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浮上  作者: クイント
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4

 週に一度の通院日から戻ると、決まって出来立ての食事が用意されるようになっていた。

 それだけではない。久しぶりに冷凍庫を開けてみれば見覚えのないタッパーが詰められており、中には多種多様のおかずが入っていた。蓋には作ったと思われる日付まで書かれている始末だ。

 献立は和食であることが多く、おかげで毎日のように栄養バランスの考えられているのであろう食事を摂ることができている。その甲斐あってか、二週間が経ったあたりで味覚が戻っていることに気がついた。想像していた通り出汁が効いているが塩味は控えめに味付けされており、それはどこか懐かしかった。

 栄養が足りれば心にゆとりも生まれるのだろう。誰かもわからない相手のことを考える時間が増えていた。

 自分に恨みを持つ何者かの仕業であり、今までの全ての料理に微量な毒物が含まれていて、じわりじわりと体を蝕んでいたら。

 本当にそうであるのだとしたらずいぶんと回りくどい方法である。

 三谷が警察を呼ぶよりも食事に口を付ける方に賭け、可能性を引き上げるために掃除や洗濯までして警戒心を解いたというのか。現実的ではないだろう。

 次に浮かんだのは、三谷に好意を抱くストーカーという説だ。

 崩れた生活を送っている三谷を見兼ね、手を差し伸べた。

 現に献身的なまでに支えられているのだから、突拍子もない説であるとは言い難いだろう。少しの時間であれば散歩することができるまでに回復したのは、紛れもなく得体の知れない「誰か」のおかげであるのだ。

 しかし、だとしても心当たりがなかった。

 別れた恋人たちを順に思い出してみても、別れ際に拗れたこともなければ復縁を迫られたこともない。ただ三谷を心配しているだけなのだとしても、正体を隠して近づく必要などなかった。

 結局のところ、三谷の頭の中でいくら考えたところで答えがでるはずもないのだ。

 それでも、一つだけ確かなことがあった。

 炊き立ての白米を口に運び清潔さの保たれたベッドで眠るとき、三谷は確かな安堵を覚えはじめているのだ。今日も生きるのびることができたのだと実感できる。

 実際にはこの行為が悪意のあるもので、明日には倒れるかもしれない。

 だとしても、きっと後悔はしないだろう。どちらにせよ「誰か」がいなければ、とうに生きてはいられなかったのだから。

 歯を磨いてからベッドに横たわった。

 電気は消したがカーテンを少し開けており、部屋の様子はぼんやりと窺える。十畳もない居間はゴミ一つないおかげで、以前よりも広々として見えた。睡眠薬を飲んでいるのでいずれ眠気は訪れるだろう。まだ薬なしで眠ることはできずにいたが、悪夢に魘されて起きることは減っていた。シーツに顔を押し付け、深く息を吸う。

 少し前に、気づいたことがある。

 シーツに何かの香りがついているのだ。洗濯洗剤の匂いでないことは確かなのだが正体がわからない。洗剤や香水よりも自然なもので、柑橘系の甘酸っぱい香りの中でハーブのような青臭さが混じっている。ベッドを整えた者の香りが移ったのかもしれないが、確かめようがなかった。

 明日は今日より、ほんの少しでも息がしやすくなるように。

 そんな漠然とした願いを抱きながら、三谷は眠りにつく。



「──村田さん!」

 扉が勢いよく開かれ、息を切らした佐々木が飛び込んできた。彼の腕には長方形の箱のような物が抱えられており、休憩室にいた者たちは一斉にそちらを向いた。「おお、ボスじゃねえか。そんな慌ててどうしたってんだ」

 小さな座卓を囲んでババ抜きに勤しんでいたうちの一人である村田 慎吾は、片頬を上げて笑った。

 彼はいつも、工場長である佐々木をボスと呼んでいる。本人曰く「敬意を込めて」だそうだが、村田がアメリカ映画のギャングものを好んでおり、それに影響を受けているだけであることを三谷は知っていた。

「今日はこいつで勝負だ。ほら、トランプなんて片づけてくれ。今は見たくねんだから」

 佐々木が手にしていた物を卓上に乗せ、ぱかりと開く。どうやら折りたたみ式の麻雀卓であったようだ。一般的な卓よりも一回り以上小さなそれの上で、ジャラジャラとプラスチックの軽い音を立てながら牌を混ぜ始めた。「なんで急に麻雀なんすか」

「昨日、俺にトランプで大負けしたからだよ」三谷のもっともな疑問に答えたのは村田であった。にやにやと意地の悪い笑みを浮かべている。「どっかで俺が麻雀苦手なの、聞いたんだな」

