた目がきらりと光る。
「その少女は、ヤマネと呼ばれる者に夢を叶えてもらったそうだ。そして、ちぇしゃという者に案内してもらったのだと。それがここだとしたら・・・・・・私は、ここの真実が知りたい。――私とどう関係があるのか、知りたい」
「分かりました・・・・・・私が扱っているのは真実。真実とはあらゆる時間に紛れています。私が、先生を真実へとご案内しましょう。チェシャさん、それで良いんですよね?」
「そうだねぇ。アリスがそうしてほしいって――」
チェシャが口にした名前に、ルイスが反応をする前に時計屋にあった全ての時計が突然動き出す。それと同時にルイスの意識は遠のき、結局チェシャが呼ぶ「アリス」のことを聞けぬまま、ルイスは暗闇の中へと落ちていった。
* *
「ん・・・・・・」
目蓋の上から光を感じ、ルイスはまぶしさから顔を横へと向ける。だが、降り注ぐ日差しからは逃れることが出来ず、諦めたようにルイスは目を開けた。
「・・・・・・ここは・・・・・・」
降り注ぐ日差しを遮るものは何もなく、雲一つない晴天。つい先ほどまで薄暗い夜の中にいたルイスは、時間の感覚が分からずしばらくぼーっとその場に寝転がっていた。手や頬を撫でる芝生が心地よく、このままもう一度目を閉じてしまおうかとまで考えた時、ふと話声が聞こえたような気がして、ルイスは上体を起こした。
「――あれは」
ルイスの目線の先にあるのは一本の木。その下には、二人の少女がいた。いや、片方は女性だろうか。その見覚えのある二人に、ルイスは思わず息を飲む。木に背中を預け、本を開いている女性をロリーナと言い、その隣で寝そべり立てた肘に頬をを乗せ笑っている少女をアリスと言う。
「ア――」
ルイスが寝転がっている少女の名を呼ぼうとした瞬間、突如情景が一変した。目の前には火柱を上げる御屋敷。その中から聞こえてくる女性と男性の悲鳴。
「なっ・・・・・・」
声が出ず、呆然とそれを眺めていたルイスは、ふと隣で何かが動いたような気がしてそちらに目を向けた。そこには、ルイスと同じように燃え朽ちていく屋敷を呆然と見詰めるアリスがいた。
そうだ、アリスがあの木の下でお昼寝をしている間に、火の扱いの不注意でお屋敷は燃えてしまったのだ。アリスの家族を抱きしめたまま。
全てが燃えていくのを目の当たりにしたアリスは心に深い傷を負い、そしてそこで初めてルイスはアリスと出会った。医者としての実績をそれなりに積み自分に自信が持てるようになり始めた頃だったため、ルイスはアリスを治してあげられる自信があった。
だが、抜けがらのようになってしまったアリスは、食事も自分からとることが出来ず、何を話しかけても反応がない。起きている時間よりも眠っている時間のほうが長く、どうしたものかとルイスは悩んだ。
せめて、何かに反応してくれれば。アリスの気を引くことが出来れば、そこからいくらでも治療が出来るというのに。
そんな中、ルイスが考え出したのが「お話」だった。実際にはない、あり得ない世界のあり得ないあらゆる生き物達。自分でも話していて馬鹿らしく思うような話だったが、アリスはなんとその話に反応を見せてくれたのだ。
「白うさぎがね、時計を持って走って行くんだ」
「・・・・・・うさ、ぎ」
「そう、うさぎなのに二本足で、人間みたいに服を着てて、時計を片手に一生懸命走って行くんだ。遅刻するーってね」
少しずつ、少しずつアリスの口数は増えていった。アリスが起きてる間中不思議の国の話をして、アリスが眠っている間に他の仕事を片付ける。そうした時間の過ごし方が数週間続いたある日、突然アリスは起きなくなってしまった。
色々と試してみたのだが、結局アリスはそのまま植物状態になってしまう。その後も数年間、その病院で医者として働いていたのだが、突然大きな病院への異動が決まってしまい、それからアリスの様子を見に行く暇もなく働き続けていた。
「・・・・・・私の物語に登場した生き物達・・・・・・?」
病室で静かに横たわるアリスが消え、暗闇にぽつりと残されたルイスは、市場にいた者達と自分の物語を照らし合わせはっとなる。そうだ、私は知っている。
