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Act.10

 ほたるの所属する劇団レリックの『ゼウスとプロメテウス』を見た次の日から、あたしはレンの言っていた斉藤さんの処女小説、『肉工場』を少しずつ読んでみることにした。

 正直、文章のほうがやや難解なので、頭の悪いわたしには理解できない単語が途中いくつも出てきたけれど――それらの意味についてはすっ飛ばしつつ、あたしは25号から178号まで連載の続いた、斉藤さんの小説を読んでいった。

 ストーリーの内容は大体、以下のとおりといったところ。


<主人公の常盤大地は、屠殺場で働いている。来る日も来る日も牛や豚の肉を解体することに疑問を感じた大地は、ある日ジョーン・バエズの「ドナドナ」を聴いたのをきっかけに、職場をやめることにするが……結局、普通のサラリーマンになってみたところで、それは実質的に『肉工場』となんら変わりがないということに彼は気づくのだった。

 そして彼は色々な職業を転々としたあとで、最後は兼業農家となり、畑を耕し、またかつて自分が勤めていた屠殺場へ飼っている牛や豚などを涙とともに送りだすことになるのであった……>


 まあ、あらすじを簡単に紹介するとしたら、大体こんなところかも。

 でも冒頭の牛や豚を解体する作業のあまりにリアルな描写や、その他サラリーマンとして苦労して働く主人公の姿、結局この世の全体が『肉工場』のシステムによって動いているに過ぎないと大地が悟るシーンなど、正直、わたしは書いた本人を知っているだけに、あのハゲ親父……もとい、斉藤さんは一体どこでこうした知識や経験を得たのだろうと、不思議で仕方なかった。

 というか、ほたるに続いて、ベルビュー荘1号室の住人までもが、ただの凡人でなく隠れた才能を秘めた人間であると知るに至り、あたしは携帯をいつも肌身離さず持って、派遣会社から電話が来るのを待っているだけの我が身が、すごく哀れなものに思えてきた。

 わたしが今登録してる派遣会社は全部で七社だ。そのうちの四社とはすでにトラブルとなり、よほど人の頭数が足りないか何かしない限り、電話がかかってくることは絶対ないだろう……そして残りの三社が配信しているメールを見ては、あたしはその仕事に応募しようかどうしようかと悩む日々を送っていた。

「そういうあたしも結局、肉工場のトリックに引っかかってるだけってことになるのかしらね、斉藤先生の小説によると」

 確かにレンの言ったとおり、斉藤さんの『肉工場』を読んだことは、ちょっとした生きるヒントみたいなものにはなったと思う。

 もっとも肉工場のトリックに気づいたところで、人間は結局大地を耕して働く以外にない脆弱な存在らしく、あたしもまた<大量募集!!!コールセンター勤務、時給千円!!>と書かれたメールをスクロールし、最後のほうに記された電話番号を人差し指で押すしかなかったというわけだけど。

 研修を一日受けたあと、世論調査の電話をするという仕事で、期間はたったの二日間だけだった。

 とりあえず月に最低二万は稼がなくてはいけないから、あたしは間に一時間休憩を挟んで七時間働くというシフトを選び、その仕事にエントリーすることにした。1,000円×7×2+4,000円(研修時間の4時間)といったところ。

 あたしは普段読み慣れない小説などというお高尚なものを読んだせいで、目がやたらシバシバするものを感じつつ、夕ごはんを食べるために階段を下りていくことにした。最初の頃はレンと鉢合わせるかもしれないと思い、メイクのほうもばっちり決めていたけれど、最近ではベルビュー荘にいる間はずっとスッピンのままだ。

 何故といってそもそも、次に新しく化粧品を買うとしたら薬局で安物のコスメを買う以外にはなく……大体、レンの好み自体がナチュラルメイクかすっぴんの女子といったところなのだ。それであたしは「おまえ誰だよ」と言われるのを承知の上で、まったく化粧をしなくなっていた。

