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第1話 5幕 ホーム
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「――お姉ちゃん、本当に行っちゃうの?」
かすれた文字で『港区 第三養護施設』と書かれた、小さなコンクリート製の門。
蒔梛が小さな旅行鞄ひとつだけを持ってその思い入れ深い門の扉を開けようとした時、不意に後ろから5つ下の義弟である竜斗の声がした。
振り向くと、簡素な作りの玄関土間の前に蒔梛の義弟妹たちと、車椅子に座った幼馴染みの男の子が勢揃いして蒔梛を見ていた。
「……ん」
哀しそうな目で見つめる義弟妹たちの表情に何も答える事が出来なくて、蒔梛は短い返事を返しただけで思わず目を伏せた。
「まきなねえちゃん、いっちゃやだぁ」
蒔梛の声を聞いた瞬間、一番年下で甘えたい盛りの三津葉が涙で顔を濡らしながら叫んだ。
三津葉はそのまま駆け寄ろうとするが、後ろにいた竜斗に抱き取められて、哀しそうな嗚咽を漏らす。
「蒔梛、俺の事なら気にしないでいいんだぞ?」
その様子を見ていた蒔梛の幼馴染みで高校の先輩でもある櫟章吾が車椅子の背にもたれながら、柔らかい笑みを浮かべて言った。
「みんなも噂の事なんか信じちゃいないさ。だって、みんな君の家族で、ここは君の家じゃないか。だから、これからも俺と……みんなと一緒に……」
「章吾さん……」
正直を言えば、蒔梛は本当はこの家を離れたくなかった。
12年。記憶がある限り全ての時間を費やしてきたこの施設はもう、蒔梛が生まれて育った本当の家であり、そこに暮らす保育士の先生や孤児たちは本当の家族と言ってもいいほど大切な存在となっていた。誰が好きこのんで、今更本当の肉親かどうか分からない人間の住んでいた所へなど行きたいものか、と蒔梛は思う。
(でも……)
蒔梛は複雑な思いで章吾の後ろに立つ、12年間、常に自分の側にいて助けてくれた義妹の顔を見つめた。
その視線の先にいる少女はムッツリとした表情であさっての方向を見つめながら、章吾の座る車椅子を後ろから支えていた。
|(理恵ちゃん……)
少女の名は栗山理恵。蒔梛と同じ施設の子供で、学校も学年も同じ大親友だった。
だが今は……。
「ううん、やっぱり私はこれ以上ここにはいない方がいいのよ。その方が章吾さんのご両親も安心するし……」
蒔梛は瞼を閉じて視界からかつての親友の姿を消すと、ゆっくりと首を振り、そう答えた。
「それは……でも家の親には俺がきちんと……」
「ううん、いいの。それに私の顔を見ると、どうしても思い出したくないことまで思い出してしまって、嫌な思いをする人もいるでしょう? だから……」
再び目を開けた蒔梛が見つめる先にあるのは、やっぱり一切蒔梛の事を見ようとしない理恵の姿だった。
いつも蒔梛の姿を見つけるなり、『蒔ちゃんみっけ!』と言って嬉しそうに笑って飛んで来た、可愛い義妹で大親友だった少女の姿はそこにはない。
「考えすぎだよ蒔梛。ここには君が居なくなればいいなんて考えてるやつは誰も居ないさ」
「……だといいんだけど」
蒔梛は相変わらず鈍感な章吾の台詞に思わず苦笑する。
思えば長い事この三人で一緒に行動して来たが、いつもは頭がよくて察しのいいはずの章吾が、こと理恵の気持ちになるとどういう訳か木石の如く『できん坊』になってしまう事を思い出していた。
かつてはそれが可笑しくもあり、ほほえましくもあったが、今となっては少し恨めしい。
