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柯衣は今から三ヶ月前に、工場で事故が起きたことを知った。適当に流していたニュースに速報として飛び込んできたのだ。
淹れたてのコーヒーが入ったカップが足元で砕け、破片や飛沫が足を痛めているはずだ。しかし、視覚と聴覚以外の全てが遮断されてしまったかのように、しばらくの間は身動きが取れなかった。
従業員に死傷者が出たのだと知ったときは、まともに呼吸することすら困難になったことを覚えている。実際に亡くなったのは彼ではなかったが、怪我を負ったのだとわかるといても立ってもいられなかった。当然のことだ。
彼の人生に、柯衣はいなくても構わなかった。
それは今も昔も変わらずに、ただ、彼がこの世界で幸せに生きていること。それだけが自身の中に垂れ下がる救いの糸であったのだ。
どれだけ煌々としていようが、喉から手が出るほど焦がれようが、その糸を掴むことはない。蜘蛛の糸と同じなのだ。掴まなければ、欲を出さなければ、決して切れることがないと信じていた。
なのに今、掴んでもいない糸が切れようとしている。
アパートまで行ったのは、何かをしようと思ったからではない。自分にできることなど何もないのだから。
ただ、こちらの心配など杞憂にすぎないと安堵したかったのだ。あの事故が彼の人生に大した影響を与えていないのだと確認したかった。小説や映画のような大団円でなくても構わないから、幸せだと認識することもないような平凡な日々を送っていて欲しい。
それだけが、何かを願うということを知らなかった自身の中に、あのとき唯一芽生えた願いなのだ。
そこでふと、疑問が生まれる。
──だけど、神も仏もいないというのに、自分はいったい誰に願っているのだろう。
柯衣はこのとき、頭の隅に沸いていた疑問から目を逸らすべきではなかったのだ。
その日も、無事でいてさえくれればという一心で彼の住まうアパートを眺めていた。
雨でできた染みが外壁にまだらな模様を作り、階段下の駐輪場には蜘蛛の巣の張った自転車が放置されているような、そんな古びたアパートだ。
幸いにも向かいには駐車場があり、人通りも少ない細道であるので、車内にいれさえすれば滅多なことでは不審がられないだろう。
声をかけてはならない。姿を見られるのも駄目だ。
彼が自分のことを覚えていないことなど、わかりきっているのだから。
十年以上前にほんの少し話しただけの相手を、覚えていられる方が珍しいだろう。きっと、とうの昔に忘れている。記憶力の良い彼のことだから、話せば思い出してくれるのかもしれないとは考えたが、それでも柯衣は声をかけなかった。
彼に「覚えられていない」という現実を直視したくなかったのだ。
自分の中で輝いている思い出が彼にとっては些細なことであるのという現実を、よりにもよって彼自身の手によって突きつけられたくはなかった。再び関係を構築する勇気など到底持ち合わせてはいないのだから。
暗くなり始めた頃、通りの向こうから彼の姿が見えた。今日は通院日であり、家を出た時間から考えても病院からまっすぐ帰宅したようだ。
食事はきちんと摂れているのだろうか。
日に日に痩せ衰えているように見えるのは精神的な不安定さだけでなく、栄養が足りていないからに違いない。先週の通院日から今日まで、彼が外へ出ることはなかった。まだ食糧はあるのだろうか。いや、きっと買い足さなければならないはずだ。
それでも、帰宅してきた彼の手には何も持たれてはいなかった。ずっと足元をみつめながら階段を登るものだから、落ちやしないかと不安に駆られてしまう。万一に備え、車から降りてアパートに近づく。
こういうとき、自分の体躯が嫌になる。背ばかりが大きく育ってしまったせいで、ただ立っているだけでも目立ってしまうからだ。
気づかれないように慎重な足取りで階段の下まで向かった。
彼は枷でも付けられているように足を引き摺りながら、自身の部屋へとたどり着く。距離を保ちつつも後を追って階段を上がる。柯衣の重い体を受けて階段が金切り声をあげるが、幸いにも三谷の耳には届いていない。
鍵は相変わらずかけていないのだろう。誰の出入りもなかったことは確認しているが、彼の無頓着さに不安が募る。まるで、自分がどうなろうと気にも留めていないみたいではないか。
病院へは欠かさず行っているようだが、本当に薬は飲んでいるのだろうか。飲んでいたとして、効いているようには思えない。
自身の憂慮を言い当てるかのように、三谷の身体が崩れ落ちた。
頭をぶつけた衝撃音が耳を貫き、どっと嫌な汗が溢れ出す。考えるより先に靴の裏で地面を蹴る。滑り込むように彼に向かって両手を差し出し、そのまま倒れ込んだ。全身を強打し身体が跳ねるが、衝撃に呻く前に顔を上げる。
彼は無事なのか。
目で確認するより早く、地面と彼との間に自分の腕が挟まれる痛みがあり、深く安堵した。この冷たい床に叩きつけられてしまえば無傷ではいられなかっただろうから。念のために頭をぶつけていないかを確認する。傷はなかったが、丸い頭部を覆う黒くしなやかであったはずの髪が、記憶にあるものよりも傷んでいるように感じて息が詰まった。やはり栄養が足りていないのだろう。
あの事故で彼に何が起き、どれほどの傷を負ったのかはわからない。身体的なものではなく目に見えない傷のことだ。事故当時は毎日のようにニュースやインターネットの中で情報が飛び交っていたのに、彼の心情だけが載っていなかった。
それでも今、彼が苦しんでいることは明白であった。
お願いだから、幸せになって。
友人と笑い合う彼を見て、幸せなんて知らないくせにそう願った十三年前の自分が悲鳴を上げている。
きみと一緒だったときはいつも暖かだったはずなのに、どうして今はこんなにも冷たいのだろう。このまま冬になればきみは消えてしまうのだろうか。
灰色の空が、彼から温度を奪っていく。
柯衣の腕の中で血の気を失くし、その身体は生きているとは思えないほど冷たいのに、熱い熱いと浅い呼吸の合間を縫うように繰り返している。意識がはっきりとしていないのだろう。熱いと言いながら、柯衣の体温を求めるかのように服を握りしめていた。
きみの温度になりたいと願ったとき、俺はきみから熱を奪う悪夢になるのだろう。
苦しめたくない、ただ純粋に幸せに生きていてほしい。そのために自分は関わってはならないのだ。きっと彼を不幸にしてしまうから。
そう、ずっと信じていたのに。
十三年経ってようやく、彼は一人で幸せになんてなれないのだということを知ってしまった。知ってしまったのだから、手を伸ばさずにはいられなかった。
一度でも太陽の暖かさを知った人間が、その温もりを失くした世界で正気を保ってなどいられるはずもない。そんな簡単なことに、今の今まで気が付かなかったことに驚いた。
微動だにしない救いの糸に触れよう。
自身の欲望に耐えられるだけの強度はあるのだろうか。いや、きっとないのだろう。
それでも、この糸に俺の温度を与えよう。彼のためにではなく、ただ自分自身の世界を守るために、唯一熱を孕んでいるものを与えるのだ。
その熱に狂気と名がつくことを、柯衣はすでに知っていた。
秋風が吹き荒ぶ中で柯衣はようやく、願うばかりでは何の意味もないということを理解した。




