ミサ
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第1話 2幕 ミサ
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ざわざわざわざわ。
「なにこれ……」
蒔梛は開け放たれた門の前で、これからどうすればいいのか悩んでいた。
八戸浦の港に着いた蒔梛は老船長に礼を言うと約束した足代を払い、市内から出ている無料の学園直通バスの乗り場の場所を聞いて、それを使ってようやく学園の入り口に立った……まではよかったのだが、その場で固まってしまったのだった。
なぜならば、そこにはどう見ても世界的エリート校としてその名を轟かせている場所とは思えない異様な光景が広がっていたからだった。
棘の付いた薔薇の蔦を模した細工が施された鉄製の柵。大理石と鉄、そして金色に光る真鍮で出来た荘厳な門の向こうに見えるのは、色とりどりの美しい薔薇が咲き誇る庭園と訪れる者に優しく微笑む人魚の像。
「うん、さすが海辺の名門校ね。作りがリッチだわ」
さらに不審人物に目を光らせる何人もの警備員。
「これも、すっごく『らしい』わね。ちょっと怖そうだけど」
だがその光景の中にただひとつ……。
否、圧倒的に強すぎる個性で、そこだけ別の空間が転移したかのような異様な違和感と存在感を発している大勢の人々がいた。
「いや~、おミサにくるのも久々だへ~」
「んだな~。理事長はんがあっただことなってしもうて心配したども、おミサが再開されてよかっただなぁ」
そう言って目の前を通り過ぎていく年輩の人々の手には水筒や風呂敷包みのお重がぶら下げられ、服装も麦わら帽子をかぶっていたり、首にタオルを巻いていたり、泥だらけの長靴をはいていたりして、どう見ても野良仕事帰りか、よく言って花見に出かける田舎のおじちゃんおばちゃんたちにしか見えなかった。
絶対にケンブリッジやオックスフォードと並び称される名門私学校のキャンパスの風景ではない。
だが今、蒔梛の前に広がっているのは、その少女漫画の中にでも出てきそうな美しいバラ園の中を上機嫌でそぞろ歩く、田舎のおじちゃんとおばちゃんたちの姿だった。
|(え? えっ? なにこれ……多少時期は早い気がするけど学園祭かなにか?)
無理矢理状況に合いそうな説明を頭の中で立ててみるが、それにしては来訪者の客層が偏りすぎていないか? と蒔梛は思う。
それに仮に学園祭だとしても、公の場で飲酒は不味いだろう。とある中年男性などはすでに酩酊しているのか、よろけて人魚像のある噴水に足を突っ込み、あわてて飛び出て周囲に水を振りまいてさえいるのだ。
海から届く風も温かくなってきた5月。陽気に誘われた田舎の町内会の人たちが公園と間違えて学園にやって来てしまったのだろうか?
だが本来ならばそれを止めるはずの警備員でさえ、制止するどころか苦笑いと共に彼らを奥へと誘導しているではないか。
「訳がわからないんだけど?」
なんとも理解しがたい状況に圧倒されて、蒔梛はしばしその集団の外側で佇んでいた。
「はっ。と、とにかく、ここで町内会ご一行に交じってのんびりほうけている場合じゃないんだったわ。今日はこれから私の将来を決める大事な用事があるんだから……」
気を取り直すと、蒔梛は誰に声をかけようかと辺りを見回した。
と、やっぱり花見か何かと勘違いしているのか、酒瓶を持参してすでにべろべろに出来上がっている様子のおじさんの手を引いて誘導している警備員を見つけたので、その人に声をかけることにした。
「えっと……あの……すみません」
「ん? 君は誰だ? ここに何か用かね?」
突然声をかけられた警備員は軽い驚きと共に振り向くと、蒔梛を睨んだ。
ギロリと睨むその鋭い眼光は、酔っぱらいのおじさんたちに向けられる『しょうがねぇなぁ』といった困りながらも温かい眼差しとは全然違うものだった。
それは明らかに不審者に向けられる警戒の視線そのものだ。
酔っぱらいのおじさんは突然発生した緊張した空気に驚いて、あわてて仲間たちの居る方へと走り去っていく。
「あ……いえ……私は……その……」
そのあからさまに友好的ではない警備員の態度に当てられて、蒔梛はたじろいだ。
|(な、なによ。さっきの酔っぱらいのおじさんには親切にしてたじゃない。どうして私の時だけそんな怖い声を出すのよ)
「あん?」
びくっ。微かな恫喝を含む声に蒔梛の体が震え、心臓が早鐘を打ち始める。
――実は蒔梛は心にちょっとした問題を抱えていた。
それはPTSDに近い、軽い対人恐怖症のようなものだった。医者の話では蒔梛が施設に預けられる以前に体験した出来事が原因になっているので、それを払拭できれば解決出来る、との事だったが、蒔梛にはその頃の記憶がない。
そんな知らない相手と会話する事が苦手な蒔梛にとって、この警備員のような30代~40代ぐらいの男性は、特に近くによるだけで『怖い』と感じてしまう存在でもあった。
