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グランドロッジ

 ◇◆◇◆◇◆◇


 第1話 4幕 グランドロッジ


 ◇◆◇◆◇◆◇


「こ……ここが?」


 蒔梛は目の前に建つ、白亜のお屋敷を見て絶句していた。


 確かに『わだつみ学園』は広大な敷地を持っているようだ。その証拠にチャペルを出てからグランドロッジと呼ばれる理事長宅まで、たっぷり15分は歩かされた。


 薔薇園を抜けると、歩道はそのまま学園をぐるりと取り巻く遊歩道へと姿を変えていた。


 車が二台、余裕を持って行き違えるほどの幅をもつその遊歩道の脇には、大きなポプラの並木があり、よく手入れをされた並木道が奥の森へと続いて行く様子は、どこかヨーロッパの田舎道を連想させる。


 珊瑚と手を繋ぎ、気持ちのいい春の風に吹かれながらちょっとした散歩を楽しむことしばし、遊歩道の外れの森の中に南北戦争時代のアメリカ南部の豪農の邸宅かと思えるような白い屋敷が現れたのだった。


「ええ、そうですよ」


 大口を開けたまま屋敷を見上げる蒔梛の様子を見て、珊瑚はにっこりと微笑む。


 なるほど、やはりここがグランドロッジらしい。だが、私立とはいえ、仮にもここは学校の中のはずだ。なのにその敷地の中にこれほどまでに大きな個人の邸宅があることが蒔梛には信じられなかった。


|(お爺さま……デビット・アルマータ氏はヨーロッパの方なのかしら? そう言えば向こうでは学校の中に教師が住むのはそんなに珍しくないことなんだっけ?)


「本来ここは理事長のお宅であると同時に、学園の招いた特別なお客様をおもてなしする為の施設でもあるんで、生徒は立ち寄っちゃいけないことになっているんですけどぉ……」


 呆然としながら屋敷を見上げている蒔梛の疑念を読みとったのか、珊瑚はそう答えると不意に樫の木で作られた大きな観音開きの玄関ドアに近づき……。


 どんどんどん。


「ちょっとぉ~すみませーん! 誰かいませんかあぁぁ~?」


 届かないドアノッカーの下を拳で叩きながら鈴100個の声を張り上げて叫んだ。


「うわ、ちょ…珊瑚ちゃん!?」


 蒔梛があわてて珊瑚の体をドアから引きはがそうとするも、珊瑚はドアノブをつかんで離さない。


 そしてあろう事か、今度は足まで使って殴る蹴るしてドアを叩き続けた。


「うぉりゃ~っ、さっさとあけんと水ぶっかけて玄関びちょびちょにしたんぞワレぇ~」


 どこのヤクザだと蒔梛が心の中でツッコミを入れながら、ようやくドアノブから珊瑚を引きはがす事に成功すると、珊瑚は今度はペットボトルを取り上げ、キャップを開けて中の水をドアにぶっかけようとする。


