三月ウサギ
『三月ウサギ』
「じゃあ、行ってくるわね」
「うん。気を付けてね母さん」
母を見送った男性は、ふうっと息をついた。今日もまた、何もしない、何も出来ない一日が始まる。片腕だけで車輪を漕ぎ、車いすに座った男性は玄関からリビングへと戻る。
男性は、生まれた時から左腕と右足が無かった。病気の一言で終わってしまうようなことだが、そんな言葉で終わらせてしまうには歯がゆいほどの人生を送ってきた。
片腕があるだけ、片足があるだけマシかもしれない。それに、生まれてからずっとこの状態なので、逆に左腕や右足がある生活の方が想像することが難しい。
けれど、ここ数年で腕が、足があればと願う気持ちは強くなってきていた。その理由は、自分が無職ということ。
両親だってもう良い年だというのに、自分達の生活だけでなく障がい者である自分を食べさせなければならない。もちろん、そういう人達でも働けるという職場はあるし、何度か職に手を伸ばしたこともあるけれど、仕事の内容云々よりも前に人間関係で挫折することとなってしまった。
願えど叶わぬことと分かっていても、望まずにはいられない。
違う人生を歩めていたならば。せめて、四肢がしっかりとしていれば、もう少し世界は変わっていたのではないだろうか。
これは、ただの逃げだ。現実から逃げたくて、言い訳をしたくて。それを許してくれる両親に甘えて、嫌だ嫌だとだだをこねているだけだ。
「っはー・・・・・・」
ため息を漏らし、男は背もたれへと体重を預けた。
* *
「んっ・・・・・・?」
ふっと意識が浮上し、吐息を漏らしながら男は頭を持ち上げた。ぼんやりとする頭で、ここはどこなのだろうかと視線を彷徨わせる。目の前に広がるのは、薄暗い森。霧がかかっているのか、若干視界が白っぽい。
「・・・・・・どこだ、ここ・・・・・・?」
言葉にしたことで現状を理解し、男はびくりと跳ね起きた。身を乗り出して、慌てふためいて周囲を見る。
家から出たわけでもないし、近所にこんなところもない。けれど、空は黒いのでそれなりに時間は経ってしまっているということが分かる。
「は、早く帰って洗濯――」
そこまで言って、男は口を閉ざした。本当に、それは自分の仕事なのだろうか。いなければいないで、きっと夕方頃に帰宅した母がやってくれるだろう。家事の手伝いは、彼らがくれた「存在理由」なのだ。
他にすることがない自分への、両親からの気遣い。
「・・・・・・とりあえず、帰らないと」
せめて、心配だけはさせたくない。
そう思い、男は適当に車いすを進め始めた。地面は土がむき出しで、決して動きやすいわけではない。けれども、懸命に右腕一本で男は森の中を適当に進んでいく。
「この森はどこまで・・・・・・?」
しかし、進めど進めど森は開けない。方角さえも確認せずに進んできたことを後悔していると、やがて霧の向こうにぼんやりと建物らしきもののシルエットが浮かび始めた。
人に会えればここがどこか知れる。
そう思った男は、進む速度を上げた。
「・・・・・・うつろ、市場・・・・・・?」
姿を現したのは、古ぼけたアーチだった。初めて聞くその名前に首を傾げ、アーチをくぐって中に入ろうとした瞬間、突然肩に何かが降ってきた。
「ぅっわああああああああああああ!?」
車いすから転げ落ちそうになるのを何とか堪えた男は、おそるおそる振り向いた。
「ばあっ」
「ひゃああああああああああ!!」
そこにあったのは、にんまりとした笑みを浮かべた少年の顔だった。あまりの近さに再度悲鳴を上げた男は、今度は車いすから落ちてしまう。尻餅をつき、ずるずると後退する男にチェシャは不気味な声で笑う。
「あっはっはっはっは。ごめんごめぇん。そんなに驚くとは思わなくってさーあ?」
