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うつろ市場  作者:
3/9

公爵夫人

『公爵夫人』


「おーい、これが終わったら帰っていいぞー」

上司の男がぱんぱんと叩くコンテナにちらりと視線を送り、青年は小さくため息をついた。ここは大都会の隅にある小さな製造工場。薄汚く薄暗い工場の中には頭が痛くなるような匂いと熱気が充満し、そんな所で朝早くから動き回ってた青年もまた、薄汚く汚れていた。

時刻はすでに夜の八時を過ぎており、きっと作業が全て終わるころには日付が変わっているだろう。ぎりっと唇を噛み締めてコンテナを足元に引きずり寄せると、青年は黙って手を動かし始めた。

ここで上司に怒鳴ろうものなら、せっかく手に入れた職をまた失うことになってしまう。それだけは避けなければならない。たとえ、安い賃金で労働基準を無視したような時間こき使われたとしても。

決して裕福な家庭ではなかった。それでも親子三人仲が良く、父だけでなく母も働き、一生懸命学費を稼いでくれていた。だが、ある日父がうっかり競馬に手を出してしまい貯めていたお金が全て消え、そのまま父は蒸発。悲観しながらも母は青年のために一生懸命働いたが、母を助けるために青年は中学を卒業して広告代理店へと就職した。

だが、経済が低迷し始め、中卒という低学歴なこともあり、それなりに成功を収めていたが青年はその会社を首にされ、それ以来日雇いなどを転々とするような生活が始まった。そんな中、ようやく見つけた職なのだ。非正規ではあるが、この工場の親会社はそれなりに大きい。売れ行きが伸びてくれれば、そのまま正規になる可能性もある。

電気製品の一部になるであろう小さな部品を、青年は黙々と組み立てては空のコンテナへと押し込める。だが、苛立ちがたまっていた青年の動作は荒くなり、金属部品ががちゃがちゃと音を立てる。

「・・・・・・」

俺は一体、何をしているのだろうか。

広告代理店ではデザイナーとして頑張っていた。デザインセンスを認められ、大きな仕事も任せてもらったこともある。そう、自分は成功するはずだった人間なのだ。それなのに、どうしてこんな薄汚れたところで、こんな地味な作業をしなければならないのか。

「っ・・・・・・」

青年は持っていた金属片をコンテナに思い切り投げつけた。がちゃっと音を立てて金属部品はコンテナに納まり、立ち上がった青年は肩を上下させる。だが、すぐに我に返り、腰を下ろして作業を続ける。

「仕方がないんだ」

呟かれた言葉は、まるで自分に言い聞かせているかのようだった。

青年は最後の一つを組み立て終わると、それをゆっくりとコンテナに入れる。時計を見ると、やはり日付は変わってしまっていた。


*          *


「――ん?ここ、どこだ・・・・・・?」

ふと気がつくと、見知らぬ森の中で地面に寝転がっていた。うっすらと霧が掛る森は見覚えがなく、ゆっくりと起き上がりながら辺りを見回す。なぜ、こんなところにいるのだろうか。

確か、仕事を終わらせて、くたくたになりながら社員用の寮へと戻り、シャワーを浴びてベッドに横になったはずだ。

「俺、夢遊病だったのか・・・・・・?」

そんな言葉を呟きながらも、このまま突っ立っておくわけにもいかないため、とりあえず森から出ようと歩き出す。どっちに出口があるかなんて分からないが、何もしないよりはマシだろう。

しばらく森をさ迷っていると、木々の間から何か門のようなものが見え始め、青年は速度を上げた。徐々に近づくと、霧でかすんでいたその姿がはっきりとなり、続いて門から左右に伸びる城壁のようなものを見え始める。

「・・・・・・うつろ、市場?」

門にはそう掘られており、青年は門の前で首を傾げた。やはり、覚えがない。こんな森も、こんな市場も、こんな場所も。というか、こんな森の奥になぜ市場が。

しかも、不思議なことに市場から先は夜だ。森の方を見ると、厚い雲に覆われてはいるものの、つまづくことなく歩ける程度の明るさはあった。けれど、市場は夜なのだ。雲もなければ星もない、紺色の夜空。市場の中は煌々と明かりが点いてはいるものの、人気はない。市場と言うわりにはあまりにも静かで、その異様な光景に本能が警鐘を鳴らすのを感じた。