「久臣さん、S・H氏の書いた『肉工場』、読んだわよ」

 食堂の椅子に座って夕刊を読んでいた斉藤さんが、あたしの姿を見るなりそそくさと席を立つのを見て――あたしは彼の背中に向かってそう声をかけた。

 斉藤さんのことはみんな久臣さんと呼んでいるので、あたしももう久臣さんでいいだろう、うん。

「なんか、いつも使ってない脳の筋肉を使ったみたいで、すごく疲れちゃった。でも、結構面白かったと思う……主人公の常盤大地って、久臣さんがモデルか何かなの?」

「いや、べつにそういうわけじゃないけどな」久臣さんはまた元の座席に腰を落ち着けて言った。「そもそも作家っていうのは、基本的にそういう書き方をしないもんだよ」

(なんだ、この人結構普通にしゃべれるんじゃない)

 そう思ったあたしは、彼の作品を読んだひとりの読者として、久臣さんに色々質問してみることにした。

 今食堂にいるのはあたしと久臣さんと夕食の仕度をしているミドリさんだけだ。あと十分もすれば六時なので、3号室の根暗青年もそろそろお盆をとりにくるだろう。

「ふうん。でもなんかよくわかんないけど、日本には<私小説>っていうのがあるでしょ?わたし、ああいうの大っ嫌い。「俺はこの世に生を受けるべきじゃなかった」的な、世界の不幸をひとりで抱えこんでるみたいな男、あたしだったら蹴り飛ばして滝にでも突き落としてやるわ」

 久臣さんがブッと吹きだしたのを見て、意外なところで受けたと思ったあたしは、盛りつけの終わった皿をお盆に並べつつ、久臣さんの笑いがおさまるのを待った。

「わたしは結構、太宰治って好きだったけど」と、ミドリさんがお玉で八宝菜をすくい、それをごはんの上にかけていく。今日の夕ごはんのメニューは八宝菜と中華スープ、それにサラダとヨーグルトだった。

「でもああいう人と関わりあった女の人は大変ね。彼には奥さんと子供を大切にして、作家としてもまあそれなりに成功するっていう道もあったように思うけど……そんなんじゃ真の芸術作品は生まれないと考えて、わざと苦しみとか死に自分のことを追いやっていたような気もするし」

「まあ、『人間失格』みたいな作品を書いていながら、妻や子供を大切にして家庭でぬくぬく暮らすってことに、太宰は矛盾を感じてたんじゃないかな。大体、女の人っていうのは影のある顔のいい奴に弱いんだから、太宰はあれで良かったんだよ」

「そういえば太宰で思いだしたけど」ミドリさんと久臣さんの関係というのはこんな感じなのかと思いつつ、あたしはふたりの間に割って入った。「前に勤めてた店で、なんとかいう作家の先生がやって来て――抱かれたい作家ナンバーワンは誰かっていう話になったんだけど、一位が太宰治だったと思う、そういえば」

「夏目漱石はそのランキングに入ってないのかい?」

「昔、千円札に顔がのってた人?あの人はあんまりこう……セクシャルなイメージじゃないから」

 久臣さんがまた軽く受けていると、のそのそとミズキくんが入ってきて、ミドリさんの手からお盆を受けとり、そして去っていった。

 彼の幽霊のように蒼白な顔を見ていると、レンじゃないけど、そのうち部屋で首を吊ってるのが見つかったらどうしようって、あたしでさえそんな気持ちになる。

「久臣さん、ミズキくんと実は水面下で仲がいいんでしょ?あの子って一日中部屋に閉じこもって何してるのかしら。これって、好奇心旺盛なあたしの、余計な詮索?」

「そうだね。余計な詮索だ」と、珍しくあたしがいても部屋へお盆ごと持ちこむでもなく、久臣さんは八宝菜に手をつけ始めている。「べつに心配しなくても、ミズキくんは大丈夫だよ。あの子が一日中部屋に閉じこもって何をしてるかっていうのは、そのうちわかるさ。まあ、ミドリさんもそういうことで……」

(ふう~ん。このおっさん、言うなと言われたことは、たとえ管理人のミドリさんが相手でも言わないのね)

 トイレでオナラをよくしている1号室の住人に対して、この時あたしの中で若干好感度が上がった。レンの言っていた「あの人は本当はすげえ人なんだよ」という言葉が脳裏をよぎる。

「久臣さんって、さっきもそうだけど、わたしのこと、避けてません?」

 中華スープをすすってそう聞くと、ミドリさんの向かいに腰かけている久臣さんは、何度かむせ込んでいた。

「……まあ、それはね。親父と呼ばれる年代の男は、基本的に若い子に嫌われる運命にあるって、わかってるからだよ。俺の顔がリチャード・ギアにでも似てない限りはね」

「それと、久臣さんにはトラウマがあるのよ。昔、ホステスをやってた女性に相当入れこんで――ここの部屋にもほとんど帰って来なかったこともあるの。で、その人の顔がなんとなく、サクラちゃんに似てるのよね」