「な、な、なんなんだよ君は・・・・・・!」
男がそう言うと、チェシャは仰々しく頭を垂れた。
「うつろ市場へようこそぉ。僕はこの市場の案内人のチェシャって言うんだぁ。この市場ではお客様のことを『アリス』って呼ぶ決まりになってるから、そこんとこよろしくぅ。あ、自己紹介はしないほうがいいよぉ」
「・・・・・・この市場は一体何なんだ・・・・・・?」
「叶えたい願いを持つ者が呼び寄せられ、そしてその願いを売買してくれる市場だよぉ。アリス、君の願いはなぁに?」
「私の・・・・・・願い?」
「願いがない者はここには来れないからねぇ」
願い。そんなもの、物心着いた時から一つしかない。けれど、そんなに都合の良い話があるだろうか。そんなに、夢のような話があるだろうか。
「・・・・・・どうせ、叶えられないさ」
「・・・・・・それはどうかなぁ~?」
チェシャの言葉に男は眉根を寄せた。正論を言ったのはこっちのはずなのに、なぜ疑いの言葉が返ってくるのだろうか。そんなに、この少年は自分の言った言葉に自信があるというのだろうか。
「ものは試しってもんだしぃ?言うだけ言ってみたらぁ?」
「そんなこと言って、高い金を要求するんじゃないのか?」
「ここではお金なんてそんながらくたいらないよぉ。願いに見合った対価が必要なだぁけ」
「対価・・・・・・?それは、どんなものが?」
「その時にならないとそれは分からないよぉ。僕だって全部は知~らないもぉん。でぇ?どうするのぉ?」
「・・・・・・お金は、いらないんだよな・・・・・・?」
男の慎重な確認に、チェシャはつまらなさそうに頷く。しばし悩んだ男は、小さな声で呟いた。
「・・・・・・手足が、欲しい」
「手足ぃ?ああ、左腕と右足かぁ。じゃあ、それを売ってくれるところに案内してあげるぅ」
にやにやと笑いながら伸ばされたチェシャの手を借りて、男は車いすに乗った。
「さ~、出発ぅ」
その小さな体のどこにこれだけの力があるのかと思いたくなるくらいに、チェシャはスムーズに車いすを押した。移動が楽になった男は、ここぞとばかりに市場を見学する。
時間が夜のせいでか、人一人市場にはいない。けれど、お店は閉まっているわけではなく、入り口から明かりが漏れていた。
「・・・・・・なあ、ここはどこなんだ?」
「どこでも良いんじゃなぁい?どうしてぇ?」
「私は、どうやってここまで来たんだ・・・・・・?あんなお城がある市場なんて、家の周りには絶対にない・・・・・・」
市場の奥には、美しく大きなお城がそびえ立っていた。中世ヨーロッパを思わせるその美しいお城に男は目を奪われる。あんな立派なお城、近所どころか自分が住んでいる地域にはないはずだ。
「行ったでしょぉ?うつろ市場だってぇ。そんな細かいことどうでもいいじゃん。願いを叶えるための市場で、アリスは願いを叶えてほしくてここに来るんだからぁ、ここがどこだろうと僕が誰であろうと、それは些細なことだよぉ」
「・・・・・・そういうものだろうか」
「難しく考え過ぎだよぉ。――あ、ここだここだぁ」
そう言ってチェシャが停車したのは『肉屋』の看板が掛けてある小さなお店だった。
「・・・・・・あの、まさかとは思うんだが・・・・・・」
「ああ、違うよぉ。紛らわしいよねー。でも、肉体に関するものを売ってるのはここなんだぁ。ほら、行くよぉ」
よいせと車いすの向きを変え、チェシャは中へと向かう。されるがまま店内へと入った男は、突然聞こえたダンッ!という大きな音にびくりと体を跳ねさせた。
「な、何の音だ・・・・・・!?」
「何って、肉屋なんだから肉切ってる音じゃないのぉ?えーっとこっちだっけぇ・・・・・・?」
