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「──うお、びっくりした」
その声に驚き、肩を揺らす。
「え、こんなとこで何してんの」
「……飯、食ってる」
男子生徒は額の汗をシャツの裾で拭いながら、声を上げて笑った。
「そりゃあ、見たらわかるって」シャツに付着していた泥が頬を汚したことにも気づいていないのか、彼は何かを探すように辺りを見渡している。「なあ、ボール飛んでこなかった? サッカーしてんだけど」「見てない」
大して残念がる様子もなく、柯衣の隣に座った。ベンチがぎしりと音を立てるがすぐに壊れる様子はない。「よくこんな場所みつけたな。穴場って感じ?」
「さあ」ボールは探さなくていいのだろうか。
話しかけられることを煩わしいとは思わなかった。ただ、愉快であるとも思わなかった。
会話をする気のない柯衣の素気ない態度に気づいているのかいないのか、突然現れた男子生徒は言葉を続けた。
「ちょっと疲れたし、休憩させてくれ」彼は座りながら腕を伸ばす。うっすらと、汗と柑橘系の香りが混じった匂いが流れてくる。「……なあ、それってもしかして筑前煮? 久しぶりに見たわ。ああ悪口じゃねからな? うちだと滅多に出ないから珍しくって。作るの、面倒なんだってさ」
弁当箱を空にしようと箸を握り直したところで、覗き込まれていることに気がついた。話したこともない相手であるはずなのに彼は随分と親しげな口ぶりである。眉を上げながら白い歯を覗かせて笑う姿は夏の日差しによく合うのかもしれない。
年中日陰であるこの場所の空気が、少し揺れたように感じた。
「別に、普通」
切って、入れて、煮ただけだ。
面倒臭いと感じたことはなかった。作るか飢えるかのどちらかであるからだ。「普通って、え? もしかしてこれ、おまえが作ったの?」「うん」
それほど驚くことなのだろうか。柯衣は口を大きく開き、同じくらい大きく目を見開いている。貴重な日の光がすべて彼の瞳の中に集まっていくように、きらきらと光っていた。
「まじ? 俺、料理なんてしたことねえよ。包丁だって握ったことないし」
なんと答えればいいのかもわからず、そこで同級生と話すことが初めてであることに気がついた。
同年代と会話するときのレシピでもあればいいのに。
「……なあ、一口くれね?」
彼は少し恥ずかしそうに視線を逸らしながら、指先を筑前煮に向けていた。柯衣がすぐに頷かなかったのは嫌だったからではない、困惑していたからだ。
腹が減っていなくても、食べ物を胃に押し込み続けることには嫌気が差していた。少しでも減らす手伝いをしてくれるというのなら、一口と言わずに残り全てを押し付けてしまいたいくらいなのだ。それでも、今もずっと聞こえ続けている祖父の声が大きくなる。
──なんじゃあこのゴミは。こんなもん食わせて、さっさと殺そうとしとんじゃろ。
──お前には心が無いんじゃ。だから、こんなくそしか作れん。
──アバズレの子が作ったもんじゃけんな、こんなん食っとったら死ぬわ。
──なんじゃい飯がねえて、お前が作らんかい。誰のおかげで生活できとる思うとんじゃ、はよう支度せい。
右からも左からも、上からも下からも、前からも後ろからも聞こえてくる。ぐるぐると自分を取り囲むような罵詈雑言はただの幻聴ではなく、確かに存在した過去の記憶なのだ。祖父から投げられていた言葉が脳みそに染み付き、彼の死後も壊れたテープレコーダーのように延々と繰り返されている。
身体が揺れる。地面が揺れているのかもしれない。倒れそうだと思ったがすでに倒れていてもおかしくはなかった。耳の奥で血管がどくりと音を立てて脈打っているが、頭の中に直接響く声をかき消すことはできなかった。「──柯衣、柯衣!」
目の前で行き交う黒い影が光を遮断し、徐々に合う焦点によって、それが掌であることがわかる。隣に座る彼が身を乗り出し、柯衣の顔の前で手を振っていたのだ。「なあ、大丈夫か?」
ぼんやりと鈍い頭では、かけられた言葉の意味すらわからない。黒目がちの瞳は不安げに揺れ、眉はぐっと顰められている。それを眺めながらゆっくりと頷いた。
「本当に大丈夫かよ、顔色悪いぜ。え、まさかそんなに筑前煮とられたくなかったってこと?」顔色は悪いだろうが、彼のせいではなかった。甘酸っぱい柑橘の香りを取り込むように深く息を吸う。ほんの少しだけ、呼吸が楽になったような気がする。黙ったまま、弁当箱を差し出した。「くれんの?」
彼は少し逡巡し、しかし手を伸ばす。角の取れたにんじんが口の中に放り込まれた。汁で濡れた指先を舐め取りつつ咀嚼する様子をぼうっと見ていると、勢いよく顔を上げた彼と目があった。
こんな日陰にいながらどうやって掻き集めたのか不思議なほどに、その瞳の中には光が溢れていた。「うま、なにこれ、めっちゃ美味いんだけど!」