「チェシャ――チェシャ猫」
ニヒルな笑みを浮かべ、訳のわからないなぞなぞを残してすーっと消える不格好な猫。自分が話した物語とは多少違いがあるが、それでもアリスの記憶から生まれたというのならばある程度の違いは納得がいく。
もしかして、あの市場は――
『真実は、見えましたか?』
* *
「っ!」
目を開けると目の前には白と赤。心配そうに覗きこむ白うさぎの顔がそこにはあった。
「私は・・・・・・ここは・・・・・・君達は・・・・・・」
「そうです。私達はアリスが作り出したもの。この市場はアリスのための市場。全てを失い、全てを捨てようとしたアリスが唯一心惹かれ興味を持った貴方が作り出した不思議の国」
「アリスにとって、センセイの話は全て真実だったんだよぉ。僕達は実在し、面白おかしな国は存在するだとアリスは思いこみ・・・・・・そして、頭の中でいつもそのことばかりを考えていたんだぁ」
「そんな中、出来たのが私達なんです。長い眠りについたアリスの夢の中。アリスの願いを叶えるための市場。でも――完璧じゃなかったんです」
そう言うと、悲しそうに白うさぎは目を伏せる。チェシャ猫は近くにあった長方形の柱時計の上に飛び乗り腰掛けると、ぷらぷらと地につかない足を遊ばせる。
「完璧じゃない、というのは?」
「アリスの心は完璧じゃない。だから、記憶も完璧じゃない。その状態で生み出された彼らは、不完全な生き物なんだよぉ。白ちゃんやハンプティが片足ないでしょお?そんな風に、この市場の住人達は何かしらが欠けているんだぁ」
「中には人の姿にすらなれない者や、感情が欠如している者もいます。でも、そんなことはどうでも良いんです。私達は自分のために生まれたのではなく、アリスのために生まれたのですから」
「でも、だからってどうして・・・・・・なぜ、この市場は客を、人を呼び寄せては対価を貰うんだ?」
ルイスの問いかけに二人は口を閉ざしてしまう。
「教えてくれ!アリスは、どうしてこんなことを――」
「アリスのせいじゃないよぉ。僕達が、アリスに提案をしたんだぁ」
チェシャは余っている袖をぶんぶんと回して遊びながら、他人事のようにそう言った。それに同意するかのように、白うさぎも小さく頷く。
「どうして・・・・・・」
「アリスを喜ばせたかったからさぁ。目の前で両親と姉が焼け死に、家も何もかもを失った幼いアリス。絶望を底に突き落とされたアリスを助けるために、どうしたらいいのか僕達は考えたんだぁ」
「そこで、私達は夢の中、というのを通じて第三者をこの市場に招けないかと考えたんです。ここはアリスが作り出した世界。ここで楽しいことが起これば、アリスも楽しくなれるんじゃないかと・・・・・・初めは、そういう感覚でした」
「でも、普通夢と夢を引き合わせるなんて出来ないからぁ、じゃあ強い願いがあればどうだろうって考えたんだぁ。強い願い、強い思いなら夢を夢を繋ぐことだって出来る。そうして、ようやく第三者をこの市場に招くことが出来たのさぁ」
ルイスは床に座り込み、黙って二人の話を聞いている。にわかには信じられないことではあるが、実際自分もそうやってこの市場に引き込まれてしまっているのだから、頭ごなしのその話を否定することがルイスには出来なかった。
「最初は・・・・・・私達もこうなるとは思っていませんでした。第三者を招き入れ、少しでもアリスに楽しんでもらいたい。そう思っていただけなのに、やってくる者達は自分の願望のことばかり。そこで、私達はやってくる者達にある提案をしたのです」
「君達の願いを叶えてあげるからぁ、その代わりにアリスが楽しめるようなものを頂戴ってねぇ。やってくる者達は皆、よろこんでその申し出を受け入れたんだぁ。ここは元々アリスの願いで出来た場所。願いの塊なんだぁ」
「そうやって、何人もの人達に絶望を味あわせたというのか・・・・・・」
ルイスの低い声に、白うさぎはぶんぶんと首を左右に振る。チェシャほど、白うさぎは非道というわけではないらしい。