逆に男性でもここまで送ってくれた老船長や、年の近い施設の義弟たちなどは全然平気なのだ。
蒔梛にとって『怖い』と感じる相手は正に自分の『親』の年代の男性に限られており、その意味ではやはり過去に実親と何かあったのかも知れない。だが、その問題を抱えていたとしても、今は成すべき事を成す時である。
腕組みをしながらこちらを睨んでくる警備員にすっかりびびりながらも、蒔梛は何とか自分の事を説明しようとした。
「え……えっとですね……そのぉ…………」
なかなか上手い言葉が出てこない。このままでは不味い、不審者に間違われてしまう。早く事情を説明しなくちゃ……と思った所で蒔梛はハタと気が付いた。
|(そうだ。私、ここに来て自分の事をなんて説明すればいいなんて全然考えてなかった。行けば何とかなるって考えて、その前に警備員が居るなんて思ってもいなかったわ)
一瞬、蒔梛は例の手紙を出して見せようかとも思った。けれど、私的な手紙に書かれている内容など、一警備員が信用してくれるとは思えない。
なぜならば、そこに書かれた内容は、受け取った当の蒔梛でさえ信じがたいものだったからだ。学園の安全に責任をもつ警備員なら、なおさらだろう。
だったらいっそ、ここでそのまま証明書を見せて『私は――です』とか言ってみようか? いや駄目だ。賭けてもいいが、私が警備員なら1秒でそいつを校門からたたき出すか警察に通報するわね、と蒔梛は一人胸中で考える。
「用がないなら帰りなさい。ここは関係者以外立ち入り禁止なんだ」
考え込んだまま動かない蒔梛に不審感を高めた警備員が前に立ちふさがった。
その手は腰に着けられた固い革製の袋に、さりげなく添えられている。
「いえ……あの……学園の責任者の方に取り次いでもらえませんか? どなたか学園の事情に詳しい方を……」
言いながらも自然と視線が袋に吸い寄せられてしまう。その袋の中身が何かは蒔梛にも大体想像がついていた。大戦前は銃規制の厳しかった日本も、現在では特段の身分と資格をもつものには武装を許すようになっていたからだ。
蒔梛も、戦後の無政府時代に於いて、治安を回復するためにそれが必要な処置だった事は知っている。
警備員が実際にそれを使うことはないと分かっているが、17歳の蒔梛が体の大きな男性に正面からすごまれ、その手が拳銃の上に置かれているとあっては、身を固くしてしまうのは仕方がない事だろう。
だが、そんな蒔梛の様子は、警備員から見ると、ますます挙動不審の度合いを強める仕草に見えてしまうのも事実だった。
「ああん?」
案の定、自分の身分を証明する言葉を飲み込んだ蒔梛に、警備員の目つきが一層険しくなった。
次いで頭の先からつま先まで、一瞬で蒔梛の全身を見渡したのは危険物を持っていないかどうかを確かめる為か。
「責任者は今不在だ。第一、約束も無しで会える方ではない。誰かの紹介状かなにかあるのかね?」
「あ……いえ……紹介状……とかはないんですけど……」
そんなもの、あるはずがない。
蒔梛の鞄の中にしまってあるものは、一週間前に突然やってきた弁護士を名乗る男から渡された一通の通知書と、例の手紙だけなのだから。
もちろん手紙も弁護士もニセ物かもしれないと疑いはした。けれど、身よりも財産もない自分を騙して得をする誰かがいるとは思えなかった。それにもし、仮にこれがニセ物だとしても、蒔梛にはもうここの他に行くあてがないのだ。ここはどんなにすごまれようと、手紙に書いてある差出人に会うまでは、絶対に引くことは出来ない場面だった。
「無ければここは通せないな」
「外部入学の希望者なんだろうが、直談判は受けつけてないよ」
「どうしても入りたかったら、誰か有力な後援者に紹介状をもらって、入学試験に受かってから来るんだね」
わだつみ学園の入学制度は特殊であると言われている。
世界でも類を見ないスカウト入試制度を取り入れているからだ。
スカウト入試制度とは、世界各地を飛び回っているスカウトマンがこれはと思う優秀な人材を見つけてはテストを受けさせ、それに合格した人間だけが入学を許されると言う徹底したエリート養成制度の事だ。
当然、入学試験は難しいのだが。それよりもわだつみ学園を世界一の名門校にさせている要因は、入りたいと思ってもスカウトマンの目にとまらなければ入試さえ受けさせてもらえないと言う条件の厳しさにあった。
とはいえ、世の中にはいつでも抜け道というものは、用意されているものだ。
この警備員がさっき言っていたように、紹介状というのもその抜け道のひとつで、それさえあればスカウトマンの推薦がなくても試験が受けられるというものだ。
かつてのオックスフォードやケンブリッジなどの名門校が、世界中の王族関係者や財閥の子息たちなどで大にぎわいしたのは、その親たちが子供の人脈作りの為に学校を利用したからだ。
同じように、今のわだつみ学園もエリート校としての呼び名は高いが、実体はそうしたかつての名門校の様に、一部の特権階級の社交場に過ぎないのでは?