「はわわわわっ」


 またまたあわてて、蒔梛がそれを制止しようとしたとき、


 ガチャゴン。


 重々しい閂がはずれる音と共に静かに玄関扉が外へと開いた。


 ぬっ。


「っ!」


 中から現れたのは、異様に肩幅の広い、そして背中が折れ曲がり、その部位の背骨が醜く瘤のように突きだした体つきの老人だった。


 けれど、二人が本当に驚いたのはその異形の体を見たからではない。


 そのごつごつとした筋肉と、異常に歪んだ骨格で作られた体の上には、カエルとハゼを足して二で割り、足で踏みつぶしたような醜いエラ張った顔が乗っていた為だった。


 そのあまりの規格外の醜さに、蒔梛だけでなく珊瑚も声を無くして、まじまじと目の前の人物を観察してしまう。


 頭髪は薄く、頭頂部にかろうじて白い毛が残っているだけだ。


 少し視線を下げると、狭い額の下には面積比で顔の三分の一ほどもある大きな目があった。


 有るのか無いのか分からないぐらい薄い瞼から飛び出したまん丸で巨大な眼球が、左右別々にギョロギョロと動いて蒔梛たちの様子を伺っている。


 さらに下に視線を移すと、平たくつぶれた大きな鼻が見えた。つぶれて上を向いた鼻の穴が正面から丸見えになっている為、そこからは太い鼻毛が幾本か覗いて見える。



 唇はぶ厚く、特に下あごが発達していて、大きく張り出したエラと相まって、全体的に深海魚そっくりの容貌をその老人に与えていた。


 そんな容貌の人間がきっちりとした上質なタキシードを着て現れたのだから、蒔梛は一瞬、深海魚が執事をする竜宮城に来てしまったのかと思ったぐらいだった。


「なにか御用ですかな?」


 二人がそのまま硬直していると、目の前の人物はその外見にまことにふさわしい、つぶれたウシガエルのようなくぐもった声でたずねてきた。


「あ……あの……私、小碓蒔梛と申します。あの……この手紙を戴いてここに来たんですが……」


 我に返った蒔梛が鞄から祖父の遺産相続証明書と、手紙を取りだして渡そうとすると、

「それにはおよびません。ようこそいらっしゃいました蒔梛様。私は当家の執事で小崎栄次郎(こさき えいじろう)と申します」


 執事と名乗った男は手紙を差し出そうとした蒔梛の手をやんわりと押し戻すと、うやうやしく一礼してみせた。


「旦那様……蒔梛様のお爺さまであらせられますデビット様がご存命の頃より、私めがこの屋敷の管理をさせて戴いております」


「蒔梛様に於かれましても、御不自由なくお暮らしいただけますよう、誠心誠意務めさせて戴きますので、どうかよろしくお願いいたします」


 小崎はその容貌からは想像出来ないほど丁寧な対応で蒔梛を出迎えてくれた。


「あ、はい、こちらこそどうぞよろしくお願いします」


 思わぬ厚遇で迎えられ、蒔梛もあわてて頭を下げる。


「では、お部屋へご案内いたします。お荷物はそれだけですかな?」


 固まったままの珊瑚の手から荷物を受け取ると、執事はどこかぎこちない足運びで玄関ホールの高価そうな絨毯の上を歩き、ホール中央の階段に向かって進んで行く。


「あっ、ちょっと待って……ありがとうね、珊瑚ちゃん」


 完全に珊瑚を無視したまま案内を始める執事を呼び止めようとするが、小崎の足は止まらない。仕方なく珊瑚にここまで案内してくれた事の礼を簡単に言うと、蒔梛はあわただしく小崎の後を追った。


「姫さま、明日の朝、学校に行く前に迎えに来ますからね」


 ひとり玄関の外に残った珊瑚が手メガホンで叫けぶ。


 その声に思わず振り向くと、心配そうにこちらを見つめる珊瑚の姿が勝手に閉まり行く重い扉に切り取られて……消えた。


 ぎぃ……ズドンッ。


 広いホールに扉の閉まる音が響く。その瞬間、蒔梛は魔境に一人残されたような気持ちになり、今更ながらに心細くなった。


 出会ったばかりで、言うこともやることも破天荒でどこか間が抜けている珊瑚。とても世界的な名門校に通うエリートとは思えない。


 しかもそんな彼女が自分の世話役だと聞くに及んで、なんの冗談かとさえ思う。


 けれど、そんな彼女の一見何も考えてなさそうな笑顔が、いかに自分の気持ちを軽くし、支えていてくれていたのかを、珊瑚と離れて初めて蒔梛は知ったのだった。


「……もう、よろしいですかな?」


 ふと気が付くと、いつの間にか小崎が階段の下で立ち止まって蒔梛を待っていた。


「あ、はい。すみません。今行きます」


 あわてて小走りで駆け寄ると小崎は再び歩き出し、ぎこちない足どりで階段を上っていく。


 ギシ……ギシリ……。


 その、どこかびっこを引くような歩き方は、やはり骨格の歪みから来ているのだろうか。


|(痛そうね……まるで、初めて陸に上がった人魚姫みたい)


 不意に意識の中に浮かんできた言葉に思わず苦笑する。


|(もっとも、こんな人魚姫だったら、とてもじゃないけど王子様とのロマンスは無理でしょうけどね)