適当にチェシャは店内を進む。等間隔に、規則正しく並ぶ机に乗っているピンクの塊達。何が幸いかと言われると、何の肉なのかが分からないくらいに原型のない塊になっていることぐらいだろうか。
「・・・・・・あ、いたいたぁ。おーい、マーチ」
店の一番奥に居たのは、ぼさぼさの金色の髪をしたやけに細長い男性だった。手には肉切り包丁を手にし、振りあげては降ろし、振りあげては降ろしを繰り返している。その度に包丁がまな板とぶつかる音が響き、その光景に男はごくりと固唾を飲んだ。
「マーチ。マーチってばぁ~」
声を掛けても見向きもしないマーチに苛立ったチェシャは、勢いよくマーチの腰を後ろから殴った。ぴたりとマーチの動きが止まり、ぎぎぎぎっと音がしそうなほど歪な動きでマーチは振り返る。
その大きく見開かれた目は血走り、ぎろりと見下ろされた男は鳥肌が立つのを感じた。だが、チェシャは物怖じせずにマーチへと声を掛ける。
「アリスが来たってばぁ。んもう、切るのが楽しいのは分かるけどさぁ」
「・・・・・・アリス・・・・・・?」
「そうだよぉ。ほらアリス、マーチに欲しいものを言ってごらん?」
くるりと振り返ったマーチは、静かに男を見下ろした。振り向かれて気付いたのは、サロンエプロンが血まみれだったということ。
「あ・・・・・・わ、私は・・・・・・左腕と・・・・・・右足が、欲しい・・・・・・んだ」
狂気に満ちた瞳に耐えながら、男はやっとのことで声を絞り出した。
「アリスが欲しいものは、それだけか?」
「あ、ああ・・・・・・」
「対価は、いただく。チェシャ、帰ってもらえ」
「はいはぁい」
くるりと反転したマーチは、再び包丁を振りあげまな板の上にあるものを切り始めた。
「ちょっと、ちょっと待ってくれ!これで一体どうなったっていうんだ!?」
手足が現れたわけでもなく、自分はまだ願いを言っただけだ。けれど、チェシャはもう全てが終わったかのようなテンションで男を外へと連れ出してしまう。
「ここでは受け取れないよぉ。だってことは、現実と虚の狭間なんだからぁ」
「現実と・・・・・・うつろ?」
「はいはぁいお喋りはここまでだよぉ」
いつの間にか市場の入り口であるアーチの下に戻ってきており、まさかこのまま森に放り出されるのではないかと振り返る。
「おい、ここからはどうやって戻れば――」
言い終わるよりも先に、チェシャがとんっと車いすを押した。すると、なぜか体が前に傾くではないか。まるで、崖を落ちるかのように。
「――なっ!?」
顔を正面へと戻すと、そこには黒が待っていた。人一人が余裕で通れるほどの穴がぽっかりと地面に空いており、チェシャはそこに男を車いすごと突き飛ばしたのだ。
驚く男の声を聞きながら、チェシャは再び深々と頭を垂れる。もちろんそれは、男には見えてなどいない。
「お買い上げありがとうございましたぁ。二度と会うことはないでしょう」
はるか頭上で、チェシャのそんな声が聞こえたような気がした。
* *
「・・・・・・」
ゆっくりと、男は目を開けた。見える天井には覚えがあり、リビングの床に寝転がっているのだと気付くのに数秒もかからなかった。何度か瞬きをした男は、きょろりと視線を巡らせた。
「あ・・・・・・れ?」
寝ぼけて車いすから落ちたのだと思っていたのだが、その車いすがどこにも見当たらない。慌てて起き上がった男は、体の違和感に目を見開いた。
「・・・・・・あ・・・・・・!」
腕が、二本。足も、二本。
起き上がるためにいつもの癖で右腕に力を込めたのだが、バランスを崩しそうになるのを咄嗟に左腕が支えてくれた。左腕の感触自体が新鮮で、起き上がりかけの中途半端な体勢で男は自身の左手をまじまじと見る。
右腕と左右対称の腕。何度も何度も夢に見て、妄想をした左腕。
