姫と王子
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第1話 8幕 姫と王子
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「……………ん、…は~よ~っ♪」
それは、本当にすばらしい朝だった。
「……~きなちゃん、お~は~よ~っ♪」
「……ん――ぅぅ~ん…………」
窓から差し込む朝日に照らされたレースのカーテン。肌触りのいいサテンのシーツの上にしどけなく投げ出された細い脚も、全てが無垢で完璧な美しさを持った朝だった。
ただひとつ、もの凄くうるさいと言う点を除いて。
「ま~きなちゃん、お~は~よ~っ!!♪」
「……ん……だれ?………」
|(この声は…どこか聞き覚えがある)
|(それもつい最近聞いたはずの声だ)
蒔梛は昨日着たままで寝てしまった服を、もぞもぞと頭から脱ぎながら、寝起きのぼやけた頭でぼんやりと考える。
|(でも、こんな風に自分を呼びに来るなんて、誰だろう?)
高校生になってからは……ううん、小学生の時以来ずっと忘れていた感覚だった。
奇妙に懐かしく、そしてくすぐったい心地よさがある。
特に事件で騒がれてからはずっと無くしていたその感覚は、蒔梛に『しあわせ』だった頃の気持ちを思い起こさせた。
“コンコン”
「蒔梛様、お目覚めでございますか?」
蒔梛が裸のまま昔の感傷にふけっていると、ノックの音が鳴り、ドア越しに小崎の声がした。
「え? あっ、はっ、はい!」
突然の小崎の声に、思わず脱ぎ捨てた服をかき集め、躰の前を隠す。だが、小崎は蒔梛の許し無くドアを開けるような事はしなかった。
「外でご学友の海老原様がお待ちでございます」
その代わり、さっきから聞こえている鈴の音に似た声の原因が蒔梛にある事をしっかり伝えてきた。
「え? うそ! 今何時ですか?」
そこに至って、ようやく蒔梛も今日が転校の初日だった事に気が付いた。あわてて時計を探すが、それはまだ引っ越し荷物の中だった。蒔梛はあわてた小崎に時間を聞く。
「8時……10分ほどかと」
「10分!? うっそ、なんでもっと早く起こしてくれないのよ!?」
蒔梛はベッドから飛び降りると、思わず出てしまった愚痴を小崎にこぼしながら椅子の上に服を放り投げた。
「申し訳ありません。三回ほどお声をおかけしたのですが、よくお休みのようでしたので……」
「あぅ……」
初めての場所でそこまで前後不覚に寝入ってしまったのかと、蒔梛は少し恥ずかしくなった。
「きっとあのふかふか過ぎるベッドがよくないんだわ。変な夢まで見るし……」
と、ぶつぶつつぶやきながら部屋の角にある化粧台の方へ行くと、蒔梛は隣にある洗面台のカランの取っ手を回してお湯を出し、顔を洗い始めた。
“じゃー”
「………………」
よく考えると昨日はお風呂にも入らずに寝てしまった。汗臭くないだろうかと顔を洗い、歯を磨きながら腕を持ち上げてくんくん匂いを嗅いでみる。
はっきりと分かるほどではないが、転校初日から汗臭い格好で挨拶するのはやっぱりまずいかな……と思う。
“きゅっ。かちゃん”
口を濯ぎ、顔を拭き終わると、ブラシで髪をとかしながら化粧台の上の小瓶をいくつか取り上げた。少しだけ蓋を開け、その匂いを確かめてみる。
「くんくん……うん、これかな」
化粧品や香水まで全部小崎さんが用意してくれたのかと思うと、なにやら複雑な思いがするが、とりあえず今は感謝して使わせて貰うことにした。
気に入った柑橘系のあまりきつくない香水を脇の下と首筋に軽く吹きかけると、立ち上がって下着を脱ぐ。新しい下着に替えようとして、ふと気が付く。
「あ……やばい。そう言えば替えのパンツもダンボールの中だっけ」
部屋の隅で山と積まれたダンボールを見て、今からあの山をさばくっていたのでは、とても登校時間に間に合わないと悟る。