 と、蒔梛がそんな失礼な事を考えているとは知るはずもない小崎は、蒔梛の荷物を抱えたまま玄関ホールの正面にある中央階段をゆっくりと昇っていく。


 蒔梛はやっぱり荷物は自分で持った方がいいかしら? と考えて、止めた。


 小崎は容貌はともかく、その物腰や態度はかなり立派なプロの執事だ。


 そのプロが荷物を持つと言ったからには、それを断るのはプロの仕事を信用しないと言うことに繋がるからだ。


 まあいい、どちらにしろここまで来たからにはじたばたしても始まらない。時間はたっぷりあるのだ。ならばゆっくりと歩きながら、せいぜいこの屋敷の中でも見物させてもらおう、と蒔梛は考えた。


 そう決めると、さっきはあれだけ心細かった気持ちが少しだけ落ち着いてきた。


 ゆっくりと進む小崎のペースに合わせて歩いていると、屋敷の中を見渡す余裕も生まれてきた。


|(それにしてもすごいお屋敷ね。お爺さまって、どれだけお金持ちだったのかしら)


 まるで映画の中に出てくるような、豪奢な洋館の玄関ホールと巨大な階段の作りに溜息が出る。


 毛足の長い赤い絨毯は、一歩踏み出すたびに1センチ近く足が埋まるほどだ。


 だが、それほどまでに厚い絨毯を敷いていても、なぜかこの館の中は薄ら寒く感じてしまう。


|(昔の家だから? それとも広すぎるからかしら?)


 そう言えば、この広いホールも明かり取りの窓は玄関扉の上にあるステンドグラスだけしかない事に蒔梛は改めて気がついた。


 そのせいなのか、全体的に薄暗く、人気のない事もあって館の中の空気は底冷えしていた。


|(外は五月の陽気なのに、この館の中だけ暗い海の底みたい……)



 そんな事をつらつらと考えていると、階段の折り返し地点にあたる広い踊り場に着いた。階段はここから左右に分かれ、館の二階に巡らされた回廊(キャットウオーク)へと続いているようだ。


 小崎が立ち止まったまま、じっと正面の壁の上を見つめて動かないので、不審に思ってそちらに目を向けると、そこには椅子に座った男性が両手に持った杖を床に突き、こちらを見ている様子を描いた大きな肖像画がかかっていた。


 日本人ではない。


 ロマンスグレーの髪に片目眼鏡をかけた異国の容貌をした老人の絵だ。


 鋭い印象の輪郭を持ちながら、どこか包み込むような優しさを秘めた瞳は、蒔梛には高節を持する人物の風貌に見えた。


「あの……?」


「先代の理事長、デビット・アルマータ様でございます」


|(デビット・アルマータ……私のお爺さま?)


 よく見れば、確かに蒔梛の面差しと似通っているところが無くもない。祖父だと言われれば、そうかも知れないと思う。


 その祖父が超のつく資産家で、孤児であった自分を探し出してくれたと思った矢先、あろう事か何者かによって殺され、自分はその資産を受け継ぐ為にこの学園に来る事になった……。


 まるで、どこかで見たテレビドラマのようなストーリーだと思う。


 しかし、蒔梛にはやはりその出来すぎた物語を頭から信じる事は出来なかった。


 住み慣れた家や義弟妹たちと別れ、天涯孤独となった今。会った事も話し事もない相手を安易に信じ頼り切ってしまったら、こののち、万が一にも期待を裏切られるような事になった場合、不安と寂しさにかろうじて耐えている自分の意気地がぽっきりと折れてしまいそうな予感がしていたからだった。


 自分は本当にここに居ていい人間なのだろうか? この絵の人物は、本当に自分に繋がりのある人なのだろうか? それを確認しなければ、一晩とてここに留まる事は出来ない気がした。


「あの……お爺さまはどうして私と名字が違うんでしょう? 私は本当にお爺さまの孫なんでしょうか?」


 せめて自分と祖父との繋がりぐらいは知りたいと思う。


 どうして自分と祖父の姓が違うのだろうか? アルマータ氏が父方の祖父であるにせよ、母方の祖父であるにせよ、真実自分の祖父ならば名字が違う理由を知りたい。


 さらに言えば、その姓をもつ人を捜せば、名前も知らない自分の両親の事も分かるかも知れない、と期待している所もある。


 なぜそうまでして肉親の事を知りたいのかと言えば、それはやはり蒔梛が戦災孤児だからだろう。


 戦災孤児は、大戦直後なら珍しくもない存在だった。


 だが、戦後30年以上経った今では、名前こそは戦災孤児でも、その実体は戦後生まれの無軌道な親の育児放棄による被害児童と言った方が実体に即しているのが現状だ。


 そうした親が生まれた理由も、また戦争と戦後の混乱期に帰因している。


 戦後の復興期には孤児だろうが浮浪者だろうが、貴重な労働力として社会はそれを重用していた。だが、やがて社会が安定期に入ると、人の作る社会構造が持つ負の側面が目立つようになってきた。