「さあほら、早く始めるぞ」

 佐々木は勝つ自信があるのだろう。まだ始まってもいないというのに、機嫌良さげに眉を上げている。「そんであと二人、誰がやるんすか」「誰がって、おまえだよ」

 村田が指の先を向けてくる。麻雀が得意というわけでもなかったが、さきほど村田の溢した「麻雀苦手」という言葉を思い出し、佐々木の正面に当たる座に着いた。

 休憩時間も終わりが近づいた頃、勝負がついた。

「ほら、全員財布出しな」

「む、村田さん。あんた、麻雀苦手なんじゃなかったのかよお」

 休憩室の中で今もっとも機嫌が良いのが村田で、その反対にいるのが佐々木だということは誰の目から見ても明らかであった。勝敗を決める点棒を数えるまでもなく、村田は勝ったのだ。圧勝であるといっていいだろう。

「誰すか、デマ流したの」三谷も、村田が苦手なのであれば最下位は免れるだろうと思い参加したのだ。確かに最下位ではなかったが、誰がどう見ても「村田 慎吾は麻雀が苦手」などと言えるはずがない。自然と眉間に皺が寄ってしまう。

「ああ、それな」畳の上に置かれていたピーナッツの袋を手繰り寄せながら、何の気ない様子で答えた。「俺だよ、俺、俺」「はい?」

「だから、俺が噂流したんだよ。『村田さんは麻雀苦手らしいぞ』ってな。そうすりゃあ、誰かしら勝負仕掛けてくると思ったんだが。いやあ、思ったより上手くいったな」

 村田は大口を開けて笑い出した。麻雀に勝ったこと以上に、自身の策略が成功したことの方が嬉しいのだろう。蛍光灯の光が銀色の奥歯に反射してぎらついている。

「あ、あんたそりゃないぜ」佐々木は力なく肩を落とし、深く溜め息を溢した。「はあ、まんまと一本取られたな」

 三谷も呆れと共に、口元が緩むのを感じた。「ほんと、無茶苦茶すよ。普通そこまでします?」

「普通に勝ったってしゃあねえだろ。まあ、いいや。今日は全員焼肉でも連れてってやるよ」

「え、俺たち全員ですか? さすがに今日の勝ち金だけじゃ足んないでしょ」「昨日も勝ったし、それにまあ──またすぐに勝つから、大丈夫だって」

 村田はそう言って、親指をぐっと立たせると豪華に笑った。

 それは彼がよくみせるジェスチャーである。深い意味はなく癖のようなものらしいのだが、彼がこうして自信ありげに親指を立てるだけで、大抵の事はなんとかなるのではないかと思えてしまうのだから不思議だ。そして三谷は、その根拠のない自信満々な仕草が嫌いではなかった。


 相変わらず正体の知れない誰かのおかげで、医者も驚くほどに症状の緩和がみられた。

 午前中にベッドから出られることも、毎日とはいかないが不衛生でない程度に風呂に入ることも、半年前まではもう二度とできないのだと信じていた。

 なのに、一度崩れてしまったまともな生活が完全にとまではいかないが再構築されつつあるのだ。

 それは、ただバランスの取れた食事をし、衛生的な環境にいるからということだけが理由ではない。自力では浮上できないほど深くに沈んでしまったこの身を引き上げてくれた存在がいる、という事実こそが何よりも救いとなっているのだ。

 これは、業火の広がる地獄に垂らされた一本の糸なのだろうか。

 そうであるのなら、欲を出せばたちまち切れてしまうのかもしれない。今はただ下を見ずに、ゆっくりと上だけを目指すほかないだろう。



 職業安定所は土曜日ということもあってか、いつも以上に混雑していた。

 勤めていた工場は閉鎖された。死者を出す重大な事故を起こしたのだから当然のことではあるのだが、それがなかったとしても三谷が戻ることはなかっただろう。

 今でもふとした瞬間、フラッシュバックすることがあるのだ。

 ただ頭の中で思い出すだけではなく、身体ごとあの場所に引き戻されるような感覚に襲われてしまう。肌を焼き付ける熱に立ち込める鉄の匂い、舞い散る灰で視界は狭められ、その中に自分を見つめる男がいる。落ちた天井と地面とに挟まれた、村田 慎吾だ。

 片方の腕で瓦礫を退かそうともがき、もう片方でこちらに助けを求めている。幻覚の中でも夢の中でも、その光景は変わらなかった。

 彼は今もどこかであの炎の中に取り残されているのではないだろうか。

 そんな妄想が頭の中を渦巻いて、夜中に外へと飛び出したことも少なくはない。すでに、助けるべき相手は灰になっている。

 三谷はこの半年の間で自分の中に巣食う罪悪感や後悔が、この先一生消えることはないのだと悟った。

 それでも、いつまでも休んでいるわけにはいかないと思えるほどに回復しているのは確かであった。精神疾患を抱え、今も通院を続けている自分ではそう簡単に就職先がみつからないだろう。しかし、あまり悠長なことも言っていられない。工場の安月給で貯蓄などほとんどなく、出された退職金等でなんとか生活できている状態なのだ。アパートの更新日も目前に迫っている。

 残された時間は、そう長くはない。


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