|(けど……もう大丈夫だよね? 私がいなくなればきっと、章吾さんも理恵ちゃんの気持ちに気づいてくれると思うから……だから……ゴメンね、理恵ちゃん)
蒔梛はずっと前から理恵が章吾の事を好いているのを知っていた。
何も言わなくても、いつも理恵の視線が章吾の姿を追っていたのを知っている。
もともと興味が無かったバスケ部に入ったのだって、章吾が趣味で始めたのがきっかけだし、章吾が気に入っているメーカーの服やシューズを自分でも買って、そろえている事も知っていた。
本当なら自分こそがお邪魔虫である事も分かっていたのに、二人の優しさに甘えてしまっていた。
気やすく、また安心出来る優しい章吾の側ならば、蒔梛は怖い大人が側にいても対人恐怖症に悩まされずに済む。だから理恵に悪いと思いながらも、ついつい彼に甘えてしまっていたのだった。
だが、そんな状況も自分がここを去れば変わるはずだ。
ずっと、自分が邪魔してきた理恵の恋がようやく一歩前進出来る。
住み慣れた場所や家族との別れは悲しいが、今はそれを唯一の励みにしようと蒔梛は思った。
「『だといい』だなんて、当たり前じゃないか。なあ栗山、君からも蒔梛に思いとどまるように言ってくれないか? 施設の中でも一番の仲良しで、本当の姉妹みたいにしていた君の言葉なら、蒔梛も考えを変えるかもしれないだろう?」
栗山……他人行儀な呼び方だと蒔梛は思う。
章吾が蒔梛の事を名前で呼ぶ一方で、理恵の事をそうやって名字で呼ぶ度に理恵が哀しそうな顔をしていたのを蒔梛は知っている。
これは単に蒔梛と章吾が通っていた道場の大人たちが、二人の事を名前で呼んでいたのに習って自然と章吾も蒔梛の事を名前で呼ぶようになっただけの事なのだが、章吾の事を好きな理恵にとって、それは自分と二人との間にある埋めがたい溝を見せつけられている様なものだった。
そして今も……いつの間にか理恵は顔を正面に向け、痛みに耐えるかのような表情で蒔梛の事を見つめていた。
「理恵ちゃん」
「………………」
「栗山?」
「………………」
応がない事をいぶかしんだ章吾が後ろを振り返り、理恵に声をかける。
だが理恵は蒔梛を睨みつけたまま、何も答えなかった。
ただじっと、自分の好きな人を傷つけ、こんな体にした憎い恋敵の事を睨んでいた。
「……ありがとうね、理恵ちゃん」
「!」
と、思いがけない蒔梛の一言に、理恵の体が微かにふるえた。
「今まで……私と仲良くしてくれてありがとう。それからごめんなさい。ずっと……辛かったんだよね? 私、理恵ちゃんの気持ちを知ってたくせに……二人の好意に甘えてた……」
「………………」
「でも……それももう終わりにするから。だから……ごめん……」
「………………」
義弟妹たちは、突然の蒔梛の謝罪の言葉を聞いて面食らっていた。そして同時に二人の義姉の間で何かの確執が起きていた事を初めて知り、驚いた。
「……章吾さん、理恵ちゃんをよろしくお願いします」
「蒔梛!? 栗山っ?」
章吾も初めて蒔梛と理恵を結ぶ視線の剣呑さに気が付き、あわてていた。
だが二人はその理由を語ることなく、一方は哀切の、もう一方は憎しみの籠もった鋭い視線を投げかけるばかりだった。
「私……そろそろ行かなくっちゃ」
その視線に耐えかねたかのように、蒔梛は鞄を肩にかけ直した。
「お姉ちゃん!!」
「まきなねぇちゃん!」
「竜くん、院長先生の言うことを聞いて、あんまりケンカばかりしてちゃだめだよ」
「……うん」
「まきな……おねぇちゃん……」
「三津葉ちゃん、お姉ちゃんはもう一緒に寝てあげられないけど、お姉ちゃんが買ってあげた大好きなプリピュアのお布団でなら一人で寝られるよね?」
