わだつみ学園
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第1話 1幕 わだつみ学園
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ドドドドドド。
お腹の底から突き上げてくる漁船のエンジンの振動に意識を揺さぶられて、その学生は眼を覚ました。
「お? 目が覚めたか、お嬢ちゃん。ちょうどよかったの。ほれ、あれがお前さんが行く【わだつみ学園】じゃよ」
船橋漁港で拾った漁船――まだ房総半島辺りのロストリージョンには十分な道路が整備されていない為、陸路で行くより海の交通機関を使った方が早いのだ。この為、外房の漁師たちはよく小遣い稼ぎの為に漁港で魚を卸した後、空荷の船に客を乗せて帰る――の老船長がどこか自慢げに、遠くに見え始めた岬の上に立つ建物を指差して言った。
「ええ……あれが有名なわだつみ学園なんですね」
新東京都の公立校が共通で採用している制服であるベージュ色のブレザーに身を包んだその学生は、しゃがんで寄りかかっていた船縁から身を起こすと、紺のチェックスカートのお尻に付いた埃を払いながら老船長が指差した方を見つめた。
私立、わだつみ学園。
房総半島の外房側にある八戸浦市に属する名門私立学校だ。
幼稚舎から大学院までの一貫した英才教育で真のエリートを輩出し続ける学校であり、産業・運輸・情報・医療・金融、そしてエネルギー資源開発と、大戦後の世界の経済を支配する多国籍企業のひとつ、アマナーグループに多くの卒業生を送り込んだ実績をもつ帝王養成機関としても有名な教育機関だった。
なぜ日本の片田舎にある私立学園が、そんな世界的大企業への登竜門となっているのかは誰も知らない。
一部にはアマナーグループとの癒着や、政界との黒い噂も聞くこともあるが、あくまでもそれは噂だ。
しかし、学園の卒業生のもたらした業績の方は現実で、その名声により現在でも学園の門をくぐろうと努力している学生達は多い。
そしてその名声と実績に劣らず、学園の持つ設備や歴史ある建物等も堂々たるものだった。
学園の所有する土地には学習施設だけでなく、波動発電研究所やらプラズマ臨界研究所などと言った国立の最高学府も顔負けの最先端の研究施設がこれでもかと言うぐらい建てられている。
中でも海洋開発には力を入れており、学園の建つ八戸浦市の郊外には学園所有の海洋テーマパークまであるそうだ。
もちろん、それらの情報はその学生が実際に行ってみて確かめた訳ではなく、全て学校から送られてきたパンフレットに書いてあったことの受け売りである。
「まぁ素敵……まるでホラー映画にでも出てきそうな迫力満点のロケーションね」
学生はゆれる小さな漁船の舳先に立つと、強い海風に長い髪と短いスカートの裾をはためかせながら断崖の上建つ古びた建物を見つめて皮肉混じりにそう呟いた。
それもそのはず、海に向かって突きだした岬の上に建つ石造りの大きな三角屋根の建物の壁にはびっしりと蔦が這い、屋根の端にある尖塔の鐘にも巻き付いていた。
上空に小さく舞い飛ぶ小さな黒い影はカラスだろうか? 薄ら寒い鈍色の空と相まって陰々滅々とした雰囲気である事この上ない。少しロケーションとしても出来すぎな気もするが、一見してその様子はホラー映画の舞台そのものにしか見えなかった。
そのあまりにも不気味な景観に思わず右手で胸を押さえると、制服の中に隠したペンダントトップの固い感触が指を伝わってきて、それが次第に心を落ち着けた。
「んへへへ。まぁ、見てくれは多少古くさくて恐いかもしれんがのぅ」
「あん学校は、わだつみ学園になる前は飯綱大学ちゅうて、この地元の飯綱家っちゅうところが作った学校だったんじゃ」
「それを今の理事長さんが買い取って、大きゅうなさったんじゃよ」
「そうなの……」
激しく上下する漁船の揺れなどまるで感じていないかのごとく、学生は身じろぎもせずに崖の上を見つめたまま気のない返事を返した。
「んじゃけど、あの学校さ行きなさるっちゅうことは、お嬢ちゃんもやっぱりすんごい頭のええ人なんじゃろぅのぉ?」
「……違うわ。私のはただの裏口入学よ」
「ほへ?」
学生の思いがけない台詞に、老船長はぽかんと口を開けて驚いた。
「ふふふ、冗談よ。ねぇ船長さん、あの学校にはこのまま船で直接行けるの?」
学生は不意に振り返ると、それまでの身のこなしが嘘だったようによろけながら微笑んだ。
迂闊にもその微笑みを浮かべた学生の美貌を正面からまともに見てしまった老船長は、その美しさに一瞬気を呑まれた。
次いで、とっくに古希を過ぎている自身の股間に集まろうとする若気を感じて恥ずかしくなり、思わず下を向いてしまうのだった。
|(はんゃぁ、初めて見たときから綺麗な娘っこだとは思っただども、まさかとっくに錆び付いとった愚息までもが息を吹き返すとは……長生きはするもんじゃ)
暴れる愚息の位置を左手で直すと、老船長はもう一度その至高の美を愛でようと視線を上げた。
