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浮上  作者: クイント
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2


 事故から三か月の時が経った。

 管理不足によるガスボンベの爆発事故だったと知ったのは、病室のベッドの上である。佐々木と脱出した直後、三谷は意識を失ったのだ。煙を吸い込みすぎたことが原因である。

 意識を取り戻したとき、潔癖なまでの白さと鼻をつく消毒液の匂いが充満しており、そこが病院であるのだということはすぐにわかった。身体の何箇所かに包帯やガーゼが当てられているが痛みはあまり感じない。頭には濃い靄がかかったようで上手く思考することができず、それは退院後の今もまだ続いている。

 村田 慎吾は、あの爆発事故で亡くなった。

 三谷が意識を失った直後に再び爆発が起きたそうで、その時点ですでに息絶えていた可能性もあるが、どのみち助かる余地はなかったのだろう。

 燃え盛る炎の中、奇跡的に助け出された男は存在しないのだ。

 エアコンの効いた室内にいても常に身を焼くような熱を感じていたときよりかは、幾分かましになったように思う。それも処方された薬による効果なのだろう。投薬をやめれば、再び三谷は炎の海に引き戻されるに違いなかった。

 最期の力を振り絞り、腕を伸ばしていた姿が瞼の裏にこびりついて消えないのだ。それは焼き印のようで、次第に目を閉じなくても見えるようになっていた。


 錆びた外階段を軋ませながら、アパートの二階へと辿り着く。

 突き当りにある自身の部屋まで、細長い廊下が延々と続くように感じられたが、実際には四部屋分しかないはずだ。

 切れかけている電球の点滅を頭上で受けながら、玄関前に溜まっている枯れ葉を踏みつける。くしゃりと潰れ細かくなった葉が冷たい風とともに飛んでいく。指先で触れた金属のドアノブは、秋風に晒されているせいで十分に冷やされていた。

 それでもう、駄目だった。

 一気に膝の力が抜け、バランスを崩した身体は前に揺れる。額を扉に打ち付けた音が静かな夜に響いた。その痛みに呻きながらも体勢を立て直すことができない。頭が揺れ、眩暈がする。呼吸すらできていない気がした。焦点がぶれ、自分がどこを向いているのかもわからなくなっているのだ。点滅しているのは本当に電球なのだろうか。脳みそがぎゅっと縮こまるような感覚に犯されているのは頭をぶつけたからではない。あの事故から、たびたび起こる症状なのだ。

 ばちん、と音がした。古びた電球が切れるように、視界は暗転し意識を失う。

 その直前、すぐ傍で誰かが立っているのが見えた気がした。


 頭痛に耐え切れずに目を覚ますことが日常となっていた。

 バネ式の人形のように跳び起きることは少なくなっても、枕や布団にはぐっしょりと冷たい汗が染み込んでいる。電気が消え、遮光カーテンは閉め切られている。それでも目の前はちかちかと赤い光の明滅が続いていた。それだけで、またあの夢を見たのだと嫌でも自覚させられるのだ。

 手探りで枕元のスマートフォンを探すが、指先に触れるのは冷たいシーツばかりである。この暗さでは壁にかかった時計も見えず、重い頭を抱えながら上体を起こした。

 薬を飲まなければならない。夢もみないほど、深く深く沈んでしまわなければならないのだ。

 ベッドから足を降ろし、立ち上がる直前で違和感に気が付いた。足の裏が、ただまっすぐなばかりの床に着いているのだ。

 休職してから三か月の間で、男の一人暮らしにしては清潔さを保っていたはずの部屋の中は変貌してしまいっていた。無論、悪い方にだ。

 目を閉じれば事故の光景が映しだされるせいで眠れなくなり、徐々に削がれていく体力の中で自炊をする気など到底起きなかった。生きるためにとなんとか口にできたものは買い溜めしておいたカップ麺やレトルト食品であり、咀嚼して飲み込むを繰り返しただけで一日分の体力はなくなってしまう。そんな状態で片付けや掃除などができるはずもないだろう。

 卓上に乗りきらないカップ麺の容器は乱雑に放置され、毎日掃除機をかけていたフローリングには、なんらかの汁を吸いこんだ埃がべたりとこびりついている。

 目も当てられない惨状には違いないが、これが限界なのだ。死なないように生きていくことしか今の三谷にはできない。だからこそ、不愉快なべたつきもない床に違和感を覚えた。

 食事も睡眠もろくに摂れていない身体は力が入らず、なかば四つ這いになってカーテンに手を伸ばす。長いカーテンの裾を掴んで横に引いた途端、白い光が瞼に刺さり、顔を上げていられなくなった。明るさや窓のさっしの結露からしてまだ早い時間なのだろう。昼間でもカーテンを閉め切っていたせいで、久しぶりに浴びる早朝の日差しがつらかった。健全な光から逃れるように顔を室内に向け、その光景に瞠目した。