 久臣さんのむせ込みがさらにひどくなった。

 どうやら、あたしが勝手にひとりで思いこんでいたこと……久臣さんはミドリさんに純愛を捧げているのではないかという説は、ないものと見ていいようだった。

(なんだ、そうだったのか)

「それで、そのあたしに似てるとかいう女性とは、一体どうなったんですか?」

「俺の貯金口座が四桁になったあたりで、サヨナラってことになったよ。一種の結婚詐欺だな。まあ、女性についてまたひとつ勉強になって良かったといえばよかったけどね」

「へえ……でもまあ、そういう経験も小説の肥やしとして生かせて、あとになってみればそんなに悪い話でもなかったんじゃないかしら。久臣さんはなんとか文学大賞とか、そういうのに作品を送ったりはしないの?」

「ああ、若い頃はそんなこともしてたよ。同じ文学部の先輩に「君には素晴らしい才能がある!」とかおだてられてさ。でも、出版社に直接持ちこんだら、そこの編集者に「君の書いたものは鼻紙ほどの値打ちもない」って言われて終わりだった。まあ、現実なんてそんなものだってことだな」

「その編集者の頭のほうが、たぶんちょっとおかしかったんですよ」

 外から帰ってきたレンが、腰を屈めるようにしてのれんをくぐり、あたしと久臣さんの間の座った。まるで、馬鹿女の雑菌から頭のいい久臣さんのことを盾として守るみたいに。

「なんでしたっけ?『肉工場』を読んだその編集者に、「君はアカ(共産主義者)なのか?」って聞かれたんですよね」

「まあ、あの頃はそういう時代だったから……実際俺も、あの話を思いついたのは、マルクスの資本論を読んだからなんだ。それでうまく言い返せなくて、「鼻紙が駄目なら、ケツ拭きにでも使ってください」って言って、とぼとぼ帰ることにしたんだよ」

「ニーチェだって、書いたものがすぐ売れたってわけじゃないし。久臣さんの書いたものは、いつか必ず陽の目を見ると俺は信じてます。そしたら俺に本の挿絵を描かせてくれるって話、絶対忘れないでくださいよ」

 温め直した八宝菜や中華スープを、いつものようにニコニコしながらミドリさんが差しだす。レンは「どうも」と言って早速箸を手にすると、よほどお腹がすいていたのか、ほとんどかきこむように八宝菜を食べていた。

「ねえ、ちょっとおにーさん」と、あたしはそんなレンの肘をつつくことにする。「あたしも読んだのよ、久臣さんの『肉工場』。あんたが読め読めってうるさいから」

「それで、あんたの頭で久臣さんの書いた高尚な小説の世界観が理解できたのか?」

「理解できたかどうかはイマイチ自信ないけど、とりあえず面白かったわよ。それで、あたしも結局『肉工場』で働くしかないんだと思ったから、来週の火曜から木曜日まで、労働に勤しむことにしたわ。短期のコールセンターの世論調査の仕事なんだけど」

「ふう~ん。これまでデリバリーヘルスを利用したことがありますかとか、そんな変な世論調査じゃないだろうな?」

「違うわよっ。もっとちゃんとしたお堅い企業だってばっ。どうしてそう、あんたはいちいちあたしに突っかかってくるわけ!?」

 久臣さんは壁の時計を見ると、そろそろ電車に乗り遅れると思ったのだろう、「ごちそうさま」と言って席を立つと、ブルーグレイの作業着を手にとり、玄関を出ていった。

「ねえ、ミドリさん。今だって結構あたし、久臣さんやミドリさんと楽しくお話してましたよね!?」

 その話の腰を折ったのはあんたよ、というように、あたしは隣のレンのことを睨みつけてやった。

「え、ええ。そうよね……久臣さんがサクラちゃんのことを避けてるように見えたのは、久臣さんが昔、サクラちゃんに似た感じの女性にお金を騙しとられたからだって、そんな話をしてたの」

「ミドリさん、無理しなくていいですよ」と、ニュースでサッカーの試合結果を見ながらレンが言った。「こいつにとって楽しい話が、みんなにとっても楽しいとは限らないんですから」