そこにあるのは、無粋な学生服の上からでも分かるほど出るところは出、くびれる所は折れてしまいそうなほど細い、見事なプロポーションをした美しい娘の姿。
形のよい卵形の輪郭の頭と曇り空の陽の光でも翠に輝く長い黒髪。滑らかな白い肌は雪花石膏のようにほんのりと奥に神秘的な薔薇色の赤みを宿し、桜色の唇とどこか哀しみを秘めたような黒曜石の様な瞳は一生忘れられそうにないほどの印象を老船長に与えていた。
それら天上の美と呼んで差し支えない完璧な美しさを備えた娘が、腰まで伸びる長い黒髪をなびかせながら自分を見ている様を見て、老船長はもう一度股間の収まりを直さずには居られなかった。
「い、いんやぁ、あの学園の周りは浅瀬に岩がごろごろしとる磯場と切り立った断崖だけでのぅ。船が着けるのは八戸浦の港だけさぁ。んだども、そっから学園までは直通のバスが出とるでよ」
老船長は突然の回春に驚き、喜びながらもその事に気づかれぬようあわてて己が船の進むべき進路へと目線を移した。
「そうなんですか」
「ああ、ホレ、そろそろ港が見えてきなすったよ」
老船長の指が指し示す方角に船が回り込むと、港の防波堤と灯台らしきものが断崖の影から姿を現した。
その向こうには、海に浮かぶ丸いドーム状の屋根を持つ巨大な建物も見える。
あれが噂に聞く海洋テーマパークなのだろうかと、学生は思った。
「あれが八戸浦の町……」
今、ひとりの若者が運命の岐路に立つ時が来た。
しかしながら、若者の前に広がる海はその行き付く先を暗示するかのように暗く、険しく、波立っている。
渦巻く風に髪を嬲られて、自ら進むべき運命を見据える者の名は……。
「小碓蒔梛……とうとう来たのね」
海に突きだした細い岬の岸壁の上。風にあおられて上まであがってくる冷たい波しぶきに頬を濡らしながらも、じっと沖から近づく一隻の古びた漁船を見つめている少女がいた。
そのシルエットは細くて小さい。日本人なら小学生から中学生ぐらいの体格だろうか。深い紺色の制服と相まって周囲の鈍色の背景にとけ込んでしまいそうな儚さがあったが、唯一、少女の蜜色の髪だけは彼女の強い意志を象徴しているかのように、雲間から差し込む微かな陽の光を照り返して輝いていた。
「ソロリティの方は任せたぞ。俺は……あいつをなんとかする」
不意に少女の背後に新たな黒い影が湧き出るとそう呟いた。
影は少女よりもずいぶんと背が高い。少女が130センチ台としたら、影の方は190センチ近くはある。
「ソーマの方はどう致しましょう?」
突然の影の出現にも少女は驚かず、海を見つめたまま問う。
「すでに場所は突き止めた。後はアーティファクトの方だが……」
「私では?」
「無理だ」
黒い影がそう言うと、少女の周りの気が少し固くなった。怒っているのかもしれない。
「お前の実力は評価しているが、さすがにオリジナルが相手ではな」
黒い影が仕方がないとでも言うように肩をすくめると、少女の方もそれ以上我を張ることを止めたのか、張っていた気を幾分和らげると影の方を振り向いた。
「……じゃあ、やっぱり魔女に?」
「もしくは……」
「小碓蒔梛……本当に彼女が?」
少女の眉間に微かにしわが寄る。
「かどうかは、アレを真珠姫にしてみれば分かる事だ」
「……そうですね。では、私はそろそろミサの準備がありますので」
「うむ。俺も少しばかりやることがある」
「やること?」
行きかけた足を止めると、少女は影の顔を見つめた。
「警察だよ。全く、何度来ても何も出て来はしないのに。ご苦労な事だ」
「くすっ。アマナーの威信にかけて証拠は全て消しましたものね?」
黒い影から微かな溜息が漏れると、それまで強ばっていた少女の気が一気にゆるんだ。
そして『貴方がそんな溜息をつかれるなんて、よほど苦労していらっしゃるのですね』とでも言いたげに微かな笑いを口もとに浮かべる。
「だが、まあ、こうしてしばらく警察相手に茶番劇を演じてやるのも必要な処置だろう」
「我々の存在を今、世間に知られる訳にはいかないからな」
「ふふふ、案外悪戯好きなのですね?」
「…………」
少女にからかわれていると知った影は、途端にムッツリと押し黙った。
「では俺はもう行く。お前は俺と一緒の所を見られないよう、もう少ししてから動け。ミサの準備は下の者がやっているのだろう?」
影の声に苛立ちが混じる。
これは少しからかいすぎたのかも知れない。全く、この年代の男性は冗談が通じなくて扱いが難しいと少女は嘆息した。
「……分かりました」
少女がそう答えると影は少女を残して岬の上から消えた。
立ち去ったのではない。
どうやって消えたのかは分からないが、それが出来るからからこそ、あの人は『砦』の中でも常にトップ足り得るのだと、少女は改めて影に対する憧憬の念を強くした。
そしてその場にひとり残された少女は海を振り返ると、もう一度さっきよりも幾分近くなった小さな漁船に視線を移した。
「小碓蒔梛……あなたさえ来なければ…………」
少女はうめくようにそう呟くと、自身も踵を返してその場から立ち去ったのだった。