という声も世間の中にはあった。
実際に紹介状などというものがある以上、それはある程度、正しい認識なのかもしれない。
だが、そんな紹介状を取ってこられる親は、学園の中枢にコネのあるほんの一握りの人々に過ぎない。
その他大勢のコネの無い野心家の親達、あるいはその子供は、なんとかして学園に通う学生たちと直接に知り合う機会を得ようと、校門前で様々な網を張って獲物が通りがかるのを待っているのである。
そして、そうした野心家達の罠から大切な学生達を守るのも、この学園の警備員たちの大切な仕事だった。
世界の全てを変えてしまったあの戦争が終わってから38年。
生き残った者達の中で、持つものと持たざるものの差が再びはっきりしてきた。
そんな時代の変わり目だからこそ、誰しもが最後の勝ち馬に乗りたいと必死になっていた。今はそんな時代だったのだ。
「さあ、分かったならさっさと出ていってくれ。ここはもう閉めなきゃならないんだ」
『またこの手合いか』と顔にデカデカと書いてある警備員が、まるで野良犬を追い払うかのように手のひらをひらひらさせ、もう片方の手で蒔梛の肩をつかんで回れ右をさせる。
そしてそのまま門の外へと追い出そうと背中を、とんっと突いたとき、
「ひ~め~さまぁぁ~」
クリスタル硝子の鈴を100個ぐらいまとめて一度に振って鳴らした様な、脳天に響くキンキラ声が薔薇の匂いの香る典雅な庭園に響き渡った。
「こっち、こっち~、こっちですうぅぅ~」
その声に警備員が振り向くと、赤白ピンク、黄に薄紫、色とりどりの薔薇の花に彩られた美しい生け垣の向こうから、一人の小柄な少女が駆けてくるのが見えた。
「はぁはぁはぁ……ああよかったぁぁ。間に合ったあぁ~」
「今日はミサとぶつかっちゃって、人出が多いから姫さまが迷われないかと思って心配してたんですよぉぉ~」
全身から玉のような汗を噴きだして立ち止まった少女は、おもむろに赤いバンダナを巻いた首から下げたペットボトルのフタを開けて、一気に半分ほど中の水を飲み干した。
きゅぽん。
「んぐ…んぐ……」
「ぷっはあ~。ん~おいちぃ~♪」
夏の夕暮れ、デパートの屋上でジョッキを持ったサラリーマンのおっさん達がしているのと同じ恍惚の表情を浮かべて少女が水を飲む。
その様子を蒔梛はあっけにとられたまま見つめていた。
「あ……あのぅ?」
そして恐る恐るその少女に声をかけてみた。もしかしたら、この少女がこの事態を打開してくれるかもしれないと思って。
「さ、姫さま。参りましょうか。あっ、お荷物お持ち致しますね」
が、少女の行動は蒔梛の期待と予想を三歩ほど飛び越えていた。
自己紹介も警備員への説明も一切無く、いきなり蒔梛の手と鞄を持つと、強引に奥へ連れて行こうとしたのだ。
「え? あ……」
「あら軽い。姫さまあまり荷物お持ちじゃないんですね」
少女が元気よく顔を上げると、踊る前髪に巻き上げられた少女の汗の香りが一瞬、ふわりと蒔梛の鼻に届いた。
|(あ……南の島の白い砂浜の匂い……)
ふと、そんな印象が蒔梛の心に浮かんだ。潮っぽいが、決して嫌な香りではない。
「あ……ええ、他のものは全部宅配で送ったから……」
「そうですか。ここまで来るのは大変じゃなかったですか? 私も辺鄙なところにあるとは聞いていたんですけど、最初にここへ来た時はどこへ売り飛ばされるのかと思ってガクブルしてオシッコ漏らしそうだったんですよぉ。あ、そう言えば姫さまお昼まだですよね? ここのカフェテリアはフランス・イタリア・トルコ・和食に中華があって、全部本場のシェフが作ってるんですよぉ、特にオススメなのがイチゴのミルフィーユなんですけど、あ、でもこれってお昼じゃなくて、お三時になっちゃいますね。折角ですから両方たべちゃいます? あーでも、今からお食事とお三時をするとなるとミサが完全に終わっちゃいますねぇ。珊瑚、姫さまには是非ミサにも出て貰いたかったんですけどぉ……」
「あら、姫さまどうかなされました?」
少女はそこまで一気にしゃべり続けると、のけぞりながら棒立ちになっている蒔梛を見て小首を傾げた。
「……あ、ごめんなさい。ちょっと目眩がして」
息をすることも忘れて少女を見つめていた蒔梛は、大きなため息とともに深呼吸をした。
「ええ! それは大変ですぅ、姫さまに万が一のことがあったら珊瑚、副幹に半殺しに
されちゃいます!」
こめかみを抑えてうつむく蒔梛を見た少女は、大きく手を振りながら蒔梛の周りをぐるぐる走り回ってうろたえている。
|(なんなのよ、この頭にお花畑が咲いたお子ちゃまは?)
|(これが世に名高いわだつみ学園のエリートなわけ?)