「さっさと通り抜けちまおう」

市場があるということは、近くに人が住む場所があるはずだ。そう考え歩き出した青年の目の前に、柱から飛び出した何かが経ち塞がった。

「な、なんだ!?」

「うつろ市場へようこそぉ。僕はこの市場の案内人のチェシャって言うんだぁ。この市場ではお客様のことを『アリス』って呼ぶ決まりになってるから、そこんとこよろしくねぇ。ああ、自己紹介はいらないよぉ。本名は簡単には名乗らないものだからねぇ」

「アリス?まあどうでも良いけど・・・・・・案内人?ここはどういう市場なんだ?」

案内人がいるということは、何か歴史的な市場なのだろうか。首を傾げる青年に、チェシャは不気味な声で笑うと、両手を広げてまるで舞台の上に居るかのような恍惚とした表情で語り出した。

「この市場はねぇ、願いを叶えてくれる市場なのさぁ。人間の心の奥底にある欲望を満たしてくれる市場。アリスが今一番ほしいと願うものを売買してくれる夢のような市場なのさぁ」

怪しい。それ以外の言葉が見つからなかった青年は、興味なそうに頭を振った。

「生憎、俺はそういうの信じないんだ。悪いけど他とあたってくれ」

そう言うと、青年はチェシャの横を通り抜けようとした。

「・・・・・・おい、なんだよ」

だが、チェシャに腕を捕まれてしまい、青年は苛立ちを隠さずにチェシャを睨みつける。振り払おうともしたのだが、子供体型のわりに力が強い。反応を返さないチェシャに苛立ちがピークに達し、青年は無理矢理にでもその手を外そうと腕を振った。

「放せっ!」

ぶんぶんと腕を振り回す青年に、チェシャは静かな笑みをたたえると小さく呟く。

「今のままで満足かい?」

「っ!」

その言葉に男はピタリと動きを止めた。その反応に笑みを強くしながら、さらにチェシャは続ける。

「才能を、認めてもらいたいんじゃないの?このまま社会のゴミになりたくない。そう望んでなかったかい?それを叶えられるんだよ、ここは」

チェシャの声は、言葉は甘い誘惑となって男を闇へと誘いこむ。ごくりと固唾を飲んだ男は、不安気な瞳でチェシャを見つめた。

「・・・・・・出来る、のか?」

かかった。

獲物を捕らえた猫は、一瞬目をきらりと光らせる。

「もちろんだよぉ。アリスが心の底から欲するものは、全て手に入る市場だからねぇ」

「でも、俺金なんてねぇし・・・・・・どうせバカ高いんだろ?」

給料が入るのも月末だ。それにその給料もきっと食料代として消えてしまうだろう。

「お金なんているわけないよぉ。だってここではお金なんてただのガラクタだからねぇ。価値なんてこれっぽっちもないんだよぉ。対価さえ払えばいいのさぁ」

「対価?」

「そうさぁ。さあ、どうするぅ?」

対価が何のことかは分からないが、お金で支払わなくていいのなら、別に何を持っていかれても構わない。不思議とそう思えた青年は、チェシャと向き合った。チェシャも掴んでいた腕を放し、にやにやと笑いながら青年の瞳を見つめる。

「お前がさっき言った通り、俺は俺の才能を認めてくれる仕事をやりたい。俺は・・・・・・俺は、成功できる人間のはずなんだ!」

「・・・・・・じゃあ、アリスが欲しいものを売ってくれるお店に案内してあげるぅ」

嬉しそうにスキップをし始めたチェシャの後を追って、青年は歩き出した。チェシャは本当に小学生ぐらいの体型であるため、スキップをされていても徒歩で十分についていける。帽子屋、書店の前を通り、噴水を通り過ぎたところにあるお店の前でチェシャは足を止めた。

「ここだよぉ」

「・・・・・・洋品店?」

チェシャが案内したのはお洒落な雰囲気をかもし出している綺麗な洋品店だった。しかし、青年が欲しいのは服などではない。

「おい、ふざけんなよ。俺が欲しいのは――」

「いいからいいからぁ」

「人の話しを聞けっ!」

青年の抗議を無視してチェシャは無理矢理青年を店内に押し込んだ。店内は甘い香りが充満しており、青年は思わず鼻と口を手で覆う。チェシャもその匂いがいやだったのか、長い袖で顔下半分を覆っていた。