 富の集積が進み、貧富の差が生まれると、それは様々な差となって現れるのだ。


 そして、その差は誰もが等しく全てを失った戦後の世の中に於いて、唯一平等ではなかったもの、すなわち人間の質の差であると見なされるようになったのだった。


 当然、差別される側はその考えを快くは思わない。


 平等に貧しかったとは言っても、やはり僅かながら資本をもったまま生き残った人間も居たからだ。


 そんな人間が自分たちを馬匹の如く働かせ、搾取する者たちが差別するならば自分たちも彼らから奪ってやる。そう決意した一部の生活困窮者は、当時まだ数多く残っていた統治の及ばない日影の場所に住処を見つけ、武装するようになった。


 やがてそれらの人々がかつてのマフィアの様な組織を作り、社会の暗部に確固たる地位を築くと、国の統治が以前のように安定してからも彼らのような無軌道な自由人にあこがれる若者が現れだした。


 それらの若者はそれ以前の人々のように生きる事に必死ではない為、どこかに人として甘えがあったのだろう。


 戦国時代に乗り遅れた浪人たちのように、自分たちの力を誇示できる場所を追い求め、また、ある者は今は伝説となったアウトローの生き様にあこがれて武器を手に取った。


 そしてそれらの若者が無軌道かつ無計画に生きた結果、彼らの間には沢山の子供が生まれる事になった。だが、人の親となっても彼らには自分の子を育てる意志はなく、沢山の子供達が生まれた側から親に捨てられる事になった。


 その子供達は、それまでの慣例に従って戦災孤児と呼ばれたが、その実体は極道の親たちによって捨てられた子供達である事は、誰もが知っていた。


 だから戦災孤児たちは虐められる。


 本人に何の落ち度がなくても、親|(と社会が見なすゴロツキたち)の犯した罪の為に身に覚えのない差別を受け、イジメや中傷の的にされる事は日常茶飯事だった。


 もちろん、蒔梛も例外ではない。優秀な子供であるが故に受ける妬みや嫉妬は他の子供より大きかったとさえ言える。


 自分は捨てられた子供じゃない。誰からも愛されない……ダメ人間の親からさえ見放されるようなクズじゃない。


 それは蒔梛が施設の固い安物のパイプベッドの中で、薄い布団にくるまりながら何度も悔し涙を流しながら呟いた言葉だったが、今、ようやくその答えを得る機会が来たのだ。


 だから、蒔梛は祈るような気持ちで小崎の返答を待っていた。


『もちろんで御座います。旦那様は蒔梛さまの実のお爺さまで御座いますとも』このプロフェッショナルな執事が、そう言って頷いてくれることに大いに期待しながら。



「……申し訳御座いません。私は詳しくは存じ上げません」


 しかし、小崎の返答は蒔梛の期待とはほど遠いものだった。


 期待していた分だけ、気持ちの落ち込み方が大きい。


「ただ、旦那様は学園をお作りになる時、こちらでご結婚なさっていた奥様と離婚なされたと聞いています」


「おそらく、その時に姓を元に戻されるか、変えられるかされたのではないでしょうか?」


「離婚? という事は、私にはお婆さまがいるの?」


 一瞬、つぶれかけた希望が再び膨らんだ。


 しかし、その希望も手が届く前に去っていってしまう。


「さよう存じますが、詳しいことは私にも分からないのです」


「え?」


「私が旦那様のおそばに上がりましたのは、この学校が『わだつみ学園』として出来て間もなくの頃でございます」


「それ以前もそれ以後も、旦那様はご自分の過去をほとんど話されたことはございませんでした」


「先ほど申し上げました事も、お仕えして間もない頃に学園のお手伝いをしておりましたおりに、ほんの少し小耳に挟んだ程度の事。その後の奥様がどうなったかなどは、全然存じ上げておりませんので……」