蒔梛が噂と目の前に現れた現実とのギャップに苦しんでいると、後ろから先ほどの警備員が声をかけてきた。
「ちょっとちょっと、君。困るよ、勝手に部外者を校内に入れてもらっちゃあ」
「部外者?」
警備員の詰問を受けたお花畑少女が首を傾げた。
「このお嬢さんのことだよ」
と、蒔梛を指差しながら警備員が少女を睨む。
「見たところ、外部の方のようだし? 聞いたところによると、紹介状も持っていないって言うじゃないか」
「ここんところ、学園の制服を偽造して校内に入ろうとしている連中も居るから、気をつけるように言われているんだよねぇ」
警備員は学園の制服らしい白いカラーと膝丈の濃紺のスカートと言う清楚で、ちょっと古風な雰囲気のセーラー服を着た少女の事を疑わしげな目でじろじろと眺めている。
「いくら知り合いと言っても、中に入るには庶務課で外来許可証をもらうことが必要なことぐらい、ここの生徒なら君も知ってるだろう?」
「えー? そんなの珊瑚、全然知らなかったですぅ」
大きな目玉と、大きな口をあけて、天然お花畑少女は驚いた。本気で知らなかったらしいその様子に、警備員ばかりか蒔梛までもがあきれて声が出ない。
「ア、アンタ、本当にここの学園の生徒か?」
「待ってろ、今、学生課に連絡してみる。名前とクラス、学籍番号を言ってみろ」
たっぷり10秒は失っていた声を再び取り戻すと、警備員は腰から無線機を取り出して不審者に詰問するような高圧的態度で少女に命令した。
「……学籍番号2160W015。2年A組。ソロリティ副書記の海老原珊瑚ですぅ」
ぷくぅと、ほっぺたを膨らませながら答える少女。
「えっ!?」
が、その返答を聞いた瞬間、無線機を持ち上げたままの格好で警備員は凍結した。
そして体は凍結したまま、眼球の面積を2~3倍ぐらいに広げて、ぎりぎりぎりっと目だけを動かして、少女の制服の胸につけられたバッヂを凝視する。
「そ……そのバッヂは……ソ、ソロリティの……」
「そうですよ。私は、ソロリティの副書記なのです」
「そしてこちらにおわしますお方は、先日亡くなられた理事長のお孫様で、名は小碓蒔梛さま」
「前理事長に代わって当学園の理事長の職にお就きになると同時に、本日づけで当学園、2年A組に転入なさる為にやってらした姫さまでもあらせられます」
と、少女は手の平を蒔梛の方に向けて警備員に説明すると、にっこりと笑った。
「え……ええええッ!!」
「頭が高い~、ひかえおろぅ~」
印籠の替わりにずいっと差し出されたペットボトルの水が『えへん』とばかりに、ちゃぽんと鳴った。
「は、ははぁぁぁっ」
警備員は帽子が吹っ飛ぶほどの勢いで頭を下げつつ、後ろに下がった。
その角度は90度を超えてもうほとんど180度? 『立位体前屈ですか?』と聞きたくほどの平身低頭ぶりだ。
だがまあ、彼の狼狽ぶりも無理はない。先ほど蒔梛が答えにためらっていたのも、この為なのだから。
突然見ず知らずの小娘が『今日から私がこの名門校の理事長だ、中へ入れろ』と主張しても普通の人間相手ならまず相手にされないだろう。
もっとも、この少女のような一学生がそう主張しても、事態は同じだっただろうが。
「姫さまとは存じませんで、まことに失礼を。それに、ソロリティの方にも失礼いたしましたぁぁっ!」
どうも、ここではそうではないらしい。
「そんなぁぁ、分かってもらえればいいんですよぉ」
「なにも、上司に報告した上で懲戒免職? 関係各所へ回状をまわしてどこにも再就職出来なくするなんてことは……姫さまは、なさらないと思いますからぁ~」
少女は虫も殺さぬ顔で微笑みながら、生徒手帳になにやら書き込んでいる様子である。
おそらくは目の前の哀れな警備員の名前だろう。
「ぐぅ」
「あ……いや、うん、大丈夫です。きちんと説明しなかった私も悪いんですから」
学園に雇われているはずの警備員が、一生徒の脅しに本気で脅えている姿に唖然としつつも、その責任の一端が自分にあると感じた蒔梛は、少しだけ警備員に同情して弁護した。
「あ……ありがとうございます」
その言葉を聞いた警備員は、先ほどまでの犯罪者を見る目つきはどこへやら。地獄で聖母を見つけた者の如く、すがりつくような眼差しで蒔梛を見つめていた。
一方、散々脅しをくれていた少女の方は、そんな警備員の事など微塵も気に掛ける様子はない。
「じゃ、姫さま、行きましょうか」
そう言うと、改めて蒔梛の鞄を持ち上げて、スタスタと学園の中に入って行ってしまう。
「あ、ちょっ、ちょっと……」
蒔梛は前屈をしたままの警備員とその少女を何度か見比べると、とりあえず少女に着いていく事に決めて、あわててその少女の後を追いかけたのだった。
「あのね、さっき私の事を姫……とか言ってたでしょ? あれ、どうして?」
香り高い薔薇の迷路を歩きながら、蒔梛は先ほどのやりとりの中で出てきた『姫』という単語について少し先を歩く少女に聞いてみた。
どうやら、自分がその姫と呼ばれる者らしい事は理解できるのだが、なぜ自分がそう呼ばれるのかが分からない。
「それは、蒔梛さまが姫さまになられる方だからですぅ~」
「だから、その姫ってなんのこと?」
要領を得ない少女の返答に、蒔梛は眉をひそめる。
「真珠姫さまです。この学園とひいては世界の頂点に立たれる方なんですよぉ」
が、少女の方はそんな蒔梛の様子を気に留めることもなく、嬉しそうに胸を張ってそう説明した。
「真珠姫? 学園の頂点に……って」
少女漫画によくあるヅカっぽい男装の麗人とか、『よろしくってよ』なんて言葉遣いをするお姉さまの事だろうか? と蒔梛は理解出来ないながらも、そんなことをぼんやり考えた。
|(うーん、確かに理事長の孫娘が学園の後継者になるって所からして、少女漫画だもんねぇ)
|(やっぱり上流階級の子弟が通う学校には、そう言うのが伝統的にあるのかしらん?)