「わかったわよ、もうっ!!」

 あたしはだんだん、悔し涙が盛り上がってきたので、大きな音をさせて階段を上がると、自分の部屋へ戻ることにした。

 ほたるは今日も演劇の練習か彼氏とのデートのどっちかで、帰りが遅くなるだろう……何故あんなデブにたくさんの友達や彼氏がいて、あたしにはいないのだろう?とは言うまい。

 レンに言わせればそれはたぶん、あたしが「性格ブス」だからなのだということはよくわかっている。

 ついきのうのことになるけれど、居間であたしがほたると何気なく並んでTVを見ていると、ほたるの携帯が鳴った。

 その時の会話で、ほたるが恋人の東郷氏をデュークと呼び、彼がほたるのことをニッキーと呼んでいるらしいことがわかるなり――あたしは思わずブッと吹きだしていた。

(デュークとニッキー?めっちゃ受けるんだけど!!)

 でもその時、みんなより遅れて夕食を食べていたレンと目があい、あたしは一瞬凍りついた。

 救いようのない、哀れな人間を軽蔑するような眼差し……口にだして言わなくても、何故あたしがその時笑ったのか、レンにはよくわかっていたのだ。

 まあ、その時から今の夕食の時間になるまで、レンとは顔を合わせなかったから、奴は彼流にベルビュー荘の大切な住人を守るべく、あたしに報復したに違いない。そのことはよくわかっている。

(ふんっ!!あんな奴、あたしだって大っ嫌い!!)

 ベッドの上に突っ伏すと、絨毯の上に散らばるベルビュー新聞のいくつかが目に入ってくる……久臣さんの書いた『肉工場』がそうであったように、ベルビュー新聞の記事の中には、あたしがまだ読んでないものがたくさんある。

 その中に、例の<男と女の恋愛相談室>の記事の残りもあり、あたしは法学部の学生であるR嬢が同じ女子寮のJ嬢にこんな相談事をしている回を見つけた。



『男と女の相談室~第76回~』

 R嬢:「ねえ、Jちゃん。あたし、昔から何故かある特定の男子に嫌われる傾向にあるの……どうしてだと思う?」

 J嬢:「あら、特定の男子ってどんな男の子?」

 R嬢:「ようするに、スポーツは出来るんだけど、頭カラッポっていうタイプの筋肉男子。でもあたし、何故か昔からそういうスポーツマンタイプの男の人が好みなの。今片想いしてるのも、そういうタイプの筋肉質の人で……でも、向こうはあたしのこと、「どうせ心の中では俺みたいな男のこと、馬鹿にしてるんだろ」っていうような態度なの。どうしたらいいと思う?」

 J嬢:「そうねえ。ところでその人、何かの部に所属してたのするの?」

 R嬢:「ラグビー部よ」

 J嬢:「ラグビー部!!いざゆかん、愛の花園へってわけね」

 R嬢:「茶化さないで、ちゃんと相談にのってよお」

 J嬢:「ごめん、ごめん。そのラガーマンを落とすのは、実際そんなに難しくないわよ。たぶん向こうは硬派を気どってるか、ようするに女に免疫がないかのどっちかだから、積極的にセックスアピールを用いるべし!!」

 R嬢:「セックスアピールって……そんなことして、尻軽の売多だと思われて、嫌われたらどうするの?」

 J嬢:「大丈夫よ、あんた見た目、堅そうに見えるから、そのくらいで実はちょうどいいのよ」



 セックスアピールという言葉のところで軽く受けると、あたしは少し元気が出てきた。

 そうだ、よく考えてみたら、あたしがデュークとニッキーという名前のことで笑ったのも、そんなに罪深いことではない。

 むしろ、たったそれだけのことで、何故レンに軽蔑の冷たい眼差しで見られなければならないというのか?