「じゃあ、私の事は?」


「お爺さまが亡くなった時に、私に手紙をくれたのはあなたでしょう? どうやって私の事を知ったの?」


「一月ほど前のことでありました……」


 小崎は一旦言葉を句切ると、ホールの宙を見つめて遠い目をした。


「旦那様が私を書斎に呼ばれまして、蒔梛様をここへお呼びして、ご自身の跡継ぎにするようにとお申し付けになられたのです」


「お爺さまが?」


「はい。故あって今まで別れて暮らしてらしたのが、ある事情によって蒔梛様をこちらへ引き取る事にした……とおっしゃっておられました」


「私はその命に従って、即日学園の事務方の方には手続きを行いました。がしかし、後日蒔梛様の方へお知らせする手続きをしている最中に、学園に侵入した何者かによって旦那様が殺害されると言う、痛ましくも信じがたい不幸な出来事が起こってしまったのです」


 その小崎の言葉に蒔梛は愕然とした。


 やはり自分はヤクザ者の親に捨てられた子供ではなかった。何か事情があって、やむをえず肉親と別れて暮らしていたのだ。


 だが、祖父が語ったとされるその『事情』には、どこか焦臭いきなくさい匂いのするニュアンスが漂っていた。


 どうも自分は期待していたような、偶然や運命のイタズラによって両親と引き離されたケースではないらしい。と蒔梛は感じていた。


 おそらく祖父は以前から蒔梛のことを知っていた。けれどもそれでも自分を迎えに来ようとはしなかった。


|(それはどうして? 私がここに居ると不都合だから? まさか、私は本当に捨てられたの? でも、それならどうして今更私を呼び戻したりなんか……)


 蒔梛は、祖父が今まで自分を迎えに来なかった理由を思いつく限り並べてみた。


|(借金取り……は違うわね。こんな学園を買えるぐらいお金持ちなんだもの)


|(あの事件のように、私が誰かに狙われていたから? ううん、だってそれ以前は戦災孤児だけど、ごく普通に暮らしていたわ。少なくても私は誰かに恨みを買うような覚えはないし……)


|(じゃあ、お爺さまが誰かに狙われていたとか?)


|(お爺さまを殺したのは、学園の資産を狙った物取りの犯行説が有力だって新聞には載っていたけど……でも、それじゃあ、そこに私を呼び寄せるはずはないわよね?)


(うーん……)



 蒔梛は頭の中でいくつもの推論を展開していくが、そのどれもが満足のいく帰結を得られなくて消えていく。


「ダメだわ、やっばり分かんない! 教えて小崎さん、お爺さまが言っていた『故』ってなんですか!? 私が呼び戻れるきっかけになった『ある事情』ってなんなんです?」


 ずっと求め続けていた答えがすぐそこにあるのに、手が届かない。


 蒔梛はそのじれったさにこらえきれずに、思わず小崎につかみかかっていた。


「ぞ……ぞんじま……せん……ぐほっ」


 小柄な小崎の襟元をつかみ上げた蒔梛の拳が喉仏を押しつぶし、息が出来なくなった小崎が苦しげに喘いだ。躰に染みこんだ道場での鍛錬が無意識に出てしまった結果だった。


「あっ、ごっ、ごめんなさい。小崎さん、大丈夫?」


 我に返った蒔梛があわてて手を離し、咳き込む小崎の背を撫でる。


 ごつり。


「きゃっ」


 小崎の背を撫でた時、手から伝わった異様な感触に、思わず蒔梛は悲鳴を上げて手を離してしまっていた。


 酷く曲がった小崎の背中は、人間ではあり得ないような骨の形を蒔梛の手のひらに伝えて来たのだった。


「ごほ……ごほん……失礼致しました。私の骨が曲がっておりますのは、この辺りの風土病のせいでございます」


「風土病?」


 どきりとして、思わず自分の手をスカートでぬぐってしまってから、蒔梛は小崎の視線に気がついて目を伏せた。


「ご……ごめんなさい……私……」


「いえ、お気になさらずに」


「風土病とは申しましても、昔から夜刀浦に住む村民の間にだけ発病する病気でして、遺伝病の一種と聞いております」


「ですから、蒔梛様にうつるような事はこざいませんので、ご安心ください」


「いえ……その……ごめんなさい」


「いいえ。それでその……どうして旦那様が蒔梛様と別れて暮らしていたか、でしたかな?」


「あ……はい、お爺さまが私の事を知っていたなら、どうして今まで私を迎えに来てくれなかったのでしょうか?」


「それとも私の事は、亡くなられる直前に知ったのでしょうか?」


「それは生憎と私にも分かりません」


「ですが、二ヶ月ほど前に旦那様が誰かと電話で話しておられるのを見かけた時、ずいぶん焦ったご様子でお話しになられていたのを覚えております」


「お爺さまが焦って? 何を話していたの?」


「生憎と話の内容までは分かりませんが、よほど焦っていらっしゃったのか最初の一言だけ、ことのほか大きなお声で叫ぶように話されていたので、その言葉だけは記憶してございます」