と、蒔梛は以前読んだ事のある少女漫画にも、そんな学園の支配者として君臨する香ばしいキャラクターが居た事を思い出していた。
|(でも私、お姉さまってキャラじゃない気がするんだけどなぁ……)
蒔梛がひとりで勝手な想像の翼を広げていると、少女が蒔梛の疑問に答えるべく説明をし始めた。
「真珠姫さまは全学生の中からひとりだけ、一番お美しくて、聡明で、輝いていらっしゃる方が選ばれるんです」
「そして、今度は蒔梛さまが真珠姫さまになられるために、わざわざ呼ばれていらっしゃった訳ですから。私が転校していらっしゃる蒔梛さまの世話役として選ばれたんです」
|(なられる……って、そんなの私、全然聞いてないんですけど?)
|(それに世話役って何? ……世話役!?)
「ちょっとまって。あなたが私の世話役ですって?」
真珠姫という得体の知れない存在の事も気になったが、その説明の中に無視できない言葉を見つけて、蒔梛は聞かずにはいられなかった。
「はい。姫さまの世話役を仰せつかりました海老原珊瑚といいます。以後、よろしくお願いいたしますぅ」
海老原珊瑚と名乗った少女はうれしそうに振り返ると、ツインテールのお下げ髪をぴょこんとゆらしてお辞儀した。
「え、ええ……よろしくね海老原さん」
その喜色満面の笑みに釣られて、蒔梛も思わず頷いてしまう。
「どうぞ、珊瑚とお呼び下さい」
「でも……いいわ、じゃあ、珊瑚ちゃん。世話役ってどういうこと?」
蒔梛はあくまでも、この学園で平凡な一学生として過ごすのが目標だった。
世話役と言うのが単なる転校生の為の一時的なガイド役の事ならいいが、どうもさっきからの少女の言動や警備員の対応を見ていると、それだけでは無い雰囲気がビシバシと伝わってくるのだ。
もしも、この世話役と言うのが、セレブの付き人的な意味での『お世話をする人』の事だとしたら……。
|(それは困るわ……。もうあんなことは金輪際まっぴらなのに)
蒔梛がここに来たのは、祖父の遺産を受け取る人間が自分しか居なかったという理由が一番大きいのだが。それ以外にも、ここならば自分はエリート達の中に埋もれて目立たず、誰からも注目されることなく、静かに暮らしていけそうだと思ったからである。
そして蒔梛がそう思うのには、ある理由があった。
自慢ではないが、蒔梛は自分でも勉強は出来る方だと思っている。
ここに来る前に通っていた都立高校の学力考査でも2番以下になったことはない。
一年の時に教師に勧められてしぶしぶ受けた全国規模の学力テストでは、さして試験勉強をしていなかったのにも関わらず、楽々と1ケタの順位をとってしまったほどだった。
そのほかにも、生まれ育った施設の子供達が体力作りの為に通わされていた武道塾では、大の大人も舌を巻くほどの実力を見せ。その塾で知り合った男の子に拝み倒されて参加した柔道部の練習試合では、全国3位という実力派で知られた他校の大将を投げとばして、鎖骨を折ってしまったこともある。
結果、その美貌と頭脳、そして卓越した運動能力の噂は校内ばかりか近隣他校にまで広がって、『第7校の小碓』と言えばその地域では知らぬ者の居ないぐらい有名になってしまったのだった。
だが、この評判には当の蒔梛自身がとまどってしまった。
蒔梛にしてみれば、配られたテスト用紙に正解を書き、普段の稽古通りに技を決めただけである。
さらに言えば、蒔梛は【戦災孤児】であったので、世の常としてそうした立場の人間をからかい、差別する手合いとの摩擦も少なからず経験していた為、突然のヒロイン待遇に驚いてしまったのだった。
実際には高校に入る頃にはそうした手合いもめっきり少なくなってきていたし、入学当初から蒔梛の美貌や実力に惹かれる人間たちが次第に集まりだしてはいたのだが。
その一部が暴走して『蒔梛くらぶ』なる熱烈なファンクラブを作るまで、蒔梛は自分がいかに目立つ存在で、他人の羨望を集める存在なのかを全く自覚してはいなかったのだ。
『蒔梛くらぶ』は、蒔梛を絶対神聖化する人々の集まりだった。
蒔梛をテレビのアイドルよりも価値のある自分たちのアイドルとして、友人知人に対して精力的に布教活動を行った。その結果、校外はおろか、区外にも蒔梛のファンは拡大し、下校時間には蒔梛の姿をひとめ見ようとする者達が、校門前に列をなすほど注目される事となったのだった。
その事態に蒔梛は大いに狼狽し、幼馴染みに頼んで倶楽部の幹部に活動を控えるよう申し入れたのだが、その効果は乏しく、『蒔梛くらぶ』の構成員はその後も順調に増え続けた。
やがて、その蒔梛人気を利用することを思いついた幹部が夏の水泳の授業に目を付け、プール横のフェンスの場所取り券をネットオークションで出したところ、十数万の値が付いた事すらあると言う。