しばらく左腕の感触を堪能した男は、上体を完全に起こすと投げ出されている両足を見た。左足を曲げ、そして右足を曲げる。自分の思い通りに動き、確かな感覚がそこにはある。
「やった・・・・・・」
ぽそりと男は呟いた。
「やった・・・・・・やった!!」
両腕を振りまわし、飛び跳ね、確かにあるその存在を全身で堪能する。
「ははっ・・・・・・あはははははははははは!やっと、やっと手に入れた!」
感動のあまり腹を抱えて笑いながら、男は何度も左腕と右足に触れた。なんの支えも無しに自分の足だけで立つことができる。今までは片手で開けることに苦労していた瓶の蓋もこんなに簡単に開けられる。
鼻歌を歌いながら洗濯物や食器洗いなどの家事を済ませた男は、母が帰る夕方までに初めて一人で夕食まで用意をした。
「よしっ・・・・・・」
テーブルに並ぶ料理を見て満足気に頷いた瞬間、玄関から物音がした。
「――・・・・・・母さん、おかえ・・・・・・り・・・・・・」
「ああ、ただいま。ごめんなさい、ちょっと手を借りてもいいかしら?」
帰宅した母を見た瞬間、男は目を見開いたまま固まった。
「母・・・・・・さん、その足・・・・・・は?」
母の、右足がなかったのだ。
松葉杖に体重を預けたまま靴を脱ごうとする母は、きょとんと男を見上げる。
「え?何を言っているの?事故で切断したの、あなたも知ってるでしょう?」
「・・・・・・え?」
「お父さんは左腕。私は右足。貴方だけでも無事だったのが幸いよ。まあ、この匂いはもしかしてシチューかしら?良かった、お母さん丁度食べたかったのよ、シチュー」
そう言うと、母はふわりとほほ笑んだ。何の悪意もない純粋な笑顔だったというのに、男はそれに恐怖を感じ一歩後ずさる。
「どうしたの・・・・・・?」
男の様子がおかしいことに気付いた母は、首を傾げた。わなわなと震える男は、次の瞬間絶叫した。
「うああああああああああああああああああああああああああああああ!」
「ど、どうしたの?何があった・・・・・・あっ!」
半狂乱の息子に、母は駆け寄ろうとした。けれど、玄関の小さな段差につまずいてしまい、母はそのまま廊下へと倒れてしまう。
「い・・・・・・たた・・・・・・」
「あ・・・・・・ああっ・・・・・・」
「もう、やっぱり段差はダメねぇ」
心配させまいと、母は困ったように笑む。それが、逆効果になるとは知らずに。
「ごっ・・・・・・ごめんっ・・・・・・ごめん母さんっ・・・・・・!」
「いきなりどうしたの?何か悪いことしたの?」
「分からないっ・・・・・・分からないっ・・・・・・!」
がたがたと震えうずくまる男に、母は這いずって近づく。そして、そっとその頭を抱きしめた。
「だったら謝る必要はないじゃない・・・・・・ね?」
「う・・・・・・あああああああああああああああ!」
男の悲鳴を聞きながら、チェシャは肉の塊をつんつんと突いていた。
「相変わらず、肉体の対価ってえげつないよねぇ~?」
「・・・・・・一番、ふさわしい対価じゃないか」
「まあ、そうだけどねぇ。肉体や物の対価って、形が存在してる分やりやすそぉ。僕達なんて、対価を何にするか考えるのも大変だっていうのにさぁ」
「けれど、あの男が失ったものは商品以上のものだ」
肉と骨を断つ音が響く。
「そおいうところがひどいって言ってんのさぁ~。でもまあ、その分対価が君は集まらないけどねぇ」
「俺は別に、そんなもんに興味はない」
「・・・・・・狂うのは三月だけにしときなよぉ?じゃ、僕は帰るねぇ」
ひらひらと手を振って、チェシャはお店から出て行った。
ダンッ!
肉を断つ音だけが、響くだけの肉屋を。
「・・・・・・アリス・・・・・・」