「それは?」


「『私だ。まずいことになった、蒔梛の事がバレたのかもしれん……』と」


「私の……?」


 何がバレたと言うのだろう。


 自分では思い当たる節のない祖父の台詞に、蒔梛は首を傾げた。


「どういう意味なのかな?」


「存じあげません」


 容姿以外は完璧な執事である小崎は自分の憶測を披露することなく、淡々とした様子で事実だけを蒔梛に伝えた。


「ただ、それ以来、旦那様はあちらこちらと忙しく連絡をおとりになり、しばらく経った頃に私を書斎に呼ばれて申しつけられたのです」


「蒔梛様を……このお屋敷に引き取ることにした、と」


「……………………」



|(どういう事なんだろう?)


|(少なくとも今までの会話から、やはりお爺さまは以前から私のことを知っていらしたのだと言うことは分かったわ)


|(そして、私は『私自身』、あるいは『私の何か』を隠す為に肉親から引き離され、ずっと天涯孤独の孤児として施設で暮さざるを得なかったと言うことも)


|(問題は、『誰から』私を隠したかったのか、ね)


|(それと、どうして急に私を引き取る事にしたのかも謎だわ)


|(私を隠さなければならない問題が解決したから……とは到底思えないし。となると、正解は真逆の『このままでは不味いと思う問題が起きたから』と見るのが正しいでしょうね)


|(でも、問題ってなに? ――待って、さっき小崎さんが二ヶ月前って言ってたわよね? それってやっぱり……)



 二ヶ月前に起きた、死者8人を越える大惨事となった『あの事件』の事を記憶している人間は今でも多い。


 一時はテレビや新聞、週刊誌などが事件の主犯格である英語教師、沢田光と共犯とされた教え子達のただれた関係をおもしろおかしく報じて世間を賑わしていた。


 中でもメディアが注目したのは、被害者の一人でもある少女Oの事である。


 事件の概要を知る生徒達が、沢田の凶行は少女Oへの抑え切れぬ気持ちが暴走した結果だ、と説明した為、世間の興味は主犯格の教師よりも、むしろその少女Oの方へと向くことになった。


 その少女Oとは……もちろん蒔梛のことである。


 そして事件が解決してからの一ヶ月とすこしの間。


 蒔梛はただひたすら誰の顔も見ず、誰の話も聞かずにうつむき、地面を見つめて暮らす日々を送っていた。


 蒔梛の祖父であるデビット・アルマータ氏が亡くなった事を知らせる手紙が着いたのは、そのころの事である。



「小崎さん、その時お爺さまは他に何か言っていませんでしたか? 例えば、誰かの名前とか」



「申し訳ございません。私めが知る蒔梛様についての言葉は、先ほどのもので全てで御座います」


「旦那様が亡くなられて以後は、生前の旦那様のご意向に従って蒔梛様を当学園の後継者としてお迎えする為に準備し、お手紙をお出ししただけでございますので……」


「そう……そうですよね、ごめんなさい……」


|(この人はお爺さまではない。主の命令で手紙をくれただけの唯の執事なんだ)


|(結局、私は……今でも独りぼっちなのね……)


 自分には祖父がいて、ずっと自分を見守っていてくれた。そんな希望的観測に浮き上がっていた気持ちが、今の現実を直視する事で再び落ち込んできた。


「さて、少々こちらでお時間をとってしまいましたが、先に進ませて頂いてよろしいですかな?」


 小崎の問いに蒔梛は無言で頷いた。


|(そうよ。この人は当主の孫だという理由で、私に言葉をかけてくれているだけなんだ)


|(私の為に用意したという部屋も、この屋敷も学園も、全てデビット・アルマータという見たことも話したこともない人のいいつけによって用意されたものなんだわ)