最終的にはその幹部は他の幹部に粛清されて、人知れず体育館裏に消えていったと言われているが、その時起こったもろもろの出来事は最早伝説ですらあり、本人だけが知らない公然の秘密でもあった。
と、まあ、こんな具合に何かと騒がしい高校生活を送っていた蒔梛だが、本人には前述した対人恐怖症の気があったために、そんな周囲の過剰な注目は苦痛以外のなにものでも無かった。
そして、そんな加熱する周囲の反応に対して、何も言えなくなってしまう蒔梛の性格が、やがては重大な事件へと発展してしまうとは、その時は誰も思っていなかった。
しかし、やがて起きてしまった『その出来事』は、蒔梛と複数の生徒、教師を巻き込んで多数の死傷者を出す大事件となった。
そして、その大事件により、蒔梛は物心ついてからずっと暮らしてきた施設を離れなければならなくなった。周囲の評価がそれまでのと180度変わり、蒔梛が諸悪の根元だと見なされるようになったからである。
むろん、事件は蒔梛が起こしたわけでも、蒔梛が悪い訳ではない。だが、蒔梛の美貌や実力に惹かれる人がいる一方で、それを嫉んでいる人々がいた事も事実なのである。
そして、そうした人々や、事件により身内を傷つけられた人々にとっては、死んでしまった犯人よりも、恨み言をぶつける事の出来る生身の蒔梛の方がより攻撃しやすい弱者だったのである。
だから彼らは、死んでしまった犯人の代わりに、反論出来ない弱い立場の蒔梛を『堕ちたアイドル』だの、『教室で教師と淫行していたアバズレ』だの、『男を狂わす毒婦』などといった言葉の暴力で叩きまくったのだった。
そんな自分を取り巻く色々な問題に、もとから弱い蒔梛の心が耐えられなくなった頃、彼女の下に一通の手紙が届いた。
それは弁護士と蒔梛の祖父の秘書を名乗る者からのものであり、故人となった祖父の財産分与とその条件について書かれているものだった。
もちろん、何も疑わなかったわけではない。しかし、この話が本当ならば、世界中のエリートが集まるこの学園でならば、今度こそ自分は彼らの中に埋没して平穏に暮らしていけるのではないか?
そう思ったからこその転校と転居の決断だったのに……ここでも転校初日から姫と呼ばれ、世話役までつけられる特別待遇をうけようとは。
蒔梛は自分の甘い目論見が音を立てて崩れていく音が聞こえる気がして、軽い目眩を感じていた。
「姫さまは外の学校からいきなり転校してらしたので、この学校の事は何もご存じないですよね?」
そんな蒔梛の思いも知らぬ珊瑚は、嬉しそうににっこりと微笑んで蒔梛の手を引いた。
「い、いえ、パンフレット程度の事は知ってるのよ。だからそんな世話役なんて事をわざわざして貰うことは……」
「ダメですよぉ、そんな程度じゃぁ。姫さまにはこの学園でいっちばーん美味しいものを食べて戴いて、いっちばーん、いいお庭のお席でお茶を飲んで、気持ちよくお過ごし戴かなくちゃ」
「まずは『ル・コンティ』でお食事してぇ……次に『グールクラ』のアーユルヴェーダでリラックスしながら『茉厘花』のアフタヌーンローズティーをお楽しみいただくでしょぉ……」
蒔梛は遠回しに世話役を断ろうとしたが、珊瑚はそれを無視して左手だけで器用に手帳を捲りながら自分の立てた『姫さま歓迎プラン』を披露しはじめた。
「なんかそれ、全部娯楽や食べ物ばっかりで、学校とは全然関係ない気がするんだけど?」
「え? いや、だって……ほら、戦に勝つにはまず補給線を確保するのが大事って言うじゃないですか。あははは……」
蒔梛に突っ込まれた珊瑚は、乾いた笑いを浮かべながら視線を外して誤魔化した。
「戦をしに来た訳でもないんだけどねぇ……」
『なんなのよ、この妙な子は?』という苦笑いを浮かべた蒔梛の額に一筋、汗が流れる。
|(世話役うんぬんよりも、まずこの学園になじめるかどうかが、あやしくなってきちゃったなぁ)
「他の情報はないの?」
「えっと、他にはですねぇ……ヘアサロンのイケメントップアーティストの名前とか、購買のタイムセールのねらい目情報とかもありましてぇ……」
珊瑚があわてて手帳を捲る。が、やっぱりそんな情報しか出てこない。
「学校の中にヘアサロンなんてあるの?」
そんな煩悩てんこ盛りな学校があるのかと、蒔梛は驚いた。
「ヘアサロンだけじゃないですよぉ。この薔薇園に面して作られたカフェテラスや、レストラン。エステや銀行にコンビニ、温泉やプールバーなんてのもあります」
「聞きしに勝るブルジョワぶりね」
