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晴天であったにも関わらず、雨粒が地面を濡らし始める。ぽつりぽつりと土に落ちては沁み込んでいく水滴が顔中を濡らしており、そこで、雨ではなく涙であることに気が付いた。
両の目から溢れる涙が視界に靄をかけている。目の前にあるはずの墓の輪郭もぼやけ、ただ、蒼天の鮮やかさだけがわかった。
村田が死んだことを知ったときも、彼の妻が頭を下げる光景を前にしたときも、涸れ果ててしまったかのように涙は一滴も流れなかったというのに。思っていたよりも自分は薄情な人間なのか、それとも悲しいという感情さえもあの日の炎に燃やし尽くされてしまったのか。そう思っていたのだが、今になってようやくわかった。
殺しても死ななそうだと言われていた男が、本当に死んでしまったという事実を、ただ受け入れられていなかっただけなのだ。
入院していたせいもあって葬式にすら参加できなかった。心身を壊して墓参りにも来れなかった。きちんとした別れができないまま今に至ったせいで、理解はしていても、心のどこかで彼の死に納得ができていなかったのだと知る。
あの事故で、村田 慎吾は死んだのだ。
その証が、今や眼前に建つ無愛想な墓石しかなくなっているということが、なによりも悲しかった。
三谷の自宅アパートの前で、車は停まった。
正午ちょうどに墓地を出てから、車内でコンビニで購入したサンドウィッチを食べたのだが、随分と久しぶりにまともなものを食べたように感じる。最近は空腹を感じること自体が少なくなった。死なない程度に、残りわずかなインスタントの味噌汁や温めていないレトルトの白米を無理矢理胃に収めていたように思う。
コンビニで購入したホットの缶コーヒーも、冷え切った手の中ですでに温かさを失っていた。真冬にも関わらず、凍る手前まで冷やされた水で墓石を洗ったからだ。
二人とも仏花すら用意しておらず墓には何も供えなかった。結局のところ供え物というのは生者のためのものであり、三谷は自分のためになにを供えるべきかがわからなかったのだ。村田の吸っていた煙草にしても毎朝飲んでいた缶コーヒーにしても、どこか違う気がした。
体中の水分を絞り出すかのように溢れ出ていた涙も今は止まっている。けれども、赤く腫れぼったい目元は誰が見ても泣いたのだということがわかるだろう。
佐々木に聞かされた内容を表に出すにはまだ頭の中で整理がついておらず、それをわかってくれているのだろう、佐々木も口を開くことはなかった。
後ろから車が迫ってきているのがバックミラー越しに見えた。道幅からして、この車を動かさなければ通れない。
「じゃあ、これで」小さく呟きドアハンドルに手をかけた。何かを言わなければと思うが、何を言うのが正しいのかがわからないのだ。薄く開かれたドアの隙間から、暖房で暖まっていた熱が一気に逃げていく。早く閉めた方がいいだろう。身体を外に出して扉を閉める直前、佐々木は言った。
「おまえが大丈夫ならな、それがいいんだよ」
後方から来る車が短くクラクションを鳴らし、寂しい住宅街に響き渡る。それを合図にするように、ドアは完全に締められた。すぐに車は発進し角を曲がって見えなくなる。
大丈夫になれるだろうか。虚勢ではなく、本心から大丈夫だと言える日がくるのだろうか。
今はまだ、わからなかった。
見上げたアパートは相変わらず古びている。壁に走る大きな罅が目立ち、切れてしまった廊下の電球はいつ交換されるのかもわからない。放置された自転車も、日に日に蜘蛛の巣が立派になるばかりだ。それでも、今朝に比べて視界は随分と開けている。
場違いなほどに清涼な風が髪を撫で、空の雄大さに気がついた。
佐々木の車を見送ってからもすぐに部屋に入る気にはなれず、アパートの前で立ち止まったが、しかし行く宛もないために階段を上り始めた。日光の差し込まない階段に規則的な靴音が鳴り響く。
既に見えている薄い玄関扉を開けたところで部屋は冷たく、誰かの手料理もないのだろう。それが当然のことであるのに、いつしか人の気配のない部屋を居心地悪く感じてしまっていたのだ。
溢した溜め息は白く広がり、空気中に溶けていく。
車内で温められた身体もじきに冷え、呼吸も色も失くすのだろう。そうなる前に部屋の暖房が効けばいいが。
そんなことを思いつつ、皮膚が張り付きそうなほどに冷えているドアノブを回して部屋に入った。
入ってすぐ、玄関の埃っぽさに眉を顰める。ずっと部屋にこもっていたせいで気づかなかったが、換気もされていない室内の空気はひどく澱んでいるようだ。暖房をつける前に窓を開けるべきだろうか。
やはり今日も、自分以外の誰かが入った気配はなかった。
世話を焼いてくれていた相手がいなくなり、掃除や洗濯は自分でするようになった。助けがなくても以前の生活に戻れるように、重く沈みそうになる身体を叱咤して、完璧ではないものの不衛生でない程度には部屋を保つようにしていた。
しかし最近では最低限の家事すらできておらず、こうして土間の隅にどこからか湧いた埃が溜まってしまっていたようだ。それを視界の隅で捉えながら、手を使わずにスニーカーを脱ぐ。雑に脱いだせいで片方がフローリングに乗ってしまった。靴底に付着していた砂が散らばるのが見える。
少し億劫に感じながらも靴に手を伸ばした瞬間、背後で扉の開く音がした。
相変わらず、鍵はかけていなかった。