「いやいや。みつは、おねえちゃんといっしょがいいっ」
「オレも蒔梛ねえちゃんのメシじゃないと食わねぇ」
「……ごめん……ごめんね、みんな………」
「ねえちゃんっ!」
「さようなら!」
小さな弟たちの嗚咽混じりの叫び声が蒔梛の後ろ髪を引く。
溢れる涙を拭いつつ、無理矢理その声を振り切って……蒔梛は住み慣れた『家』を後にした。
「レースの天蓋つきベッドかぁ……。私にはアニメキャラクターの布団の方がよく眠れそうかも」
目を開けると、そこには見慣れない豪華な白いレースの天井があった。
何もしないでじっとしていると、自分が置き去りしてきた『家族』の事ばかりが思い出されてくる。
|(この静けさがいけないのよ。だからついつい余計な事まで考えちゃう)
よく見れば、この部屋にはテレビやコンポなど、娯楽に用いるような家具は一切ないようだ。代わりに聖書や古典小説などの古書が本棚に並んでいる。
「本気で19世紀ごろの生活をしろってことなの?」
と、思わず愚痴が口を突いて出る。
そんな今までと180度違う環境で里心が刺激されてしまったのだと思った蒔梛は、余計な感傷を頭の中から追い出す為に部屋から出てみることにした。
「すこし探検してみましょ。そうすればちょっとはポジティブな気持ちになれるかも」
着ていたかつての高校の制服を脱いで、ラフな格好に着替えようと立ち上がる。
小崎はドレッサーの中にも新しい服が入っていると言っていたが、さすがにまだそこを開く勇気はない。
今の精神状態では、蒔梛の趣味とは全く違う洋服や、19世紀ばりの古めかしいドレスなどが入っていた場合に、余計落ち込んでしまいそうだったからだ。
知らない服より、やっぱり着慣れた自分の服の方がいいわよね、と蒔梛は部屋の隅に積んである段ボール箱の山から服の入っている箱を引っ張り出すと、封を開けて中の服をとりだした。
「ん……これでよしっと」
蒔梛が選んだのはシェルピンクのオフショルダーブラウスと、動きやすいダークブラウンの膝丈のチノパンだった。
お気に入りの服に着替えると、気分もちょっと上向きになってきた気がする。
「次の問題はどこを探検するかよね……」
少し迷ってから、蒔梛はこの館の中を歩いてみる事にした。
これから暮らす家ともなるこの館の構造を、少しでも頭に入れておいた方がいいだろうと思ったからだった。
ガチャ……バタン。
鈍い金色に輝く真鍮製のドアノブをつかんで回し引くと、僅かに油臭い匂いが鼻腔をくすぐった。
古い建物特有の匂いだが、嫌いではない。
ドアの正面には、西棟に続く中棟の廊下が延びていた。
そこに差し込む西日はさっきよりも傾いているようだ。空気も幾分冷えてきている。
どちらに行こうかと少し迷ってから、蒔梛は結局正面の廊下を行くことにした。
なぜならそちらの方にさっき見た尖塔が建っていたからだった。
「一見ほったらかしの庭に見えるけど、意外と綺麗に手入れしてあるのね」
中棟の廊下から見下ろした中庭は、200坪ほどの広さだった。一見、蔦や草花が育ち放題になっているように見えるが、よく見ればわざとそうしてあるのが分かる。
イギリスの庭園によく見る、自然と人工物の融和を求めた庭だった。
そしてその草木の生い茂る庭に、中棟から出臍の様にぴょっこり飛び出しているのが、今蒔梛が向かっている尖塔だ。
中世のお城にあるかのようなその塔は、中棟と二階部分だけで繋がっているらしい。
中空の細い渡り廊下以外、塔には一切出入り口らしき物はない。
奇妙な建物だと思ってその渡り廊下がある所まで行ってみると、廊下から少し奥に引っ込んだ所に、まるで中世のお城にあるような黒い鉄の鋲が打たれた古い木の扉があった。