「この学校は全寮制でほとんど外部へは出れませんから。その分、校内に色々施設が作られているんです。資金は……まあ、卒業生関係の企業からとか、色々です。えへへへ」
|(ああ、ここってアマナーグループに大勢卒業生を送っているんだっけ? じゃあ、これだけ贅沢な設備があるのも、そこから援助金が出ているのね)
たまに新聞を賑わす各国政府とアマナーの汚職疑惑を思い出し、あながち嘘じゃないのかもなぁと、数万本の薔薇の花が咲く贅沢な庭を眺めながら、蒔梛はひとりごちた。
「それと選択式のカリキュラムの履修方法とかも私がご説明させて貰うことになっているんですけどぉ……。まあ、そっちは大したことないですから」
いやいやそっちがメインでしょうが、と思いつつ、確かに独自の履修方法をとっているのなら案内役は必要なのかもしれないとも思う。
だが蒔梛はそれ以上その件について拘泥する事を止めて、さっきから気になっている別の事について質問をすることにした。
「それは分かったけど……私たち、どこへ向かってるの? 校舎はあっちに見えるやつじゃないの?」
蒔梛は薔薇園の西側に見える白いコンクリート製の建物群を指で差す。
ここからそこまではおよそ300メートルぐらいは離れているだろうか。建物と現在地であるバラ園の間には大きな運動場があった。
そしてそのまま蒔梛はぐるりとその場で一周するように周囲を見渡してみた。
ここから視界に入る建物というと、その建物の他には今くぐってきた正門と、左手にある平屋作りのゲストハウスのような建物、それに今向かっている敷地の南の方に見える三角屋根の背の高い建物だけで、それ以外は全て整備された林や並木道、あるいは深い森に遮られて見えない。
わだつみ学園には幼稚舎から大学院まであるという話だから、実にとんでもなく広い敷地を持っているらしい。
「あ、今からチャペルに向かいます」
「チャペル?」
「海側の外れに建っている……アレです」
珊瑚の指さす方向にあるものは、例の背の高い三角屋根の建物だった。
その珊瑚に連れられて薔薇園の外郭を形作っている街路樹を回り込むと、蔦の絡まった石造りの古い大きな教会の全容が見えてきた。
「あれは……」
学園に着く前に船の上から見た建物だった。
「なんか、ここだけずいぶん歴史がある建物なのね」
「このチャペルや医学部のある旧校舎は昔の飯綱大学時代からの建物なんです。何でもロストリージョン復活前の建物らしいですよ」
ロストリージョンと言うのは読んで字の如く、『失われた地域』という意味の土地のことだ。
かつて、世界にウォールが存在した頃、壁によって切り離された向こう側はこちら側とは完全に隔絶された異世界だったと考えられている。
同じ地球上に存在していながら、その『壁』は何人も越えることは出来ず、電波や光すらも通さない完全な別世界。
その中で起こっている事は、こちら側の科学では観測する事は不可能なブラックボックス。
それが、後にロストリージョンと呼ばれることになる『壁の中の世界』である。
当初。まだ壁が存在していた頃、世界の学者たちは壁の中は光の通過すらも許さないワームホールであり、壁の発生以前にそこに存在していたものは建物も生き物も全てワームホールに飲み込まれて消失してしまったのだろうと考えていた。
しかし、戦争後、壁が消えた後に現れたのは、以前と『すこしだけ違った』だけの元のままの……いや、それ以上に豊かな土地だった。
開戦前に確認されていたその土地にあった建物、人々、自然。それらは『すこしだけ』違って復活していた。
以前と同じ土地に同じ種類の木々が生え、同じ種類の動物たちが暮らしていた。
同じ人種の人々が住み、同じ言葉を話し、同じメンタリティをもち、同じ暮らしをしていたのだった。
ただ、壁が出来る前の歴史とは接点が無いという事を除いて。
ロストリージョンの自然はそれまでのその土地と比べて遙かに豊かだ。中にはとっくに使い切ったはずの資源が復活していた所もある。
ロストリージョンの人々はそれまでの人々と変わりなく、それぞれの地域に基づく共通のメンタリティや歴史認識を持っている。
ただ、壁が消失する時の記憶は皆一様にもっていない。
彼らの記憶ではロストリージョンは壁に飲み込まれることもなく、それまでと同じように『私たちと同じ世界』を生きてきたつもりなのだ。
例え、こちら側には彼らの生まれた記録や生きてきた記録がなくても、彼らの『記憶』の中にはそこに生まれ、自由に『外』に移動し、仕事をして暮らしてきたという歴史があった。
そう、壁の外側の人々が中側の人々の事を知らない。ただ、それだけがロストリージョンとそれ以外の地域の違いだったのである。
どうしてそんなことが起こったのか?