「夫人、いるかい?」

もごもごとチェシャが奥に声をかけると、ゆらりと掛けられている服が揺れる。

「おや、なんだい?あんたが来るのは珍しいねえ」

ゆったりとした動作で奥からやってきたのは、美しい女性だった。肩につかないくらいに伸びた髪は長さこそばらばらだが美しく、スラリとした体格にスリッドが入った黒のドレスがよく似合っている。ただ、胸だけが男のそれのように平らだった。

もしかして、そちらの世界の住人なのだろうかと考え込む青年に、チェシャがこっそりと耳打ちをする。どうやら、この疑問を持つのは青年が初めてではないらしい。

「夫人は女性だよ。身も心もねぇ」

どうやら、下はついていないらしい。ということは胸がないだけなのだろう――なさ過ぎる気もするが。

「彼女は公爵夫人さぁ。夫人、アリスだよぉ」

とんっとチェシャに背中を押され、青年はよろめきながら一歩前に出る。すっと目を細めて青年の全身を舐め回すように夫人は眺める。どことなく艶があるその視線に、青年は頬を赤らめると顔を逸らした。

「可愛いねえ。さあ、アリス。私に何が欲しいのか教えてちょうだい。アリスが本当に願うのなら、対価と引き換えに叶えてあげようじゃないか」

甘ったるい夫人の声に青年の思考はぼやけ始める。徐々に虚ろになっていく青年の瞳を見て、夫人はきらりと目を光らせた。

「俺の・・・・・・才能を認めてくれる場所・・・・・・デザイナーとしての地位がほしい」

仕事で成功して、そして社会から認められたい。自分にはこんなことが出来るんだ、すごいんだということを社会に教えてやりたい。もう、明日に怯えながらぎりぎりの生活をするのは嫌だ。

「・・・・・・少し待ってな」

そう言うと、夫人はどこかへと消えて行った。数分もせずに戻ってきた夫人は、ぼーっと立ち尽くす青年に向って形の良い唇を吊り上げる。

「アリス、あんたの欲しいものは売ってやったよ。もう少し遊んでやりたかったんだが・・・・・・チェシャ、お帰りだ」

「はいはぁい」

夫人の声で現実に引き戻された青年は、腕を引っ張るチェシャの力に両足で精一杯に抵抗した。全力で踏ん張っているにも関わらず、ずるずると青年は引きずられてしまう。全身に力を入れたまま、青年は顔だけ振り向かせて夫人に叫んだ。

「対価はなんなんだよ!」

青年の行動に目を丸くしていた夫人は、その言葉に腹を抱えて笑い出す。

「対価は教えられないルールなのさ。けど、欲しいものが手に入ったっていうのに、何を心配してるんだい?これからあんたが怯えなくちゃいけないのは、手に入った欲しいものを失くしてしまうことだろう?」

「っ・・・・・・」

「さようなら、アリス」

夫人の冷たい言葉と同時に、店のドアは大きな音を立てて閉ざされた。そのままチェシャい市場の入り口まで連れてこられた青年は、夫人にぶつけた質問を今度はチェシャにぶつけようとした。

「なあ、お前なら――」

「聞いただろう?ここには僕達が守らなくてはならないルールがあるんだぁ。決して曲げられないルールがねぇ」

「・・・・・・教えられない、のか?」

神妙な面持ちの青年に、チェシャは小さくため息をつく。

「本当に人間って、後悔ばっかりしてるんだねぇ」

「それってどういうっ!?」

チェシャに強く押された青年はぐらりと体勢を崩す。背中を地面にぶつけた衝撃が走るだろうと思っていた青年は、水平より傾いても地面に背中がつかないことに気づき慌てて肩越しに後ろを見た。