「えっと……確か、服も必要なものはひと揃い用意してくれたって言ってたわよね?」
「だったらもしかして下着とかもこのへんに……」
試しにと適当な当たりをつけてチェストの引き出しを開けてみると、果たしてそこには高級そうなレースと布地で出来たブランド物の下着がぎっしりと詰め込まれていた。
「うっわー、すごい。これって、イタリアの『スワニー』じゃない? 前に理恵ちゃんが章吾さんと映画見に行く時用の勝負下着に買うんだって言って、バイトして買ってたやつだ。……確か、ブラだけで二万円はするとかって……」
それがブラだけで幅1メートルはある引き出しの中にぎっしりである。もちろん、それだけではなくて、ショーツ、キャミソール、ガードル、靴下、ストッキング、ルームウエア、果てはペチコートなんてものまでもあった。
「……これって、私にドレス着てパーティーにでも出ろってこと?」
「ま~~きぃ~~な、ちゃぁぁ~~~ん! お~~は~~よ~~!」
呆然としていると、再び珊瑚の声がして蒔梛は我に返った。
「とっ、やばい! 見とれてる場合じゃなかった!」
あわてて適当な下着をチェストから取りだし、身につける。緩やかなフリルが可愛い薄いピンク色のショーツの中に丸くて可愛いお尻を入れ、胸元が大胆に開いたカットながらも、絶妙なホールド感で胸を支えてくれるブラの中にCカップの胸を押し込んでいく。
「う~~、絶妙なフィット感ではあるんだけど、なんで小崎さんは私の胸のサイズまで知ってるだろ?」
あまり考えたくない想像を頭の中から追い出して、蒔梛は制服が入っていると言われたクローゼットを開けた。
“がちゃり”
クローゼットの中は色とりどりの高価そうな服が並んでおり、その中に珊瑚が着ていたのと同じ形の制服がかけてあった。蒔梛は何気なくそれを取ろうとしてふと手を止める。
わだつみ学園の衣替えは基本的に6月だが、その前後2週間ほどは衣替え期間として任意の制服を着ることが許されているとパンフレットには書いてあった。ならば、あと二週間ほどしか着ない冬服をここで着て、すぐにクリーニングに出さなければならないのは、勿体ないような気がしてしまうのが施設育ちの蒔梛の感覚だった。
「んー……いいよね、これで」
と冬服の替わりに白い夏服をハンガーから取りだした。夏服、と言っても半袖で生地が薄くなっただっけのセーラー服で、スカートは冬服と同じ今時珍しいロングだった。
蒔梛はクローゼットから夏用のスカートも取りだして履くと、上着を頭からかぶって袖を通し、脇のチャックを閉めた。最後に軽く全身を姿見に映してチェックすると、中身のない鞄を手にとって部屋のドアを開けた。教科書は今日これから学校で貰う事になっているのだ。
“がちゃっ”
「蒔梛様、ダイニングに朝食のご用意が……」
ドアを開けて廊下に出ると小崎が頭を下げたままの状態で待っていた。
「ごめんなさい、今日はいらないわ、遅刻しそうなの」
殷々とした声でうやうやしく告げる小崎にすまなそうに告げると、蒔梛は駆け足で玄関へと向かう。
「さようでございますか、では玄関までお荷物をおもち……」
「いい! 悪いけど急いでるから先に行くわね」
ドアの前でお辞儀をしたままの小崎にそう声を投げつけると、蒔梛は鞄を抱えて全力でダッシュした。
「はあはあはあっ。珊瑚ちゃんごめ~ん、待ったぁ?」
「お早うございます、姫さま。大丈夫ですよ」
「でも、正直言うとちょっと急いだ方がいいです。あと15分で予鈴が鳴っちゃいますから」
ペットボトルの水を飲みながら待っていた珊瑚は、そう言うやいなや蒔梛の手を取り、バトンを受け取ったリレー走者の様に走り出した。
「え? あ? き、きゃあぁぁーっ」
