セイレーンの歌姫
かつて、界隈を熱狂させた一人の歌い手がいた。
彼女の歌を聴いたものは、強く感情を揺さぶられたという。
だが、ある時から突然発信は途絶え、ファンたちは血まなこになって探したが、彼女の痕跡は全く見つからなかったという。
『ひなみな』という名前で、彼女は歌い手活動をしていた。
子供の頃から歌うことが好きで、周りからも歌が上手い子と一目置かれていた。
ただ、人前に出ることがとても苦手で緊張しすぎる性格のせいで、コンテストのようなものに出たことはなかった。
そんな彼女が、ネットで歌い手というものを知った。
顔は出さずに歌だけをアップロードする。
それはまさに彼女向きだと思われた。
初めは、1回、2回と動画の再生回数が増えるだけで、ドキドキして嬉しかった。
やがてポツポツとコメントがつくようになると、嬉しさと緊張で、画面の前でひとり、挙動不審になった。
見知らぬ誰かが、わたしの歌を聴いてくれた。
見知らぬ誰かが、わたしの声を好きだと言ってくれた。
見知らぬ誰かが、何度も繰り返し聴いてくれている。
今までごく身近な人間しか知らなかった彼女の歌声が、ネット越しの「誰か」に届いている。
またたく間に彼女は夢中になり、動画の再生回数も増えた。
そのうちに、再生回数はある程度のところにとどまって、それ以上は伸びなくなった。
同時に、ほかの歌い手の動画も観るようになって、世の中に自分くらいの歌い手はごまんといるのだと思い知らされた。
もっと、うまくなりたい。
もっと、思うがままに声を出したい。
もっと、たくさんの人に動画を聴いてもらいたい。
大好きだった歌が、同時にとても苦しくなった。
頭打ちな現状を打破するにはどうしたらいいのか。
コミュニケーションの苦手なひなみなは、歌い手の中にも特に親しくしてる人もいない。
リアルの友達には、動画をあげていることは誰にも教えていない。
相談できる人もなく、彼女は煮詰まったまま、フラフラと街を彷徨っていた。
『願い事叶えます』
古びた看板が目に入った。
看板の下の小さな矢印に導かれて、ひっそりとした路地裏を進むと、喫茶店のような木製のドアにプレートがかかっていた。
『願い事叶えます』
再びその文字に招かれたように、彼女はドアを押した。
「いらっしゃいませ」
奥から声がして、男性が微笑みをたたえてこちらを見ていた。
若いような年がいっているような、まだ10代のひなみなからすれば、確実に大人の男性だった。
入ってはみたものの、戸惑うひなみなに、店員らしき男は優しい声で尋ねた。
「願い事か叶うアイテムをお探しですか?」
まわりをぐるっと見渡すと、小さな鉱石やアクセサリー、よくわからない置き物、ぬいぐるみなどが、路地裏らしい仄暗い店内に所狭しと置いてある。
「…開運グッズみたいなものですか?」
「いいえ、効果は保証しますよ。まずは、あなたの願い事を聞かせていただけますか?」
こちらへどうぞ、と椅子を勧められ、言葉だけ聞いたら怪しいことこの上ないのになぜか、そのまま座ってしまい、ひなみなはぽつりぽつりと話し始めた。
「なるほど。それならちょうど良い物があります。あなたの歌声の魅力を引き上げる物がこちらです」
ここの店主だと告げた男が、奥の古びた冷蔵庫のようなものから取り出した包み。
その中にあったのは肉のようなものだった。
「こちらはセイレーンの肉です。これを食べると、食べた者はセイレーンのような魅惑の声を手に入れることができます」
「セイレーンってゲームとかで聞いたような、想像上の生き物じゃないんですか?」
「ちゃんとおりますよ。ただ、知られていないだけです」
さも当たり前のように、店主は説明する。
「上半身は人間の女性で下半身が鳥の生き物。
美しい歌声で、船乗りを惑わせると言われていますね」
「でもその声は偽物じゃないんですか?」
歌いたい、もっと聴かれたい。
でもそれは自分の声で、自分の歌でだ。
「それがですね、普通の人が食べても、ちょっといい声だな、くらいしか変化はないのですよ。効果があるのはあなたのような、もともとの歌声に力がある人なんです。もとからある魅力を、増幅させるような」
こんなに怪しい話なのに、ひなみなの頭はもう疑っていなかった。
欲しい、でもそれは自分の歌だと言えるのか?
でも元の声を高めるのなら、それもまたわたしの声じゃないのか?