「ずいぶん重々しいドアなのね。ここ、なんの部屋なんだろう?」
好奇心が押さえきれない蒔梛がそっとそのドアに近づくと……。
フィ……。
どこかから風が吹いてきたのだろうか、重そうな扉が微かに奥に動いた。
「鍵……かかってないんだ?」
蒔梛は少しためらった後で、思い切ってそのドアを開けてみることにした。
キイィィィ……。
ドアはなんの重さも感じさせることなく、あっさりと開いた。
開いた細い通路の先には、もう一枚のドアが見える。
蒔梛は意を決して通路に進み、もう一枚のドアを開けてみた。
ギィ……。
僅かなきしみと共にドアが開くと、部屋の中の空気がドアの外へと流れ出してきた。
その空気には、ほんの少しの埃の匂いと、古い紙とインクの匂いが混じっていた。
「ここは……」
8畳程度の広さの丸い部屋の壁には一面、重厚な作りの本棚と共に無数の本が並んでいた。
正面に見える大きな机の向こうには、革張りの椅子と縦長の両開き窓がある。
机の上には途中書きの便せんやペン立て、文鎮、蜜蝋やアルコールランプ、古い形の電話機、本や書類たち。
持ち主の趣味を表したようなその机は、まるでつい今し方までそこに誰かがいたような雰囲気を残していた。
そして机の上に乱雑に積み上げられたままになっている書類は、その部屋の持ち主がとんでもなく多忙な生活を送っていた事を物語っていた。
しかし、よく見れば高価そうなソファセットの上にはうっすらと埃がつもり、書き上げたばかりの書類のインクも今はすっかり渇ききっている。
この部屋の主がここで仕事をしていたのは、しばらく前の事らしい。
「ここ……もしかしてお爺さまの書斎?」
蒔梛は何でもいいから自分の知らない祖父の事を知る手がかりがないかと、机の引き出しを開けて調べようとした。
と、そのとき、
「そちらにおいでになられるのは、蒔梛様ですか?」
突然扉の向こうから声がかかった。
「えっ? あ、はい!」
延ばしかけた手をあわてて引っ込めて、入り口を振り返る。
「これは蒔梛様、旦那様の書斎になにか御用でございますか?」
「え? いえ……用ってほどのことじゃないんですけど……」
「この館の事を見て回ろうかなぁって思ったら、この部屋を見つけて……」
「どこかに私の事が分かるような資料がないかな~と思って……つい……」
「そうでございましたか」
「しかし、残念ながらそのような資料はここには御座いません」
「そうなの?」
「はい」
「旦那様が亡くなられてから、事後処理をする為に私が一通り調べましたが、そのようなものは一切ございませんでしたので……」
「そっかぁ……あ、もしかしてここ、入ったら不味かった? 勝手に入っちゃってごめんね」
「いえいえ、蒔梛様が謝られる必要は御座いませんとも」
「この部屋もいずれは蒔梛さまがお使いになるはずの部屋でございますれば、いつでもご自由に利用して戴いて一向に構いません」
「ですが、少々埃が溜まっておりましたので、すこしばかり掃除をしておこうかと思い、立ち寄った所でして……この部屋に御用があるようならまたに致しますが?」
「あ、ううん、もういいの。ごめんね仕事の邪魔しちゃって」
「いいえ、滅相もありません」
「じゃあ、私、もう少し館の中を見てまわるね」
「かしこまりました。お散歩なさるなら今の時間は校内の外周道路がようございますよ」
「西日にポプラ並木の若葉が映えて大層綺麗でございます」
「夕食まであと一時間程度ですので、気晴らし程度ならば丁度いいかと」
「へぇ、そうなんだ。ありがとう、行ってみるね」