珊瑚は小柄な体の割に意外なほど脚が速かった。蒔梛はその速さにつんのめるようにしてついていくのがやっとだ。しかし、そのスピードもつかの間。珊瑚の額にみるみるうちに汗が浮かび始めるとやがて息が上がってしまい、歩くのもやっという様子になってしまった。
「はあはあ、ふうふう……ご、ごめんなさい……姫さま……」
「ううん、いいわよ珊瑚ちゃん。遅れてしまったのは私の所為なんだし」
「うぅ……」
珊瑚が音を上げた事でようやく普通に歩けるようになった蒔梛がそう言うと、珊瑚は蒔梛に気を使わせてしまった為か、余計しょんぼりとして肩を落とした。
「大丈夫だって。それにここまで来れば余裕で間に合うっしょ。後はゆっくり歩いて行きましょ」
「は……はひ……」
ひぃひぃと肩で息をしながらペットボトルの水を飲む珊瑚と並んで、蒔梛は再びさわやかな朝の空気の満ちるポプラ並木を校舎のある方へと歩いていった。
見ると、遊歩道の反対側、学生寮のある方角から蒔梛と同じ制服を着た生徒達が同じように校舎のある方へ歩いてきているのが見えた。蒔梛はその中に明らかに違和感を覚えるほど学生服が似合っていないスタイルバツグンの学生の姿を見つけて驚いた。
「うわぁ、あの人たちみんなここの生徒? 外国の人たちもいるよね?」
「みんな美人で背が高くて、モデルさんみたいだけど、着ているのがセーラー服に学ランって……うーん、アニメではよく見る光景だけど、現実に大量に目にすると、なんか異様だわ」
まるで一流ファッション雑誌の中から抜け出てきたみたいな人々が、日本の古式然とした学生服に身を包んでポプラ並木を歩くと言うアニメ的光景を現実に目にして、その違和感に目眩を起こしそうになった。
「はい。制服を着ているのが初等部から高等部までの生徒です。幼稚部や大学部は通いなんで制服はありません」
珊瑚の言うとおり、制服を着た生徒たちの中には明らかに年少だと思われる児童の姿も見受けられた。
「もっとも幼稚部はすぐにスモックに着替えちゃうんで、それが制服と言えば言えるんですけどね」
「幼稚部ってどこにあるの? 昨日、ちょっと見て回ったんだけど、それらしい建物が無かったわ」
「ああ、幼稚部は通いだし、修学時間が短いから門に近いところに幼稚舎が作られているんです。学生寮のすぐそばなんですよ」
「なるほどね」
「所で珊瑚ちゃん。私、教科書ってまだなのよ。学校でもらえるって聞いてるんだけど、いつもらえるのか聞いてないかしら?」
「ああ、それなら選んだ教科ごとにもらえる事になっていますから心配いりません」
「選んだ教科?」
「えっとですね、ここのカリキュラムってちょっと変わっているんです」
と、珊瑚は人差し指を頬にあてると、何かを思い出そうとしているように上を向いた。
「普通の学校のような勉強もモチロンしますけど、わだつみ学園の真価は生徒一人一人の才能に応じた特別な発達プログラムにあるんです」
「発達プログラム?」
「ええ、たとえば情報処理に特別な才能を示した生徒がいれば、その生徒の為に用意された設備と講師による授業をうける事ができます」
「それも最先端のマシンで、旧世界のスーパーコンピューターなんか、ばびゅーんってぶっちぎっちゃうようなヤツらしいですよ」
「ばびゅーん……ねぇ」
「ごめんなさい、私、本当はコンピューターのこと全然ダメなんです」
「うん、なんかすごくよく分かった気がする」
「はぅぅ……で、ですね、こうした専門プログラムは誰でも受ける事ができて、しかも自分の好きなカリキュラムをその日のメニューの中から選んで受ける事が出来るんですよぉ」
「自分で好きな授業を?」
「はい。ですから午前が必須のカリキュラム。午後からが選択式の特別カリキュラムってコトになっているんです」
「私も好きなカリキュラムを受けていいの?」
「モチロンです。ただ、専門プログラムはどれもその道のエキスパートの為のものですから、初めからかなり敷居が高いんですけどね」