ずいぶん長い間なのか一瞬だったのか、ひなみなは目の前に差し出された肉の塊を見て、そして、覚悟を決めた。
「ください」
手の上に乗るほどの肉の塊は、ツルンとしたピンク色で、普通に鶏肉のようだった。
店主は、ひなみなの手で握れるほどの小さな塊に切り分けて丁寧にそれを包むと、差出しながらこう言った。
「食べ過ぎてはいけないよ。呑まれてしまうからね」
大事な宝物を抱きしめるように家に急いで帰り、そっと包みを開けると、やはりつやつやとしたまま、桃色の塊はそこにあった。
しかし指でつまむとそれはゼリーのように簡単にちぎれ、彼女は恐る恐るそれを口に入れた。
少し生臭いような、妙なグミを食べているような変な感触。
その味わいに、もしかして騙されたのかなと、今さら正気が戻ってくる。
だが試すように声を出して、彼女の中からその疑いは消え去った。
「あ〜♪」
喉から抜ける声の軽いこと。
しかししっかりと芯はあって、望んだ音程で安定して響く。
声は確かに聞き慣れた自分の声。
でももっとこんなふうに歌いたい、と願っていたとおりに声が出た。
歓喜に震えながら急いで歌を録音して、歌ってみたと、動画をアップした。
その動画はいつも以上に反響を呼び、再生回数は倍以上に跳ね上がった。
店からもらった肉を食べきる頃には、動画はアップした直後から勢いよく伸び、コメントでもひなみなの歌声に魅せられた人たちの絶賛が並んでいた。
奇しくもセイレーンの歌姫と呼ぶ者も現れた。
伸び続ける再生回数に称賛コメントの嵐。
もっと上手く歌いたい。
もっと聴いてほしい。
もっと褒められたい。
もっと、認められたい。
そして、この声はずっと続く?
恐怖が同時にひなみなを苛み始めた。
あの店を探して再び行ってみたが、看板はおろか路地裏も見つからなかった。
どうしよう?セイレーンの肉の効果がそのうち切れたら。
その他大勢の一人に戻りたくない。
その不安が声にも出たのか、新しい歌みたの評価は、今までより少し低かった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
人々に飽きられたら。
下手になった、て言われたら。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
不安が声から力強さを奪う。
どうしよう、あの肉があれば。
どうしよう、あの肉がないとわたしは。
『願い事叶えます』
追い詰められたひなみなは、再びあの店にたどり着いた。
店主は変わらない微笑みで彼女を迎え入れた。
そしてまた、告げた。
「食べ過ぎてはいけないよ。呑まれてしまうからね」
前回より大きな塊を手に入れ、ひなみなはようやく体から力を抜いた。
ゆっくり食べなきゃ。
小さくちぎって口にいれると、今までの不安が嘘のように、気持ちよく声が出た。
同じ頃、とある配信者に紹介され、ひなみなの動画はさらに伸びるようになった。
もっともっと私は歌える。
もっともっと凄いと言わせられる。
もっともっと称賛を――。
少しずつ、少しずつと思いながらも取り憑かれたように肉を口にし続け、残りは小さな欠片になっていた。
今のところ、歌声以外の変化は見当たらない。
私はもっと歌いたいの。
最後の一欠片を口に入れた。
ミシィッ
軋む音がした。
同時に足に激しい痛み。
ミシィッ
その音が自分の足からしていると気がついたが、何が起きているのか分からないまま、痛みはどんどん強くなる。
「ぁ゙ぁ゙ぁ゙…」
身体が内から引き裂かれるような痛みに、口から出るのは自分のものとは思えない濁ったうめき声だけ。
のた打ち回るうち、痛みは足から全身に移り、ただただ転げ回ることしかできず、涙でぐちゃぐちゃになっている目に、変形していく腕が映った。
そうして、ひなみなの身体は、半人半鳥の、セイレーンに変わっていた。
彼女は窓から羽ばたいて飛び出し――
それきり消えた。
あるときから、一つの都市伝説が人々の間で囁かれるようになった。
おすすめに流れてきた動画を何気なく聴くと、とてつもなく感情を揺さぶられる歌声が流れてくるのだという。
歌われている曲はその時々で流行っている、『よく耳にする歌』なのに、彼女が歌うと、悲しい曲は心を引き裂かれんばかりの切なさで、涙が止まらなくなるのだという。
そして再び聴こうとすると、その動画は見当たらず、履歴にも検索しても見つからないらしい。
その歌い手の名前は『雛見な』あるいは『雛皆』と言う人もいる。
歌に焦がれる者はみな、セイレーンの雛のようなもの




