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浮上  作者: クイント
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5

 そんな矢先、「誰か」は訪れなくなった。

 それに気づいたのは、一月半ばのある日のことである。いつも通り病院からまっすぐ戻り玄関を開けた時点で、どこか違和感を覚えた。それは感覚的なものでしかなく、靴を脱いでいる間に忘れられる程度のものであった。しかし、すぐに違和感は確信へと変わる。

 居間のテーブルを見ても、出かける前と同様に半分ほど中身の残ったコップやティッシュの空箱が置かれているだけで、日常となっていた温かい食事は用意されていなかったのだ。冷凍庫を開けてみても前回補充された分しかなく、それも残り一つになっていた。

 あまり驚きはしなかった。

 いつか、この日が来るのだろうと思っていたからだ。彼か彼女かもわかっていない相手が、ようやく愛想を尽かしたのだろう。もしくはもう一人でやっていけるだろう、と判断されたかのどちらかだ。むしろ今までよく精神を病んだ成人男性の世話をやっていたものだと感心する。なんの恩恵もないというのに。

 結局のところ、盗られた物やこちらの不利益になるような事は何もなかった。終わりの日が確かに今日になるとは思わなかったが、いつであったとしても変わりはないだろう。

 だから、ただ前の生活に戻るだけなのだ。

 そうわかっているはずなのに。どうしてか、冷蔵庫の前に座り込んだまま、その日は動くことができなかった。

 そしてまた、夜に眠れなくなった。

 処方された睡眠薬を規定以上の量を飲んでベッドに入るが、ただ頭が痛くなるばかりである。長い冬の夜が自分の罪悪と向き合う時間と化していた。時折、シーツに鼻を押し付けて深く息を吸い込んだ。少し前まではしていたはずの爽やかな青い香りは、すでに失われている。日中であろうと心を呑み込む巨大な波のような不安が襲い、それを鎮める術を失くして三谷はようやく気がついた。

 それはまるで泥に沈むように、献身的で名のない存在に惹かれてしまっていたのだと。



 慢性的な睡眠不足が朝を拒絶するように、遮光カーテンは隙間なく締め切られている。

 それでも差し込んでくる細い光が朝であることを告げていた。眠らせてくれないベッドに入ることをやめ、硬いフローリングの上に座り込んで夜を明かす。ずっと頭を下げているせいで首の筋肉が固まってしまったかもしれない。それをほぐそうとも思えなかった。足の先はすでに感覚がない。生きている以上は体内を流れる血液は温かいはずであるのだが、到底信じられなかった。

 物音一つしない部屋の中、チャイムが鳴る。

 部屋の暗さにそぐわない、軽やかで少しずれた音色が部屋いっぱいに鳴り響いた。

 当然のことながら誰かが訪れる予定などなく、そうなれば新聞か宗教の勧誘に違いなかった。いや、そうでなかったとしても出なかっただろう。身体は根が生えたように動かないのだ。長く成長した根が床と自身とを結合させてしまったのかもしれない。そう思ったら、少しは気が楽になったように感じた。もう動く必要はないのだから。

 薄らとだけ開いていた瞼を閉じ、カーテンでは防げなかった光を遮断する。

 ふたたびチャイムが鳴らされた。

 こんどは二回連続で、なにかを急かすようにも感じられた。勧誘にしては熱心で、来訪だとしたら心当たりがなかった。耳鳴りのような電子音に頭痛がひどくなる。軋む腕を伸ばして布団を手繰り寄せ、頭からかぶる。その直前、現実ごと遮断しようとした三谷の耳に声が届いた。

「三谷、いねえのか」

 一瞬、誰だかわからなかった。ゆっくりと顔を上げると布団は後ろにずれ、完全に頭が出てしまう。かぶり直すか否かを迷っているうちに思い出した。「……佐々木さん?」

 久しぶりに声を発したせいで、乾燥した喉から掠れた咳が出る。それが聞こえたのだろう。扉の向こうにいる男は声を大きくした。「おい、俺だ、佐々木だよ。いるなら出てきてくれねえか」

 躊躇ってしまうのは身体を動かす億劫さもあるが、なによりも、もうあの工場の人間とは関わりたくなかったのだ。思い出す必要もないくらい脳裏に染みついているあの事故の日に、否応なしでも引き摺り出される気分になった。

 それでも、三谷は立ち上がった。眩暈と吐き気が同時に押し寄せベッドに手をつくが、床に伏してしまわないよう足の裏に力を込める。玄関までがひどく長い道のりに思えた。

「──お久しぶりです」

 鍵の開けっぱなしになっている玄関扉を、ゆっくりと開く。外の景色が細く見えた。西側である玄関は朝であっても薄暗くて、それだけが救いであった。

 最近になって、あの爆発が工場側の責任ではなく、ガスボンベ自体に不備があったということが判明した。メーカーは責任を負われているというニュースを見た記憶があるが、その後どうなったのかは知らないままだ。

 それでも当初は工場側の管理不足による事故であるとされ、責任者である佐々木工場長がどれだけつらい生活を強いられたのか。三谷には想像もつかなかった。

「ああ、三谷、本当に久しぶりだな」

 最後に会った病室での彼の姿が、実際に目の前に現れたように思い出される。頬にガーゼを当てているあのときの佐々木と、今目の前にいる彼の姿とを見比べた。少し、老けたように思う。

 髪はほとんどが白くなり、眉間や口元には深い皺が刻み込まれていた。まだ五十半ばであったように思うが、たった半年で五年ほどの月日が経ったかのように錯覚する。彼も、いまだに逃れることのできない苦悩に苛まれているのだろう。