「自分の適正の無いプログラムを受けてしまうと、かなりつらいです」
「私も、以前ガーデニングなんてしたいなぁと思って受けた事があるんですけど……」
「ガーデニング? そんな授業まであるんだ?」
「ありますよぉ、けど、光合成による光量と発生電荷の関係式とか、アンモニア態チッソから硝酸態チッソへの化学変化式なんてのがいきなり出てきてお手上げでしたぁ」
ガーデニングにどうして大学の研究室レベルの分子科学が必要なのかさっぱり分からなかったが、なるほどそれは素人には敷居が高そうだと蒔梛は思った。
「はぁ~、それは大変ね。じゃあ、みんなはどうやって自分の適正を知るわけ?」
「普通の生徒はみんな入学する前の予備調査や入学審査の時に自分の適正や能力を算定されていますから、大体は自分の取るべき科目が分かっているんです」
「え……入学審査って……じゃあ、私はどうすればいいのかな?」
意外なところで裏口入学のデメリットが出てきて戸惑う蒔梛。
「あ……そう……ですよねぇ?」
珊瑚も言われて気づいたのか、???と頭の上にハテナマークを並べて首を傾げている。
「ねぇ、珊瑚ちゃん。あなたソフィから私のことについて何か……」
蒔梛が夕べの事について珊瑚に質問しようとした時、
「あっ、姫さまだ。姫さま、ごきげんよう」
登校する蒔梛の姿を見とがめた初等部の生徒のうちの何人かが駆け寄ってきた。
「えっ?」
「姫さま、ごきげんよう」
「ごきけんよう」
それを見て蒔梛に気が付いた年長の高等部の生徒たちも、次々と蒔梛に向けてお辞儀をしてくる。
「え、なに? 姫さま?」
「おい、あの方が新しい今度の姫さまらしいぞ」
中には昨日のミサには出ていなかったのか、蒔梛の事を初めて見る人々も居て、噂の姫を一目見ようと、一斉に集まってきた。そしてその輪は蒔梛が戸惑っている内にどんどんと大きくなっていく。
「姫さま!」
「新しい姫さまだぁ」
「わあぁぁ」
「はじめまして! 握手してください!!」
いつの間にか校舎のグランドエントランスまで歩いて来ていた二人は、あっという間に登校途中の生徒達に取り囲まれてしまっていた。
「姫さま、こんどのミサにはお出になるのですか?」
「今度の日曜にお茶会を開く予定なんです、よろしければ姫さまもご出席して頂け……」
「音楽科2年の佐久間ともうします、姫さまに捧げる曲をつくりましたので是非聞いて頂きた……んぎゃっ」
「ねえねえ、姫さま! 校庭にジェットコースター作ってよ!」
初等部から高等部、中には大学部の学生までまじって一斉に蒔梛に挨拶&陳情をしてくる。すでに蒔梛がこの学校の『理事長』兼『姫』として転校してきたことは学園の隅々にまで広がっているようだった。
しかし生徒達に囲まれた蒔梛は、この学園の中で自分が何をすべきか、何が出来るのかを何も知らないので、投げかけられる言葉に何も答えられずにただおろおろと右往左往するばかりだった。
「あ……ちょ、まってください。姫さまはまだ……ああん、押さないでぇ、姫さまぁ」
背の低い珊瑚などは、とっくの昔に人波にさらわれて蒔梛の近くから遠ざけられてしまっている。
もしかすると、絶対的支配者である『姫』に取り入る絶好のチャンスに邪魔な珊瑚はわざと蒔梛から離されてしまったのかもしれない。
「姫さま、転校おめでとうございます。核物理研究室のクラインと申します、実は粒子加速器の大型化についてご相談が……」
邪魔者を遠ざけてからは一層生々しく要求をうち明けてくる者もいた。
「ご、ごめんなさい。私……まだそう言うことは……」
「だったら姫さま、今度ご一緒にお食事などはいかがですか?」
「ちょっと、姫さまは私のお茶会に来て戴くのよ!?」
「いいや、ボクの演奏会が先だ」
「私の誕生会よ」
「新しいソロリティメンバーを選ぶときには是非、私をお願いします」