(あんなの、つい思わずちょっと笑っちゃったっていうだけじゃないの)

 ほたるの恋人の東郷さんは、どう見てもルックスのほうは三枚目だった。でも天真爛漫として明るく、ほたるのことをお姫さまのように扱ってくれるという、そんな感じの人らしい。

 そしてあたしは――R嬢じゃないけれど、自分の好きなタイプの男子には何故か嫌われる傾向にあるということを、今更ながら思いだしていた。

 そう。あたしが昔から好きなのは、サワヤカ系のどこか清潔感のある男の子だった。スポーツが出来るとか勉強が出来るとか、そんなことはどうでもいい。むしろ、スポーツも勉強もどっちも出来なくていいくらいだ。さらには、夏の夜祭で柄の悪い連中に絡まれるも、喧嘩のほうも弱っちいため、速攻ボカスカやられるタイプであって構わない……ただ、そんな連中に立ち向かっていく僅かばかりの勇気と、サワヤカな清潔感さえあったら、あとのことはほとんどどうでもいい。

 うまく説明できないけれど、レンはあたしの求めるこうした<清潔なサワヤカ感>を持っている男だった。

 もちろんあたしの言っている清潔感というのは、毎日お風呂に入っているとか、食後に必ず歯を磨くとか、そういう意味の清潔感のことではない。なんて言ったらいいのだろう……肉体的には(何かの事情で)十日も風呂に入らず、衣服も下着も取り替えていないというのに――それでも心が清潔なため、その精神性が体から滲みだしてしまうような感じ、とでも言えばいいだろうか。

 まあ、男友達にそんな話をしたら「そんな男、この世に実在するか?」と笑われてしまいそうだけど、そんな男、実際にこの世に存在するのだ。とりあえず、わたし自身が認定する限りにおいては。

 あたしはいつも、その手のタイプの男に出会うと、自分のような女が近づいてはいけないと思い、遠くからそっと見つめるだけになる……もちろん、ちょっとした偶然というか運命の悪戯(?)から、おつきあいしたということも、何度かある。

 でもその場合は残念なことに、向こうは絶対にあたしのことを<結婚の対象>としては見なかった。

 そして、今度はレンだ。もちろんあたしは奴と、ここベルビュー荘をでて「ふたりで暮らしたいな、うふっ」なんていうことを思っているわけではまったくない。でも、体の関係はないのに自分が好みだと思う男と、ひとつ屋根の下で暮らすことになったのなんて、これが生まれて初めての経験だった。

「あいつ、口にだしては言ってないけど、もしかしてすごく可愛い彼女がいたりするんじゃないでしょうね?」

『ゼウスとプロメテウス』を見にいった時、彼が劇団レリックのチケットを売ったという連中の中には――当然女性もいて、そのうちの何人かは、レンがほんの少し指を動かしただけで、速攻彼に張りついてきそうなタイプの女性がいたのを、あたしは思いだしていた。

「あ~あ。あいつの彼女がもし、テニスコートでパンチラタイプだったとしたら、ほんと、あたしとしてはがっかりだわ」

(いや、もしかしたらそのほうが、所詮あいつもただの男だったと思って、諦めがつくだろうか?)……あたしがベッドの上に寝転んで、足をぶらぶらさせながらベルビュー新聞の続きを読んでいると、強い風の音で誰かが帰ってきたのがわかった。

 何分古い家屋なので、今日みたいな風の強い日には、玄関が少し開いただけでも、結構な風の力が二階の壁や廊下を走っていく。

「ただいま~っ!!」と明るい声が聞こえたところを見ると、どうやら帰ってきたのはほたるらしい。

 時刻がまだ八時にもならないのを見ると、今日は劇の稽古はなかったようだ。でも、朝に「夕ごはんはいいですよん」とほたるは言っていたから、デューク東郷氏とデートして夕食だけ食べてきたのだろうか?

 ドタドタというほたる特有の足音を響かせながら、彼女が階段を上がってくる……(あんなおデブちゃんが誰とどこで何を食べてようとあたしには関係ないんだけど)と、あたしはあらためて思った。それでも、隣に住む人間の動向というのは、自然どうしても気になってしまうものらしい。

 いつものように、自分の部屋に荷物を置いてから、またドタドタと階段を下りていくかと思いきや――彼女は意外にも、その前にあたしの部屋のドアをノックしていた。

「ねえ、サクラさん。ちょっとお話があるんだけど」

「あら、何かしら?」と、あたしは意味もなく気どった声で応じていた。それというのも時々、(本人は無意識なんだろうけど)ほたるが舞台上で喋っているような話し方をすることがよくあるからだ。