「こんな急に、どうしたんすか」

「おまえ、電話に全然でねえからな。直接来たんだよ」

 着信があったことにも気がつかなかなかった。長い間、スマートフォンの充電は切れているのだろう。「今、どこに」

「関西に引っ越したんだよ。まあ、こっちでは住めなくなっちまったから」

 苦々しく、けれども笑いながら佐々木は言った。

「でも、佐々木さん、悪くなかったんでしょ。ガスボンベが不良品だったって、工場の管理は間違ってなかったって、ニュースで言ってたじゃないすか」

 言葉を連ねれば連ねるほど、喉の痛みがひどくなる。それでも、口を閉じることができなかった。

「まあ、な。だけど──しょうがねえよ」佐々木はまた、笑った。「起きちまったことは、しょうがねえ。メーカーのせいだなんだとわかったんだって、しばらくしてからだったからな。ずいぶん責められたんだぜ」

 笑えるはずがなかった。にも関わらず佐々木は、無理矢理ではあるが、笑みを浮かべているのだ。

 彼は、何の前触れもなく自身を襲った理不尽を受け入れることができたのだろうか。本心から、「仕方がない」と言えるほど風化させることができたというのか。彼の目を見て、そうではないのだとわかった。ただ生きていくために、「仕方がない」の言葉で全てに蓋をする覚悟を決めたのだ。

 自身の工場を失い、住む場所を失い、部下の命までもを失った。

 それだけではないのだろう。きっと、三谷には察することもできないほど多くのものを失ってきたはずだ。コンビニの期間限定の商品を逃したのとはわけが違う。取り戻すために足掻くことを諦めるには、どれだけの勇気がいたのだろうか。

 今の自分には決してできないということだけが、明白であった。

「今日な──墓参りに行こうと思うんだよ」

 誰の、とは聞かなかった。わかりきっているからだ。「……なんで俺を」

 あのとき、あの瞬間、三谷と佐々木は村田を見捨てたのだ。助けられないとわかって彼に背を向けたのだ。墓であろうと、彼に向ける顔がなかった。

 彼は誰よりも、三谷の心情をわかっているはずだ。それでも佐々木は続けた。「俺とおまえだからだよ」

 すぐには答えられなかった。これもまた、正解のない問題なのだろう。結局のところどれだけ考えたところで、意味などないのかもしれない。

「佐々木さんは、行ったことありますか」「いや、今日が初めてだ。だがまあ、行かねえわけにはいかんだろ」

 事故が起きてしばらくは、大きな怪我こそなかったものの、精神的なショックで記憶に薄い膜がかけられたかのように朧げであった。そんな中でも、はっきりと覚えていることがあるのだ。

 退院間近の病室で、村田 慎吾の妻が訪ねてきたときのことを思い出す。

 何度か昼飯を届けるところを見かけたことがあった。穏やかな笑みを浮かべながら、夫の同僚たちに挨拶をして回る慎ましやか和装の婦人は、豪傑が服を着ているかのような村田とは正反対だとみな思っていたはずだ。誰かが「あんたにはもったいないな」と言うたびに、村田はなぜだか誇らしげな様子で、「そうだろう」と豪語していた。絵に描いたようなおしどり夫婦であった。

 そんな彼女が、三谷と佐々木のいる病室の硬く冷たい床に、額を擦り付けながら言ったのだ。

 いつもは整えられている髪も乱れ、溢れる涙で床を濡らし、喉から心臓を絞り出すかのようにして言ったのだ。

「主人を助けていたらあなた達の命が危なかったこと、助けられたとしても、あの怪我ではもたなかったこと。すべてを承知の上で、一つだけ、一つだけ、教えて頂けませんか」

 三谷たちは動けない。続けられた言葉に、息が止まった。

「どうしてあの人を──助けてくれなかったのですか」

 三谷も佐々木も、なにも答えられなかった。

 毎日のように見る夢の中、炎に囲まれる村田 慎吾に背を向ける。走り出す一歩を踏み出したとき、後ろからこの言葉を投げられるのだ。「どうして助けてくれなかったのだ」と、半年が経った今でも夜な夜な問われ続けている。

 あの日から、誰もが行き場の失くした感情を抱えている。



 佐々木は自家用車で来ていた。長距離運転による疲労もあるだろうに、今は三谷を乗せて首都高を走っている。

 久しぶりに充電したスマートフォンを見て今日が祝日であることを知った。友人からのメッセージに既読をつける気にはなれず、すぐに電源を落とす。まだ朝早いこともあってかさほど混み合っている様子はないのが幸いであった。

 村田 慎吾の墓は、県境にある小さな墓地に建てられているらしい。

 見える景色が高層ビルから山へと変わり始めたあたりで、車は高速を降りた。すでに昼前になっており、行き交う車や飲食店の駐車場は混み始めているようだ。

 人の気配が濃くなってくる。当たり前のことであるのに、こんなに大勢の人間が生活しているという事実に驚愕した。いつの間にか暗く冷たいアパートの一室だけが、世界の全てであるかのように錯覚していたのだ。すぐ隣で運転している佐々木やすれ違う車、歩道を行く人の群れが部屋の外に存在することを、今の今まで忘れてしまっていたらしい。

「そろそろ着くからな」言いながら、佐々木はハンドルを大きく右に回してコンビニの角を曲がる。曲がった先では、片道二車線の道路がまっすぐ山を目指すように伸びていた。

 冬の、灰色にくすんだ山だ。


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