蒔梛が何かひと言言えば、それに対して数十の返事が周りから上がる。もはや蒔梛にはお手上げの状態だった。しかも、そうしている間に時間はどんどんと過ぎていく。彼らの頭からは始業時間のコトなどすっかり抜け落ちているようだが、蒔梛にしてみればこんな事で遅刻でもして、前理事長でもあった祖父の名に泥を塗る事になるのではないかと気が気ではなかった。
だが、多少強引に人垣を押したところで、十重二十重に取り囲んだ人々から抜け出せそうには無い。
そして、人垣の輪がいよいよ蒔梛にくっつくほどに迫ろうとしていた時、若く張りのある美しいバリトンが人々の暴走を制するかの如く響いた。
「君たち! そこで何をしているんだ!?」
それと同時に、あれだけ言っても聞く耳を持たなかった人々が“ぴたり”と動きを止めて、その声の主の方を振り返った。
「もう予鈴が鳴る時間だぞ。早く教室に入りたまえ」
声の主は中等部と高等部、そして大学の一般教科用の教室のある中央学舎のエントランスに立っていた。
大きなアーチ状の通路になっているエントランスに立っているは、健康的に日焼けした浅黒い肌と、アラブの血が入ってるのかもしれないと思わせるような彫りの深い鼻梁と涼しげな切れ長の目、そして軽くカールした濃い紫にも見える不思議な色合いをしたブルネットの髪を持つ背の高い青年だった。
着ている制服は高等部のものだ。3年生ぐらいだろうか。留学生だとは思うが、蒔梛には外国人の顔をひとめ見ただけでその人種や国籍を当てる特技はない。
「あ……」
「王子さまだ」
「王子……」
「アントニオ様……」
その場に居合わせた女子のほとんどがもうっとりとその男子生徒を見つめ、そればかりか他の男子生徒たちもなにやら意味深なため息とともにその生徒を見つめている。
「それとも皆で取り囲んで、姫様を遅刻させたいのかな?」
まるで少女漫画の世界から抜け出してきた来たようなハンサムな青年は、優しい微笑みを浮かべながらも、哀しそうに眉をひそめながらそう言った。
「はっ!?」
『姫を遅刻させる』
突然現れたその青年の言葉で皆、突然我に返ったかのように蒔梛に振り返り頭を下げて口々に失礼をわびだした。
「姫さま、思わず我を忘れてしまい、大変失礼を致しました」
「姫さまの大切なお時間を奪ってしまい、大変申し訳ありませんでした」
「お叱りはいかようにもお受けいたします」
「あ、い、いいんです。べつに怒っていませから」
次々と下がる頭の迫力に押されながら、蒔梛は何とか返事を返す事が出来た。
「おお、何というご寛大な」
「姫さま、ありがとうございます」
「いえ、あの……頭を上げてください、どうか。それよりもみなさん、早く教室へいかないと……」
「いえ、それでしたら姫からどうぞ。私たちは姫さまが教室に入るのを見送ってから……」
何十人もの人間に見守られながら初登校の教室のドアをくぐる事を想像して蒔梛は青くなった。これでは前の時よりも酷いではないか。
「だ、だめですよそんなの。どうか、お願いします」
「……分かりました。仰せのままに」
蒔梛の必死のお願いを受けて、彼らはそれ以上の拘泥はせずに教室に行く事を了承してくれた。その後、彼らはみな蒔梛に対して深々とお辞儀をすると、それぞれの教室に向けて歩き去る。
「姫さまぁ~申し訳ありません~」
人垣が崩れて、ようやく身動きがとれるようになったころ、散っていく人波をかき分けて珊瑚が現れた。珊瑚の姿を見て蒔梛がほっとしたのもつかの間、『いいのよ』と言おうとした寸前で、エントランス居た件の青年から厳しい声が飛んだ。
「失態だな、海老原珊瑚くん。やはり君には姫さまの側仕えは無理なんじゃないのか?」
「な?」
いい人だと思っていた青年から発せられた、突然の厳しい言葉に蒔梛がカチンと来た。
今のは突然の事に驚いて何も出来なかった自分が悪い。珊瑚にはなんの責任もないはずだ、と思わず喰ってかかろうとした時、隣にいる珊瑚が謝った。