その後、蒔梛は館から出て小崎に言われたとおり、学園の中を巡る遊歩道を散歩する事にした。
確かに小崎が自慢するとおり、西日に照らされたポプラの新緑が海から吹いてくる夕方の風に揺れてざわめく様子は溜息が出るほど美しかった。
その絶景を眺めながらぽつぽつと歩いていると、ポプラ並木の内側にあるアキニレの林の中に白い建物群が見えてきた。
「あれは、わだつみ学園の校舎かな?」
パンフレットによると、このわだつみ学園は広大な敷地の中に大小2つのグラウンドと、幼初中高の基本学年用に各1舎づつ、大学の専門学科と選択科目の専用教室用に4舎の計8舎の校舎、さらには様々な専門の教育施設を持っているはずだ。
中でも学園の中心となる中央校舎は独特の形をしている。
中高大の校舎がコの字型に配置され、コの字の開いた場所に講堂が3つ、指を開いた掌のような形に配置されている構造だったはずだ。
ちなみに幼稚部と初等部はそれぞれ別の場所に校舎があり、さらに大学の研究室も中央校舎とは離れた場所にあるらしい。
その特徴的な校舎に興味を覚えた蒔梛は外周道路を横切り、アキニレの林を渡って大学舎と第一講堂の間から中央校舎の中に入った。
講堂より西の土地は幾分下がっており、講堂はその高低差を利用した階段式作られていたので、講堂より東側に位置する中高大の校舎が建っている土地は外周道路よりも幾分高い場所にあった。
オペラハウスか映画館のように入り口が階段状に何段にもなっている校舎というものが珍しかった蒔梛は、2階3階を半円状に繋ぐ空中回廊で立ち止まっては、都心の公立高校とは違う大きなキャンパスの空気を胸一杯に吸い込んで味わった。
「すーーっ……はあ~~」
「ん~~。これが世界でトップクラスの学校の香りなのね。やっぱりすごいわ」
あの出来事を全て忘れ、ここで新しく出直そう。ここでならきっと新しい自分の……普通の生活が送れるはずだ。自分はもう何にも捕らわれず、誰にも責任を持たなくてもいいのだ。
一見、前向き。しかし実は後ろ向きな希望を抱いて蒔梛は講堂を駆け上がり、中央学舎に囲まれた中庭の見える一番上の階にでた。
左手には放射状に伸びる講堂と、その入り口もかねた回廊。
右手と正面には三階建ての白い校舎が中庭に大きな影を落として建っていた。
「確か、正面に見える北側の建物が高等部の校舎よね。明日からあそこで勉強するのね」
さすがに日曜の午後5時近くともなると校舎の中には全然人気はない。
かろうじて大学の校舎から大学生らしい女性の二人組が出てきたぐらいか。
と、その二人組は蒔梛に気がつくと数瞬、お互いに顔を見合わせて言葉を交わした後、蒔梛に向けて深々とお辞儀をして去っていった。
年上からそんな丁寧な挨拶をされた事のない蒔梛は、どぎまぎしながらなんとかお辞儀を返した。
「びっくりしたぁ。あの人たちって大学生よね?」
「この学校って、会う人みんなにあんな風にお辞儀をしているのかしら?」
金髪縦巻きロールの女子高生が出てくるアニメとは言わないが、某乙女の園的な上流学園物の匂いのする挨拶ではある。
毎朝夕、登下校する度に生徒たちが『ごきげんよう』とかいいつつ、周囲にバラや百合の花を飛び散らせて挨拶している風景を頭の中に思い浮かべると、庶民育ちの蒔梛は『うげげげ』と悲鳴を上げて身震いした。
「きっと私の格好を見て、外部のお客さんだとおもったのよね?」
うん、きっとそうだ。そうに違いないと自分を納得させながら、蒔梛は小崎が用意してくれていたここの制服に着替えて来なかった事を後悔しはじめていた。
|(またあの守衛さんみたいに、誰かに不審者扱いされたらどうやって説明しよう?)