「ち、違います!ただ、願いとは本来自分で努力して叶えるもの。それを楽して手に入れようとするには、それ相応の対価が必要となるだけで・・・・・・。それに、願いが叶うというのは人にとってはこれ以上にないほどの幸せなんでしょう?私達にしてみれば、ただの善意行為なんですよ本当に」
「この人達にそういうことについて諭そうとしても無駄だよぉ。言っただろう?完璧じゃないってぇ」
チェシャの言葉に、ぎりっとルイスは唇を噛む。確かに、白うさぎの反応を見ていても、話を聞いていても、ここの者達に悪気はない。むしろ、相手によかれと思ってやっている行動なのだということも伝わる。けれど――
「そんなの、間違っている・・・・・・」
「間違ってる、ですか・・・・・・?」
困ったような白うさぎの声に、ルイスは自分を落ち着かせるかのように深く息を吐いた。
「・・・・・・アリスはここにいるのか?」
「・・・・・・いるよぉ。意識だけならねぇ。肉体はセンセイが知ってる通りさぁ」
「会いたい」
「・・・・・・それは出来ないなぁ」
「チェシャさんっ!?」
チェシャの言葉に、白うさぎは跳び上がった。ルイスは元々はこの市場の住人達の産みの親でもあり、アリスも心を許していた相手である。それを知っているため、まさかチェシャがそのような判断を下すとは思ってもいなかったのだ。
「何てことを言うんですか!アリス自身、先生には会いたがっていたし、それに先生は元々は私達の親と言っても過言ではないのですよ?それなのに・・・・・・」
「確かに、アリスは会いたがってるよぉ・・・・・・でもセンセイ?忘れてたりしなぁい?」
「何を――」
「物語にはちゃーんと、結末っていうものがあるものなんだよぉ」
チェシャの言葉に白うさぎははっとなる。だが、ルイスには意味が伝わらなかったらしく、訝しげな視線だけが返ってきた。
「この意味が分かるまで、アリスに会わせてあ~げないっ」
そう言うと、チェシャは右腕を真っ直ぐに伸ばし、パチンと指を鳴らした。
「なっ!?」
突然床の感触が無くなったため、ルイスが下を向いてみるとなんと床が完全に無くなってしまっているではないか。底が見えない真っ暗な穴が口を開き、重力に従いルイスの体はその穴を落ちていく。その穴を覗きこみながら、チェシャはにんまりと笑った。
「君なら――」
アリスを起こしてくれるよね。
* *
目を覚ましたルイスは、翌日の日程を出来る限りズラし、何とか出来た午後の数時間を利用して以前自身が勤めていた小さな病院へと訪れていた。小さいとは言っても、土地などの都合上建物た小さいというだけであって、その設備は最新式だ。
懐かしさを感じながら、受付にて面会受付を済ませると久しぶりにルイスは一人の少女の元を訪れた。
「やあ・・・・・・アリス」
狭い病室にあるベッドの上で、目を閉じたままぴくりとも動かない一人の少女。頬は痩せこけ、袖から伸びる腕は握りしめてしまうと折れそうなほどに細い。それでも、その少女はまだ生きていた。リズミカルに落ちる点滴を見てから、ルイスは備え付けてある丸椅子へと腰を下ろす。
「・・・・・・アリス」
まるで我が子の名を呼ぶかのように優しく、ルイスはその少女の名を呼んだ。定期的に看護師が手入れをしてくれているのか、ブロンドの髪は美しく、肌も痩せてしまったというだけで不衛生さは感じられない。
「アリス・・・・・・」
何度名前を呼ぼうとも、アリスは目を覚まさない。これは、数年前から変わらないことだった。試しに軽く手を握ってみても、その指が握り返してくれることはなく、小さく息をついてルイスはベッドの上にその手を戻す。
「・・・・・・君が、あの者達を・・・・・・」
目の前に眠っている、今にも死んでしまいそうな少女があの市場を作り出し、甘い蜜に集る虫のように集まってくる人達を一瞬の幸福と共に絶望を与えているのかと思うと、何とも言えない複雑な心境にかられる。アリスに罪があるとは言えないし、かといってゼロというわけでもない。どの道、こうなってしまう元凶を作り上げたのは自分なのだ。