 おそらくこの学園に居る人々は、蒔梛自身を見て話す事はないだろう。


 先生も生徒も、誰も彼もが蒔梛の後ろに立つ亡くなった祖父に向けて頭を下げたり話をしたりするはずだ。


|(しかし、まあ、それも仕方がないことよね。むしろ、行くところが無かった私に居場所を提供してくれた、見知らぬお爺さまに感謝するべきでしょうね)


 蒔梛は萎えそうになる心と足にぐっと力を込めて背筋を伸ばすと、少し遠くなった執事の背中を足早に追ったのだった。






 右の階段を上ると、執事は東棟に続く二階のドアを開けて先に進んだ。


 ドアの先の廊下は北に向かって伸びていて、正面は壁、南側には両開きの大きなドアがあった。


 そのドアの先は、今は使用していないパーティー用の大広間になっているのだと蒔梛に伝えると、小崎はそのまま廊下を進んでいく。


 蒔梛がその後に付いて行くと、廊下の西側に並ぶ窓からは夕刻前の西日が差し込んでいるのが見えた。


 柔らかな午後の日射しに誘われて窓から外を見下ろすと、下に中庭らしき木立が見えた。


 木立の向こうには、壁に蔦を這わせた古い石造りの塔も見える。


|(中庭に尖塔? ずいぶん珍しい作りの館なのね)


 最初玄関から見たときはアメリカの昔風の豪邸の作りに見えた屋敷だが、中に入ってみると、所々古くて大きな石組みで出来ている事が分かった。


 おそらく表側の洋館やこの二階部分は、後から付け足しで増築された部分なのだろう。

 元々の館は、あの尖塔のような中世ヨーロッパ風な重厚な石造りであったらしい。


 さすがにそれでは住みにくかったので後に改修したのだろう。


 一通り中庭の様子を眺めて見てから、蒔梛は廊下の反対側に目を移す。


 西日がかかる廊下の東側には、かなり広い間隔でドアが並んでいる。


 そのドアとドアの間には沢山の肖像写真がかかっていて、通り過ぎるよそ者を鋭い眼差しで見下ろしていた。


 そのひとつひとつを歩きながら眺めて行ったが、どれもこれも白黒や黄ばんで色素が抜け落ちてしまったような古いものばかりだった。


 中には200年以上前のものだと思われる服装をしているものまである。


 そして、その全てが執事である小崎とよく似た面差しの日本人で、およそ先ほど見たアングロサクソン然とした蒔梛の祖父と血縁関係があるようには見えない。



|(だとすれば、この人たちはお爺さまの奥様……お婆さまの家系の人たちの肖像画なのかしら?)


 そう想像して小崎に聞いてみると、


「いいえ。こちらの方々は、この屋敷を代々受け継がれて来ました飯綱家の方々でございます」


 執事は重々しく首を振り、そう答えた。


「飯綱家……と言うと、あのロストリージョンにあったと言う飯綱大学の?」


「はい。元々飯綱大学は飯綱家の敷地に作られた学校でしたので、旦那様が飯綱家の資産を受け継いだときにこの館と大学の建物も一緒に受け継がれて、『わだつみ学園』の礎とされたのでございます。ちなみに旦那様はこちらに来る前に奥さまとは離婚されたそうで、この方たちと旦那様の奥さまとは何の関係もございません」


「そう……なんだ」


|(じゃあ、この人たちは私とは関係のない人たちなのね……)


 悪いとは思うが、自分が将来、歳をとってからもこの写真の中の人々のような風貌に変化する可能性は無いのだと知り、蒔梛は内心ほっとしていた。


 さらに続く写真の顔と、先を行く小崎の後ろ姿を見比べた蒔梛は、もしかするとこの人たちは小崎との血縁関係があるのかも知れないと思う。


 写真の人物たちが皆、小崎と同じようにつぶれた鼻や横に張り出した顎の輪郭を持っていたからだ。


|(そう言えば、ミサに来ていた人たちもみんな似たような容貌だったわね)


 むろん、小崎ほどの衆目を集める容貌をした者は居なかったが、彼らも大きな鼻や角張った顔立ちは小崎とよく似ていた。



|(……なるほど、これがロストリージョンの血統ってことなのね)