「申し訳ございませんでした、フォーンさま」
「あぅ? フォーン? なに?」
「アントニオ・フォーンさまです。ソロリティと並ぶ男子の学生会フラタニティの主幹をなさっている方です」
「フラタニティ?」
またよく分からない単語が出てきた。どうせフラタニティもソロリティと似たような元の意味とは違った特別の意味をもつ組織なんだろうと思う。
そして仮にもソロリティの副書記である珊瑚を叱りつけるからには、このアントニオ・フォーンと言う青年は珊瑚よりも上の役職であると言える。
「初めまして、姫さま。いや、小碓蒔梛くん、と呼んだ方がいいのかな?」
蒔梛が相手の正体についてあれこれ考えていると、アントニオは急に表情を和らげ蒔梛に語りかけてきた。
「ど、どうも……はじめまして。小碓蒔梛と申します。――助けて戴いてありがとうございました」
珊瑚の事ではカチンと来たが、元はと言えば自分が原因だ。そんな自分が助けてくれた相手に文句を言うのは筋違いだし、そう言えば人垣から助けてもらったお礼もまだだった、と気が付いた蒔梛はあわててアントニオに頭を下げた。
「いや、王子としては姫が困っているのを助けるのは当然の事だからね。そんなに恐縮しなくてもいいよ」
「王子?」
朗らかに白い歯を見せて微笑む異国の貴公子の言葉に、『ああん?』と思わず首を傾げる蒔梛。
|(な、なにこの人? 自分の事を『王子』と呼べだなんて……本当に『変○王子』なんだろうか?)
|(それとも、この学園の生徒って、みんな勉強のやりすぎでどこか焼き切れちゃってる人たちばっかりなのかな?)
「くすくすくす。君が今何を考えているか分かるよ」
「え?」
やばいっ、口から考えが漏れてた!? と蒔梛は思わず自分の口に手を当てた。
「初対面の人間に自分のことを王子と呼べだなんて、頭の配線がイカレた世間知らずのバカボンボンが現れたと思っているんだろう?」
|(ううっ、やばいっ!! やっぱり口から魂漏れてたかしら?)
「ははは、大丈夫。君は何もしゃべってないよ」
蒔梛が口をパクパクさせているのを見て、アントニオがまた笑った。
「君がそう考えるのも無理はないって事さ」
だから気にしないで、と長いまつげの瞳でウインクを投げてくる王子。
|(うわぁ、やっぱり『○態王子』だあぁっ)
「あの王子って……どうしてですか?」
初めて遭遇する人種にびくびくものの蒔梛だったが、ある一点で恐怖よりも好奇心が勝った。そしてそれをどうしても確かめたくなり、おっかなびっくり聞いてみると……。
「王子というのは、フラタニティを代表する主幹の役職名なんです」
それを答えてくれたのは、意外にも珊瑚だった。
「主幹の役職名?」
「ソロリティの主幹が人魚姫なら、それを補佐する相手役は王子様しか居ないってわけさ」
アントニオが珊瑚の後を継いで説明する。
「……はあ……」
「はははは。突然説明されても分からないよね。でもまあ、ボクは君の味方だ。君が別の男性を王子に選ぶまではね」
「今はそれだけを覚えておいてもらえればいい」
「味方?」
“~♪”
どういう意味なのかを聞こうとした時、授業の開始、5分前を告げるチャイムが鳴った。
「おっと、やばい。予鈴が鳴ってしまった。君も早く教室に行った方がいいよ。姫様が初日から遅刻じゃさすがに人聞きが悪いからね」
「いけない。姫さま急ぎましょう!」
アントニオがそう言うと、珊瑚はあわてて蒔梛の手を取り、再び脱兎の如く走り始めた。
「あ、ちょ……」
身長の低い珊瑚に手を引かれ、体勢を崩しながら走り出した蒔梛が後ろを振り返る。
その視界の中で、アントニオが苦笑いを浮かべて、よろけながら走る蒔梛に『足下に気をつけて』と声をかけながら見送ってくれていた。
|(……案外、いい人なのかもしれないわね、あの変○王子)
そんな失礼な事を考えながら、蒔梛は教室へと向かった。