正門で止められた時は珊瑚が助けてくれて事なきを得たが、もしもまた同じような事が起きたら、やっぱりどんなに胡散臭くさくても『自分は理事長だ』と言って突っぱねるしかないのだろうか。
そんな事を考えて中庭を通り過ぎようとしていた時、
「おい、そこの!」
鋭い男性の声に呼び止められ、蒔梛は危惧していた事が現実になったと思った。
「はっ、はい」
「高等部の生徒だな? 高等部までは校内にいる時は制服着用が規則のはずだ。名前とクラスを言え」
高等部のある北側の校舎から出てきた男性は、そう言うと厳しい表情で蒔梛を睨んできた。
「はい……あの……」
警備員ではない。
背広を着た……おそらく先生のうちの誰かだろう。
30代後半? ヤングアダルトと言うよりは、もう少し落ち着きの出てきた年代の男性だ。
収まりの悪い黒髪に鋭い眼差しの瞳で蒔梛のことをにらみつけている姿は、先生なのにどこか警備員達と似たような印象を持っている人物だった。
ジャケットを着ていても分かる引き締まった体のラインのせいだろうか。
「どうした? 日本語は分かるんだろう?」
ぶっきらぼうで、どこかこちらを見下しているような断定的な物言い。
蒔梛はトラウマを抜きにしてもこの手の大人が大の苦手だった。
子供にとって未知の知識と経験を有していて、自分の正当性を揺るぎなく持っている『大人』。
そしてそれを『子供』である自分に押しつけてくる相手が蒔梛は一番嫌いで、苦手な相手だった。
何しろ相手は自分にはない『解答』を持っているのだから。
自分が一生懸命考えて下した答えを一方的に『不正解』にする権利を相手は持っている。
一生懸命勉強して知識を蓄え、都内の公立学校始まって以来の才女と言われても、『実戦』を経験したことのある大人には通用しない。
『テスト』しか経験した事のない自分は、正解の回答が書き込まれた答案用紙をみてもビビらない相手には、どこまでも無力な小娘でしかない事を蒔梛はよく知っていた。
「はっ、はい、私は……その小碓蒔梛といいます。クラスは……その……まだ教えてもらっていません」
「ん?」
「あの……私……今日、初めてこの学園にきたばかりで……」
「ああ……なるほど、じゃあ君が噂の理事長のお孫さんか」
「新入生用のオリエンテーリングも終わったこんな中途半端な時期に転入してくるとは、よほど自分の力に自信があるらしいな?」
「え? いえ、私は……別に……」
「話に聞くところによると、君は理事の役も引き継いで姫の候補にもなっているということだが、いったいどんな力を持っているんだね?」
「力……ですか?」
教師の言う言葉の意味が分からず、蒔梛は首をひねる。
「君もこの学校に入学を許されたのなら、真のエリートとして認められたんだろう?」
「なら、それ相応の力を持っているはずだ」
「と……言われてましても……」
理不尽な断定をされながらも、学園の理事長であった祖父の孫としてみっともない返答は出来ないと蒔梛は思う。
「えっと、一応成績は前の学校では一番でしたけど」
「成績? なんの成績だ?」
「え? なんのって……勉強です、もちろん」
「ふむ……と言う事は、君の力は『勉強』か?」
「? ……だと思います」
どうもさっきから会話が噛み合っていない気がする。だが、蒔梛にはそう答えるしかない。
「勉強というのは『学ぶ』という事だったと思うが、君は『学ぶ』ことが人より優れているということか?」
「え? あの……」
「『学ぶ』力が優れているのは分かったが、それが何かの役に立つのか?」
「……は?」
|(ちょっと……なんなのよこの先生は? 着いたときから変な学校だとは思ってたけど、高校生が勉強できてなにが悪いっていうのよ!?)
突然現れて意味不明の問いをしてくる教師に、蒔梛はとまどいと怒りを覚え始めていた。
「ふむ……君は何か勘違いをしているようだな?」
「いいかね。他人にはまねのできない突出した才能、それを持つ者を人はエリートと呼ぶ」
「そして真のエリートとは、その才能を自分と他人の為に発揮出来る人間の事だ」
「この学校は真のエリート達を育成する為の機関として、我々教師も生徒個々人の力のバリエーションに合わせて最も適した指導方針を用いて教育している」
「そして生徒達も、自分の力を成長させながら将来それで何をなすべきかを常に考えて学んでいるんだ」
「しかるに君は、自分の力を『勉強』だという」
「勉強というのは、自分の力を育てる為にするものだ」
「その力を使って何かをなしてこその『力』であり『才能』であるべきなのに、君は君のの力が自分を育てる為に『だけ』あるという」
「もしかして君は、世界は学校や自分の中にだけしか無いと言うつもりかな?」
「え……いえ……そんなことは……」
|(確かに勉強の意義はそうだけど……でも、世の中の大半の高校生はそんなものじゃないの?)