「あのね、最近サクラさん、ベルビュー新聞を読んでるでしょ。それで……」

 そ~っとドアを開きながら、あたしの機嫌が悪くないのを確認すると、ほたるはほっとしたように遠慮なく部屋へ足を踏み入れた。最初からあった備えつけの家具以外、自分のものはほとんどないあたしの7号室。まあ、掃除するのは楽でいいけど。

「うちの劇団の脚本書いてた人が、もう二足のわらじは履けないってことで、近々退団するんだ。それで、サクラさんに昔のベルビュー荘のことを劇として書いてもらえないかな~なんて……」

「脚本!?あたしが!?」

 驚きのあまり、あたしは足の裏でせんべいを潰してしまった。あたしは食堂にあるせんべいや他のお菓子なんかを、トイレへ行った帰りなんかにくすねることにしている。でも、最近ちょっとリスの頬袋みたいに溜めこみすぎていたようだ。

「こう言っちゃなんだけど、ほたる。あんた、頼む相手を間違ってるんじゃない?そういうことは、文才豊かな久臣さんにでも頼みなさいよ」

「久臣さんはダメよ」と、ほたるはベッドに座るあたしの隣に腰かけながら言った。ギシリ、と彼女の重い体重が片側にのしかかって軋る。「前にも同じこと、頼んだことあるんだ。でも久臣さんにはどんなに頼んでもオッケーしてもらえなかったの。本当は、久臣さんの書いた小説の中で舞台化したいものもあるんだけど……まあ、そんなわけでサクラさんに頼もうかなって思ったの」

「あのさ、ほたる」あたしはぼりぼりと髪の毛をかくと、ベッドの上で女らしくあぐらをかきながら言った。「そういう気持ち悪い友情ごっこみたいの、やめてもらえる?あんただって本当は心の中で、レンみたいにあたしのこと、いけ好かない女だって思ってるんでしょ?だったらいい子ぶらないで、それに相応しい態度をとったらいいのよ。それとも何?ろくに仕事もなくてごろごろしてるし、外で一緒に遊ぶような友達も彼氏もお金もないみたいだから、同情してくれてるってこと?」

 いかにも傷ついたといったような、被害者ぶった顔をするかと思ったけれど、そこは女優というべきか、ほたるは意外にも毅然とした顔つきをしていた。

「うん、そうだね。でもあたし、直感的にこれはサクラさんにしか出来ないことだと思ったんだ。サクラさん、あんまり普段から小説とか、読んだりしないほうなんでしょ?脚本って、実はそんなに文学的な素養っていうか、難しいものは必要ないんだよね。もちろん、そういう手合いのものっていうか、そういう系統のものは世の中にたくさん存在してるけど……なんていうかなあ、うちくらいの弱小劇団にはむしろ変に知識のある脚本家とか演出家は必要ないわけ。ようするに、あたしがというか、あたしたちが欲しいのは、サクラさんみたいにまっさらな状態の人だったりするのよ」

「まっさらっていうことなら、うちの3号室に住んでる、ミズキくんでもいいんじゃない?あの子、将来何をしたらいいかわからなくて、さ迷いの日々を送ってるみたいだし」

「シーッ」と、ほたるはまた、どこか演劇調に口元に人差し指を立てている。「ベルビュー荘は壁が薄いから、隣で話してることや上や下で会話してることは、意外と筒抜けなのよ。特にミズキくんは繊細だから……ええとね、サクラさん」ここでまた普通の音量に戻ってほたるは言った。「あたし、サクラさんとレンさんが普段食堂とか居間でしてる会話を聞いてて、思ったんだ。この人、面白いことを言う人だなあっていうか、会話にセンスのある人だなあって。脚本っていうのはようするに、小説みたいに細かい状況説明なんてチンタラする必要はなくて、なんといってもこの登場人物の会話が命だとあたしは思ってるの。だから是非、この脚本にサクラさんに挑戦してもらえたらと思って!」

(――この子、マジで正気なんだろうか?)