「な、なんだよこれっ!」

そこには大きな穴が開いており、そこに自分は落ちていたのだ。救いを求めて手を伸ばすが、穴を覗き込んだチェシャは頭を下げただけでその手を掴もうとはしてくれない。

「おいっ!」

「お買い上げ、ありがとうございましたぁ。もう二度とお会いすることはないでしょう」

チェシャのその言葉を合図に、視界は暗転した。


*          *


「・・・・・・聞いてるんですか!?」

「っ――わ、悪い・・・・・・もう一回頼む」

「ごほんっ。では、もう一度だけ説明します。本日の日程は――」

目の前にいるスーツ姿の女性が、手に持っている紙を読みあげていく。それを横目で見ながら、青年は自分の手元を見た。広い机の上にはところ狭しとデザインシートが広がっており、その全てに色々な図が描かれている。

「以上です。日程はこれでよろしいですね?」

「あ、ああ」

「どうかなさったんですか?せっかく大きな仕事が入ったと喜んでいらっしゃった昨日とはまるで別人ですよ」

青年の違和感に気づいたのか、秘書らしき女性はメガネ越しにじっと青年をねめつける。

「いや、大丈夫・・・・・・大丈夫だ」

「とりあえず、十一時までに配置のデザインをお願いします」

「分かった」

失礼します。と、頭を下げると秘書は静かに部屋から出て行った。何をぼーっとしているのだろうか。そうだ、自分は一流デザイナーなのだ。

「――一流、デザイナー?」

自分で口にした言葉を否定するかのように、青年は首を左右に振る。違う、自分はただの製造工場で働く社員だったはずだ。

そのことを先ほどの女性に伝えようと立ち上がった青年は、何を思ったのか持ち上げた腰をすぐに下ろした。夢だと思っていた光景が脳裏に浮かび、青年は自分の願いが叶ったことを理解する。そう。これで、これで良いのだ。

「十一時、ねぇ」

ちらりと時計を見ると、九時を少し回ったところ。青年は机の上に散らばるシートを一枚取り上げると、ざっとそれを眺めた。どうやら、新しくリニューアルオープンするおもちゃ売り場の店内のデザインの仕事らしい。

「これだ、これだよ俺のやりたかったことはっ!」

舌をなめずり歓喜の笑みを浮かべると、青年は次から次へとデザインに目を通す。そして一通り見終わると、真新しいシートを取り出しペンを手にとった。

やってやる、俺は最高なんだと思い知らせてやる。

次から次へとペンを走らせ、予定されていた時間までに十枚のデザインを青年は完成させた。満足気にそれをまとめ脇に抱えると、青年は部屋から出る。外に待っていた秘書は青年が持っていたシートの量に驚いたようだったが、その反応でさえも青年にとっては快感だった。

秘書に案内され、会議室へと入る。決して広いとは居えないそこには五名の社員が待っていた。この会社でデザインの補佐や手伝いを担当している者たちだ。机の中央にデザインシートを放ると、青年はふんぞり返ってこう言った。

「お前達が気に入った奴を選んでくれ」

その一言で社員の目の色が変わり、不安そうに視線を交わし合っている。その反応を不服に思った青年は、ばんっと机を叩くと社員一同を見渡した。

「どうしたんだよ」

ぎろりと睨みつけると、社員は怯えたように体を縮こませ口を閉ざしてしまう。しばらくして、一人の男性社員がおずおずと口を開いた。

「あの、社長はいつも一枚しか持ってこないじゃないですか・・・・・・」

「――何?」

「寝る間も惜しんで自分が納得のいく一枚だけを持ってきて、それをさらにより良いものにしていく。それが社長のやり方だったので、今日はどうしたのかなあっと」

周りも同じ事を考えていたのか、社員だけでなく秘書までも頷く。そんなことを知るわけがない青年は、ごまかすように笑った。

「き、気分だよ。ほら、今回の仕事でかいし・・・・・・お前らの意見も反映させようと思って」

我ながら上手い誤魔化し方だったと思ったのだが、どうやら社員にはそう思えなかったらしい。再び視線を交わすと、一人、また一人とデザインシートを手に取り眺め始める。隣の人と交換したり、意見を交わすこと三十分。今度は女性社員がシート片手に口を開く。