|(みんな、今は学校の勉強や倶楽部で精一杯のはずよ)
|(校外の活動を生活の主軸置いている人も居るとは思うけど、それは僅かな例外よ。大抵の高校生は私と同じように学校に関する事がほとんどで、それ以外は恋や遊びのことぐらいしか考えてないわ)
|(自分の力を使って社会に何が出来るかなんて、考える余裕なんてまだないし、それを考えるのは大学に行ってからでもいいはずだもの)
突然現れて自分をこき下ろす教師に内心むかつきつつも、相手の放つ迫力に蒔梛は何も言い返せなかった。
「言っておくが、学校という所は社会に対しては何も生み出さない所だぞ?」
「自分の心の中というものも同じだ」
「学習や友情、思い出や試練といったものは自分にとってのみ価値があるもので、他人にとってみれば何の価値も無いものだ」
「この学校は知識の量や才能のあることをひけらかしたり、もてあそんだりする場所ではない」
「それをもって外で何が出来るかを問う場所なのだ。君には何ができるんだ?」
「………………」
「……これだけ言ってもだんまりか。『あの』理事長のお孫さんが来ると聞いて楽しみにしていたんだが、どうも見込み違いだったようだな」
「君。名前はなんと言ったか忘れたが、成績表だけで生きていくつもりならこの学園はお門違いだ」
「今からでも遅くはないから私立の名門校への転入手続きをする事を勧めるよ」
「あっ……な……」
『あなたに一体なにが分かるっていうんですか!!』
心の中で大声で怒鳴り散らしても、体はただ怒りに震えるばかりで何も声を発してくれなかった。
そんな蒔梛をあざ笑うかの様に、その教師は少し肩を持ち上げると蒔梛の前を通り過ぎて中等部の入っている東側校舎のグランドエントランス――中庭と第一校庭を繋ぐ門――をくぐって姿を消した。
「――なっ、なんなの! あの教師は!?」
「人のことを何も考えてないでくの坊扱いして!」
「突然『お前の力はなんだ?』なんて、人をオリンピック選手か何かと間違えてるんじゃないの?」
「んじゃ、『鉄棒です』とか答えたらどーすんのよ!? 鉄棒で世のため人のために何かしろってこと? ぶぅわっかじゃないの!?」
教師の姿が消えると同時に蒔梛にも声が戻ってきた。
次から次へとわき上がる教師への罵詈雑言を思いつくまま叫び続けると、足下のレンガ敷きの中庭に転がっている小石を蹴飛ばした。
しかしそれでも怒りがおさまらず、蒔梛は綺麗に剪定されたツツジの葉っぱをちぎって教師の消えたエントランスに向けて投げ捨てた。
「お前なんか理事長命令でクビだ、ぶぅわあぁーかっ!! くっ……はぁ……はあぁぁぁ~……なにやってるんだろ、私……」
|(今頃ひとりでこんな風にわめき散らしても意味ないじゃんね……)
枝ごと葉っぱを引きちぎってしまった手が痛い。
見ると手のひらにうっすらと赤い筋が付いていた。
「ダメだなぁ……どうしてもあの年頃の男の人には言い返せなくなっちゃう」
「女の人になら、まだずいぶんましなんだけどなぁ」
この学校がエリート校なのは覚悟して来たつもりだが、どこかで何とかなるという思いがあったのも確かだった。
これでも自分は都立の高校では並ぶ者のない優秀な生徒であったのだし、先生達の評判も……思い出したくもないが、かなりのものだった。
だから、どれだけ優秀な生徒が集まる学校かは知らないが、落第することだけは無いだろうとタカをくくっていた事も事実だ。
だけど、さっきの教師の言っていた事は訳が分からないながらも、蒔梛の心を大きく揺さぶる力を持っていたことだけは確かだった。
|(この学校は私の知っている普通の学校とは何かが違う……)
蒔梛は里心を振り払う為に出かけた散歩で、さらに心細さを増してグランドロッジへと戻る事になったのだった。