どうして彼は、こんなに嬉しそうにしているのだろうか。
堪えきれないとばかりに口角を上げ、美味い美味いと繰り返す。
世辞でないということはわかった。言う必要もないからだ。だからこそ、彼が何に喜んでいるのかがわからなかった。
そして柯衣は、彼の中に湧き上がっているであろう感情を知らないことが、残念に思えてならなかった。
一口だけ、と言っていたにも関わらず、彼は再び指を伸ばしていた。「おまえ天才なの? めっちゃ味染み込んでるし、まじで美味いんだけど」
「そんなこと、ない」柯衣は混乱していた。
何度考えても、自分が人を喜ばせている、という普段ではあり得ない結論が頭の中で弾き出されてくるからだ。
柯衣は何かを食べて美味いと感じたことがなかった。自分の作ったものを食べた人が、美味いと口にすることもなかった。それは悲しいことではなく、冬が寒いように、東から太陽が登るように、当然のことであったのだ。
そうであるはずなのに、目の前の少年は意図も容易く否定する。
「いやいやいや、まじで美味いから。なんなら毎日作ってほしいくらいだわ。俺さあ、煮物とかおひたしとか好きなんだよ。高校生らしくないって笑われるし、あんまり言わねえけど」
恥ずかしそうに笑う彼を見て、身体が跳ねた。そう感じるほどに心臓が激しく打っているのだ。このままでは肋骨を折り、皮膚を突き破って出てきてしまうのではないだろうか。
無意識のうちに胸元を押さえていた。シャツを握りしめているせいで皺になるかもしれない。だけど、心臓が外に飛び出したてもこの動悸は止まらないような気がした。早まる鼓動が掌に伝わってじっとりと汗が滲み始める。暑いと感じる気温ではないはずだ。
どうしていきなり、鼓動が激しくなったのだろうか。原因がわからないままに、弁当の中身が減っていく様子を見下ろしていた。
「え、もしかして柯衣、俺の名前知らなかったりする?」
それは、彼が三回目に訪れたときのことである。
教えていないのに名前を呼んでくることを不思議に思い、どうして知っているのかと訊けばこう返ってきたのだ。「知らない」「まじかよ」
どうして驚かれているのかがわからなかった。もしかして、同じクラスなのだろうか。
幼い頃から自分に悪意を向けない相手と関わることがなく、その影響からか、名前や顔を覚えることが不得意であった。覚える必要性すら感じていなかった。
「隣のクラスの、三谷です」妙に改まった口調で三谷は膝に手を置き、頭を下げた。「てか、知らないならもっと早く言えよ。俺ばっかり知ってるとか、なんか恥ずいじゃん」
「なんで知ってんの」
同級生が自分に下す評価を、柯衣は知らない。誰とも関わらなければ、噂や評判など入ってこないからだ。
一人暮らしを始めたことで染み付いた異臭は弱まり、成長期で背の伸び始めた柯衣をいじめる者はいなくなっていた。しかし、話しかけても曖昧な返事しか返って来ず、常に一人でいる柯衣の印象が良いものであるとは思えなかった。悪意ある評価だとは思わない。周りの人間が柯衣に下す評価は、いつだって正当なものなのだ。
しかし返ってきた答えは、ひどく単純なものであった。
「いやだって、一緒の学年じゃん俺ら。喋ったことなくてもさ、なんとなく知ってるだろ」三谷は本心からそう言っているようで、心底驚いたという感情が顔に現れている。「それにおまえ、めっちゃ背高いからさ。全校集会のときとか、絶対目に入るんだよなあ。てかさ、そっちのクラスに友達いるから何回も行ったことあんだけど。席、一番後ろだろ?」
柯衣が覚えていないことを不快に思ったかもしれない。
ふと思い浮かんだことに、はっとした。不快に思われたとして、だからどうだというのだろう。自分が彼に対してどんな感情を抱いているのか、見当もつかなくて黙り込んでしまった。三谷のこともわからなければ、自分のこともわからない。今までの自分が、別にそれでいいじゃないか、と囁いてくる。その通りだと頷きたいのにできなかった。
「え、もしかして怒った?」
黙っている柯衣にかけられたのは、予想だにしていなかった言葉であった。思わず口がぱかりと開く。どうして、三谷ではなく柯衣が怒る理由があるというのだろうか。
首を横に振る。伸びた前髪が目元を隠しているのに、覗き込んでくる真っ直ぐな瞳からは逃げられそうもなかった。
「怒ってない。俺が苦手なだけ、だから。覚えるとかそういうこと、全部」
卑屈なことを言いたいわけではなく、これが事実であるのだ。
今目の前にいるのは得意なことや自慢できることのない、矮小な人間なのだと伝わってほしい。決して交わることのない人種である三谷に、これ以上近づかれることがなぜだか怖かった。
そんな思いを知らずに、三谷は笑う。
「じゃあ、おまえに覚えられたら特別ってことだな」
細められた双眸がまっすぐに柯衣を捉え、二度と離さなかった。