「社長、社長は一体何をやろうとしてるんですか?」

「・・・・・・どういう意味だ?」

「今回の仕事はおもちゃ売り場です。最終的に商品を見るのは小さな子供。それに、これらのデザインに意味が込められてるようには思えません」

周りからも同意の声が入り、青年は立ち上がると再び机を思いきり叩いた。

「俺はこの中から選べって言ってんだよ。意見はその後だ!」

「でも、これから選べなんて・・・・・・」

「選びようがないです」

次々と溢れてくる社員の不満に、青年は怒りのパラメーターが急上昇するのを感じた。どうして誰も自分の才能を認めてくれないのか。デザインならば完璧のはずだ。

「・・・・・・あ、これは良いんじゃない?」

その時、一人の社員が持っていたデザインシートを机の中央に広げた。ようやく自分のデザインが認められるのかと安堵しながら、青年もそのシートを覗き込む。が、それを見た瞬間青年は凍りついた。

「おお、これならいけるな!」

「後はこの台をこっちに持って行けばいいんじゃない?」

「いや、それをそこに持っていくと、奥に行きにくくなる。全体を見てもらうためにも、それはそのままがいいだろう」

「さっすが社長、素敵なデザインですね」

次々と褒め言葉や賛同の意見が上がるが、青年はその全てを聞いていなかった。だって、だってそのデザインは――

「俺の、じゃない」

「はい?」

「社長?」

「どうしたんですか?」

そう、それは青年が意識を取り戻した時にはすでに机の上にあったものなのだ。つまり、青年が描いたデザインではない。皆が認めてくれたのは、自分のデザインではなく、全く知らない『社長』という人物がすでに描いていたデザインだった。

「俺・・・・・・は、俺のデザインは・・・・・・」

近くの社員が持っていたシートを無理矢理奪うと、皺が寄ってしまったそれを机の上にあるデザインに重ねた。これのどこが良いというのか。自分のデザインのほうが格好も良く、きっと誰もがうらやむもののはずなのに。

「俺は・・・・・・っ」

青年の様子に社員は顔を見合わせる。わなわなと震えながら持っていたデザインシートを破り捨てた青年は、社員達の顔を見た瞬間青ざめた。自分を見てくる目、目、目。その目にチェシャの歪んだ笑みが重なり、青年は悲鳴を上げる。

「っうわあああああああああああああああああああ見るなっ見るなああああああああああ!!」

「社長!?どうしたんですか!」

「誰か、救急車をっ!」

「私が行きます!」

慌てて秘書は部屋を出ていき、社員達は床を転げ悶絶する青年を必死に押さえ込もうとする。だが、その手さえもチェシャのそれに見えた青年は、社員の手を振り払うと四つんばいになりながら部屋の隅へと逃げる。

振り返った青年は、自分を見ている社員の口が三日月の形にいびつに釣りあがるのを見た。

『君が、望んだことだろぉ?』

「ひっ・・・・・・ちがっ・・・・・・違うっ・・・・・・ぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

力の限り叫んだ青年は、そのまま意識を失った。

きらりと光るハサミにその光景を移していた夫人は、くすりと笑うとそのハサミで布を断ち始める。相変らずの甘い香りに辟易しながらも、チェシャは夫人の手元を見ながら何を対価としていただいたのかをたずねた。

「才能さ」

「才能ぉ?何のぉ?」

じゃきんと鋭い音がし、断ち切られた布がはらりと床に落ちる。手首にはめているバンドにくっついている針山から糸が通っている針を一本抜くと、夫人は布へとそれを刺した。

「デザインの才能。アリスがいた場所は、アリスが成功していたらつくはずだった地位さ。だから、あのデザインも実はアリスのデザインなんだよ」

「へぇー?ああ、だからアリスはすんなりと仕事に馴染んだんだねぇ」

「けど、デザインセンスを失くしたアリスのデザインは、ただの落書き――丁度良かった。この前あの虫が貰った布が欲しかったんだよ」

うっとりと目を細める夫人から目を逸らし、チェシャは机の上に置いてあるハサミに目を向けた。仕事部屋へと戻ったアリスは、次々に考えてあったデザインを破っていく。秘書や社員がそれを止めようとするが、青年は全く聞く耳を持たず、細かい紙片がまるで雪のように降り注いだ。

「・・・・・・人間は、いつも後悔しているね」

「どうかしたかい?チェシャ」

「ううん。なんでもなぁい。じゃあ僕は、また新しいアリスと待つとするよぉ」

そう言うと、チェシャは洋品店を出て行った。



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