 あたしはそう思いつつも、何故か突然ちょっとだけまんざらでもない気持ちがこみ上げて、自分でも顔が赤くなるのがわかった。

 実をいうと、あたしはTVでやってる全十回前後のドラマを批評するのが大好きだ。いつも、自分が脚本家ならそんな書き方はしないとか、この男女関係にはリアリティがないとか、そんな批判ばかりしてドラマを見ている。そして実はずっと、行間の説明はどうでもいいんなら、セリフだけでもっと視聴率のとれるマシな物語を自分になら書けそうだと自惚れていたのである。

「ねえ、ほたる。あんたまさか、本当に冗談抜きに本気で、同情でもなんでもなく、その脚本をあたしに書いて欲しいって、あたしに書けるって、芯から思ってるの?」

「うん、もちろん!!」と、ほたるは即答した。「たぶんこんなことを言ったら、サクラさんは気分を害するだろうけど……あたし、サクラさんを見てると、もうひとりの自分を見てるような気持ちになるんだ。こんなデブと似てるところなんか、自分にはひとつもないってサクラさんは思うかもしれないけど……」

(なんだ、ちゃんとわかってるじゃないの)

 あたしがそう思いながら頷いていると、ほたるは赤いリュック型の鞄の中から、札入れを取りだしている。そしてその中から写真を一枚抜いて、それをあたしに見せた。

「あら、可愛い子ね。もしかしてあんたの隠し子かなんか?」

「まさか。これはあたしが十歳頃の写真。この頃子役で午後からやってるTVドラマに出演してたんだ。腹違いの美しい姉妹が、やがてひとりの男を巡って憎みあうっていう陳腐なメロドラマだったんだけど……その意地悪な妹の子供時代の役。でもその後、だんだんぶくぶく太ってきて、今みたいな状態になったの。ただぼーっと突っ立ってるだけで、「どけ!このデブ!」って言われたりしたことは、これまで数えきれないくらいたくさんあるよ。でもあたし、痩せる努力をしないことの言い訳じゃないけど、ありのままの自分に十分満足してるんだ。それでも、たま~にこう思ったりすることがあるのよね。あのまま突然太りだすことなく、美少女路線で成長してたら、あたしもサクラさんみたいに性格の悪い嫌な人になってたのかなあって……」

「あんたもなかなか、言うようになってきたじゃないの」

 あたしは同情ではなく、ほたるとの間に対等な友情が芽生えつつあるのを感じて、彼女のボンレスハムのような肩を、思いきり叩いてやった。

「たぶん、レンさんとサクラさんが毎日やりあってるのを聞いてて、口の悪いのが移ってきたのかもね。もちろん、一から百まで完璧に脚本を書いてっていうんじゃなくて、基本的な設定とかアウトライン、登場人物とかは、あたしも一緒に考えて決めたいと思うんだ。あとはミドリさんや久臣さんの許可なんかも得て、仕上げられたらいいなって思うんだけど、どう?」

「うん、わかった。そういうことなら乗ってもいい……それにしてもほたる、あんたもったいないわね。デブの中には痩せることさえ出来たら美人になれるって勘違いしてるのが多いけど、あんたの小さい頃の写真を見る限り、ほたるって痩せたら美人になるっていうタイプのデブなんじゃないの?」

「やだあ~。そんなに褒められても……」

 両頬を両手で挟むと、ほたるはもじもじと照れた振りをしている。

「その仕種、やめなさいってば。マジきもいから。それより、そうと決まったらあたし、ベルビュー新聞の読んでない記事のところに全部目を通しておかなきゃ。主人公は小山内氏かミドリさんあたりで、脇役が大谷嵐氏とか羽柴亮太郎氏っていったところでいいのよね?古き良き時代の青春ものっていう路線と、彼らの時代にあったことを完全に現代風にアレンジするっていうパターンと二通りあると思うけど、ほたるはどうするのがいいと思う?」

「そうね。まあ、最初はどちらとは決めずに、主要登場人物のキャラクターと起承転結で大体どういう事件が順に起きるかを決めていったほうがいいと思うの。一応あたしが思ったのは、これは恋愛の絡んだ青春コメディ。そこだけは譲れないって思ってる」

「オッケ。了解。実際、あたしも同意見よ」

 まるで、初めて意見があったとでもいうように――あたしはほたると顔と顔を見合わせて笑った。

 そしてこのあと、夜明け近くまで「あーでもないこーでもない」という脚本に関する案が練られたあと、あたしはほたると自分の部屋のベッドで、気づいたら一緒に寝ていた。

 こんなデブとシングルベッドで一緒に眠れるだなんて、それだけあたしが痩せてるって証拠ね!と起き抜けに言った時、ほたるは容赦なく象のようなお尻であたしを床に突き飛ばしていた……なんにしてもこれが、あたしに生まれて初めて女友達の出来た瞬間だったかもしれない。




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