 あまり受け継ぎたくないと思う遺伝子だが、とりあえずそれは今の蒔梛が関知するところではない。


 そう結論づけると蒔梛はその絵に対する興味を無くして、次に自分がこれから向かう場所を見つめた。



「こちらが蒔梛様のお部屋でございます」


 そう言って小崎が立ち止まったのは、長い廊下を50メートルほど進んだ先。東棟と西棟を繋ぐ中棟の廊下がT字に交わる場所だった。


 この館が左右シンメトリであるとすると、館の形はHの下にもう一本横棒を描いた形になる。


 上が北になり、玄関が下だ。蒔梛の部屋は右の縦棒と真ん中の横棒の接点の位置にあった。



「どうぞ」


 小崎は懐から大ぶりの真鍮の鍵を取り出すと、T字の突き当たりにあるドアの鍵穴に差し込み、重々しい動作でゆっくりと回した。


 がちゃり。レトロなレバータンブラー式の錠前が音を立てて外れると、静かにその扉を押し開く。




「うわぁ……すごい……」


 扉が開いて蒔梛の目の前に現れたのは、白いレースのカーテンと薄いブルーの壁紙がおしゃれな部屋だった。


 横長の部屋で広さは40畳ほどもあるだろうか。真ん中でレースのカーテンで仕切れるようになっており、手前にベッドルーム、奥の部屋がリビング兼、書斎の様だった。


 贅沢な事に奥の書斎には半円形のテラスへと繋がる全解放式の掃き出し窓があり、テラスの手前には円筒形のガラス製個人用シャワールームまである。


 チェストやドレッサーも品のよいヨーロッパの田舎風の別荘の様であり、机はアンティークな形の蓋を開けると文台になるタイプのライティングデスクだった。


 ベッドに至っては天蓋付きのダブルベッドで、白を基調とした躯体には、嫌味にならない程度に金箔で上品な装飾がなされていた。


 さらに水鳥の羽だけを使ったふかふかの布団と、上から美しく優雅な弧を描いて流れ落ちる紗のベールが信じられないほどの美しさを描き出すそれは、どこの貴族が泊まるのかと言いたくなるほど豪華な物だった。


 まるで旅行雑誌の表紙にでも出てくるような、女の子なら一度は泊まってみたいと思うようなメルヘンチックな空間である。


 蒔梛は今まで暮らしてきた施設の共同部屋との違いに軽いめまいを起こしながら、ゆっくりとその部屋に足を踏み入れた。


「先にお送り戴いたお荷物は、全て中に運び入れてございます」


「ドレッサーの中のお洋服はどうぞご自由になさってください。全て蒔梛様の為に新しく買いそろえた品でございます。当学園の制服もそちらの中に入っておりますので……」


 小崎は手に持った蒔梛の鞄と真鍮の鍵をテーブルの上に置きながらそう説明した。


|(洋服? もしかして小崎さんが選んでくれたのかな?)


 ありがたいと思う反面、深海魚の様な外見の小崎が十代の少女が着る洋服をあれやこれやと並べて選んでいる様子を想像すると、ちょっと引く。


「御夕食まではまだ少しお時間がございますので、この部屋でおくつろぎ戴いても、どこかへお出かけになられても結構でございます」


「ただ、当館も学園もいささか敷地が広うございますれば、お迷いにならぬよう、お気をつけ下さいませ」


「分かりました。ありがとう」


「これからも色々と面倒をかけると思いますけど、よろしくお願いします」


「もったいないお言葉でございます。では……」


 そう言って深く頭を下げると小崎はそのままの姿勢で後ろに下がり、お辞儀をしたままの格好でドアを閉めた。


 かちゃり。


 あくまでもゆっくりと、必要以上に音を立てないプロの身のこなしだった。


 ……なのだが、なんだか高級ホテルみたいで自分の家という気がしない。


 まあ、まだ一日も過ごしていないのだから、そんな気がしても無理はないのだが、元々施設で育った蒔梛にはどうにも息が詰まるやりとりに感じられて仕方がない。


 これからここが自分の『家』であるならば、もっとフランクに、だらけた感じで自由に過ごしたいと思うのが蒔梛の本音なのだが……。


「あ~あ……私、こんなところでやっていけるのかしら?」


 ぴょん、どばふっ。


 飛び込むようにして天蓋付きの豪華なベッドの上に大の字になると、蒔梛は誰に尋ねるともなく、そうつぶやいて目を閉じた。




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