「アリス・・・・・・君は、どうしてこんなことをするんだい?」
返事がないと分かっていても問いかけずにはいられない。換気の為にか、窓は開け放たれており、心地よい風が入り込んできていた。
「君に不思議の国の話をしてからもう大分経つ・・・・・・それでも、君があの話の事を覚えていてくれたことが私は嬉しかったよ・・・・・・」
優しくアリスの手を撫でながら、ルイスはそう言った。そう言いながら、自分が話した不思議の国の事を思いだしていた。
「白うさぎを追いかけて・・・・・・穴に落ちて、」
その時その時で思いついたことを話していただけなので、正直ルイスの中でも曖昧ではあるのだが、思っていた以上に不思議の国のお話はルイスの中に残っていた。
「そうだそうだ。お茶会の話もあったなあ・・・・・・」
思えば、自分が夢見ていた世界なのかもしれない。こんなことがあればいいのに、こういう者たちがいればいいのに。小さい頃、医者になる勉強をしながら心のどこかで思い描いていたファンタジックな夢なのかもしれない。
「ハートの女王とそして出会うんだったね・・・・・・それから・・・・・・」
その続きを言おうとして、突如ルイスは口を閉じた。視線を彷徨わせながら、その続きを思いだそうとする。が、どうしてもその続きが思いだせなかった。その時、チェシャが言ったある一言がルイスの中に甦る。
「物語には、結末がある・・・・・・」
どんな物語にも、ちゃんとそれなりの終わり方がある。どんなに不格好でも、どんなに馬鹿らしいお話でも、ちゃんと物語は終了するのだ。だが、アリスが眠ってしまってから語られることがなかった不思議の国のお話は、まだちゃんと終わっていない。
「これの、ことだったのか?アリス」
終わらせると言っても、眠っている彼女に聞こえているかなんてわかるわけがない。けれど、ルイスの中でこの不思議の国の物語の結末はちゃんと出来あがっていた。
「この後――」
自分の中で描いた結末。こうあってほしいという願い。それを込めて、ルイスは静かに語り出した。
* *
「これで、ようやく終わるんだねぇ」
「アリスの目覚めは私達の死。ですが、私達はそれを望んでいた。・・・・・・でもチェシャさん、貴方は私達と死ぬ必要はないんじゃないですか?ちゃーんと、帰る場所があるじゃないですか」
「別にぃ?どうせ飼い主もいないんだから、戻っても仕方がないよぉ。体は焼けてなくなってるんだしねぇ」
「アリス・・・・・・主は喜んでくれているでしょうか」
「これが、アリスの願い。これが、僕達の願い。そうでしょぉ?」
「・・・・・・はい、そうです」
少しずつ、少しずつ市場を覆う闇が濃くなっていく。それは次第に市場を飲み込み、市場があった場所は、市場を囲む森は、やがて一つの黒となった。
もう二度と、市場に誘われる者はおらず、市場が賑わうことはない。それは他でもない、市場を生み出した者と市場で過ごす者達のただ一つの願いだった。
不思議の国のお話は、少女が目を覚ます所で幕を閉じる。だが、アリスは目を覚ますことなく、そのまま息を引き取った。手紙にてそれを知らされたルイスは、仕事の合間に自分がアリスに話して聞かせた不思議の国のお話を、一つの物語として書き留めた。
「アリス・・・・・・君の願いは、ちゃんと叶ったのかな?」
アリスが死んでから、ルイスが診ていた少女はぱたりと市場のことや魔法使いのことを話さなくなった。話さなくなったというか、友達を刺したことなども全て忘れてしまったようで、これが、全ての結末なのだとルイスは受け入れていた。
「あ、ルイス先生だー!先生、またあの不思議な国のお話、聞かせて!」
「僕も聞きたいー!」
「はいはい。じゃあ、病室でお話してあげようね」
「やったあ!」
「すぐに来てね、先生!」
うつろ市場に明かりが灯ることは、もう二度とない。願いを持つ者が引き寄せられることも、もう二度と――
わざとあるキャラのお話だけ入れていません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。