学会ではブラックボックスであったロストリージョンの事をシュレーディンガーの猫に例えて、次のように説明した学者がいた。
「シュレーディンガーの猫とは、量子学的な確率論を皮肉った物理学者のシュレーディンガーがその矛盾を表す例えに使った『半分死んで、半分生きている状態の猫』と言う言葉の事です」
「当時、シュレーディンガーは、そんな馬鹿なことはありえないと言うことを表す為に、この言葉を使いましたが、現在、我々はまさにその半分死んで半分生きている猫を目の当たりにしているのです」
「ウォールに飲み込まれ、一度は確かに消失したはずの土地や生物が、何の脈絡も無く、しかも以前とは違った形で復活している。これは、ワームホールであるウォールに飲み込まれ、量子状態となったロストリージョンが、再び我々に観測される事によって、我々の無意識のメンタイリティによってその存在が決定づけられたのだとしか思えないのです」
と。
つまりは、『壁』によってどこからも観測不可能な量子状態となったロストリージョンは、壁が消える事によって我々に観測されるようになり、そのため我々自身の影響を受けて現在の状態に決定されたというものである。
とまあ、色々ともったいつけた説明なのだが、ひと言で言えば、『結果的にそうなんだから、とりあえずそれでいーじゃん』という説明だ。
なんだか物理学者って楽そうでいいなぁと、この説明を聞いた時に蒔梛は思ったものだ。
そして、世界人口の3人のうち2人が死んだあの戦争を生き抜いた人々も、学者が考えたへんちくりんな理屈よりも、同胞が戻って来たことと、失われた自然が復活した事を素直に喜び、そこにあるものを大事に使う事を選んだのだった。
このわだつみ学園のある八戸浦市も、元は夜刀浦村と呼ばれたロストリージョンの一寒村だったのだが、学園が設立されてから人も物資も集まり、今では新興住宅街を中心とした人口7万3千人を越す都市に成長している。
どうやらこの古めかしい教会は、ここがロストリージョン復活前に閉じた世界の中の人々が飯綱大学の一部として建てた由緒ある建物らしかった。
その入り口には、さっきまで正門前でにぎわっていた町内会らしき人々と、わだつみ学園の制服を着た生徒達が列をなして吸い込まれて行っている。
「大きな教会ね」
入り口へ続く石段の下から、教会の三角屋根を見上げて蒔梛は言った。
「二階席もあって、4千人ぐらい入ります。八戸浦の人たちもミサを聞きに来るから、どうしてもそのぐらいの規模が必要になっちゃうんですよね」
|(なるほど、あの町内会は八戸浦市内からやって来た信者の人たちだったのかぁ)
どうりで町内会の花見風の和気藹々とした一団だったわけだ、と蒔梛は頷いた。
「住民合同でミサなんて珍しいのね。ここの宗派は公教? 新教? それとも正教かしら?」
「そのどちらでもありません」
「え?」
「この教会で教える神は一神教の『主』と同じですけど、『主』の教えの解釈は他とは全然別なんです」
「別って……それって、新興宗教ってこと?」
「そうなりますね。なにしろ、考え出したのが蒔梛さまのお爺さまでいらっしゃる、デビット・アルマータ理事長でしたから」
すこし前にその存在と死亡を知らされたばかりの、なじみのない名前の祖父がその教祖だと言われて蒔梛は鼻白んだ。
ちなみにこのデビット・アルマータ氏の執事という人が送ってよこした遺産相続を知らせる手紙には、蒔梛の両親とこの祖父を名乗る人物の詳しい関係は書かれていない。
ただ、『貴方様の御祖父さま』と記されていただけだった。
そんなあやふやな親族関係をなぜ信用してこんな辺鄙な場所までやって来たかといえば、前述のような理由があったからなのだが……。
「遅いわ。高々正門まで迎えに行くぐらいで、いったいどれだけ時間がかかっているの? もう、みんな席について待っているのよ」
蒔梛がここに来ることになったいきさつを思い出そうとした時、頭の上から子供が精一杯背伸びして怒っているような声が降ってきた。
見上げると、チャペルの階段の上から真っ白な肌と蜜色の髪を持った女の子が二人を見下ろしていた。
「すみませんソフィさま。なんか、蒔梛さまのご身分の事で守衛さんと言い合いになっちゃって……」
「ふん、中身がトロいと見てくれまでも信用してもらえないのね」
歳は11~12歳ごろだろうか。端正な容貌に似合わない辛辣な台詞をさらりと言ってのけると、女の子は蒔梛の方を一瞥した。
「あなたが小碓蒔梛?」
「そうですけど?」
「…………似てないわね」
「え?」
「なんでもないわ。入って」
不躾な視線で蒔梛の事を見ていた女の子は、蒔梛の返事も待たずに早足でチャペルの中に入っていく。
「???」
何を言われているのか分からずに、蒔梛が珊瑚の方へと視線を回すと、
「えへ、ちょっと怒られちゃいました」
小さな舌をちろっと覗かせて珊瑚が首を引っ込めた。
「あの……」
「いけない、ぼやぼやしてるとまた怒られちゃう。急ぎましょ、姫さま」
珊瑚は一人だけ状況が理解出来ずに呆然としていた蒔梛の手を引くと、急いでいて階段を駆け上がった。蒔梛はとまどいながらも手を引かれてその後に続く。
そして、巨人が3人並んで入れるぐらいの大きな木製のドアをくぐると、急に世界が変わったのだった。