 散乱していたはずのゴミが、一つ残らず無くなっているのだ。

 カップ麺の容器や中身の残ったペットボトルはどこにもなく、部屋の隅に積もっていた埃も見当たらない。

 一瞬、部屋を間違えてしまったのだと思った。精神を病んでからというものの記憶があやふやになることが多く、昨日病院から帰宅したときに他人の部屋に入ってしまったのだ、と。

 いや、そもそも昨日どうやって帰宅したのだろうか。

 病院へ行き、アパートを目指して歩いていたことは覚えている。確か、靴の裏が階段を叩く音に共鳴するかのように頭痛が激しくなり、目の前がちかちかと光り──その先が思い出せなかった。

 それでも背後にあるベッドは紛うことなく自分のものであり、目の前のテーブルも見慣れたものである。自分の部屋の中でゴミだけが綺麗に消えたとでもいうのか。それとも、消えたのは記憶の方なのだろうか。後者の方が随分と真実味があるに違いない。

 扉に阻まれて見えない玄関や風呂場はどうなっているのだろう。それを確認しようとしても、身体は動かなかった。日に日に動くことが困難となり、一度座り込んでしまえばもう二度と立ち上がることはできないと感じるほどに憂鬱という名の錘がのしかかってくるからだ。

──別に、どうだっていいじゃないか。

 自分でやったにせよ、誰かがやったにせよ、重要なことであるとは思えなかった。疲弊した神経では、生きるということ自体が疲労を蓄積するばかりの行為でしかないからだ。これ以上の負荷が加われば音もなく切れてしまうような張り詰めた神経の糸を保つには、無関心という防壁で守らなければなかった。分厚い壁で囲んで、微かな風にすら揺られることのないように。

 身体中から根が生えたように立ち上がることができず、ベッドに凭れながらただ浅い呼吸をする。次第に意識は遠ざかっていた。


 それからたびたび、おかしなことが起きた。

 帰宅してみれば、最後に稼働したのがいつかもわからない洗濯機が動いていたり、使っていない掃除機が充電されていたりするのだ。

 始めは自身の記憶に疑いを持っていたのだが、次第にそれが他者によるもの仕業であるとわかった。自分がやったにしてはあまりにも辻褄が合わないのだから。そして今日──。

「……は?」

 病院から帰ってきてすぐ、部屋の異常に気が付いた。中央に置かれている背の低いテーブルに、食事が並べられているのだ。

 茶碗には白米が盛られており、ひじきの煮物や豆腐の小鉢に加え、味噌汁まで用意されている。一番大きな皿には筑前煮があり、色とりどりの野菜の中で鶏肉が艶を放っていた。その全てにラップがかけられてはいるが、僅かに湯気で曇っており、まだ温かさを失っていないのだとわかる。

 誰かが食事を用意し、三谷に食べさせようとしているのは明確であった。

 誰が、なんのために?

 家族はとうに他界しており、今は彼女だっていない。あの事故から友人とも連絡を取っておらず、手料理をふるまってくれるような相手はいないのだ。

 キッチンにはこれといって使用した形跡がなかった。「誰か」は、三谷に食べさせるために料理を作り、わざわざこの家にある食器に盛り付けたというのだろうか。

 ここしばらく、玄関の鍵をかけた覚えがなかった。

 古びたアパートであるからだとか、盗られて困る物がないからだとか、そういう理由ではない。ただ、鍵をかけるという行為すら億劫になってしまっているだけなのだ。入ろうと思えば誰であろうと侵入ができた。

 だが、実際に侵入した者は何かを盗んだ様子もなく、むしろ食事を用意していったのだ。到底理解ができることではない。

 それでも三谷は、不気味であるとは思わなかった。思えなかったのである。

 一瞬よぎった疑問もすぐに消失してしまい、残ったものはといえば、ただ目の前の光景を処理するだけの拙い気力であった。

 卓上に、食べ物がある。ただそれだけを脳みそは理解した。

 その瞬間、半ば無意識に手を伸ばしていた。

 筑前煮にかけられたラップを指の先でつまみ、めくる。立ち上る湯気が冷え切った三谷の肌を湿らせた。箸も置かれていたのだが、それは使わずに素手で人参を取る。飾り切りはされておらず、それが手作りであることを強調しているようだ。人参は濃い橙色をしており、それを視界から消し去るように口の中へと運んだ。

 舌に触れた途端、確かな温かさを感じた。鈍くなった味覚では出汁の繊細な味はわからない。それでも、舌で押し潰せるほどに柔らかく煮られた人参から溢れる出汁が、乾いた口内を満たしていく。

 たったそれだけのことで、こみ上げてくるものがあった。

 それは久しぶりの固形物に胃が驚いたわけでも、まともな食事への歓喜というわけでもない。ただ、生きているということを思い出したのだ。

 もう一度手を伸ばし、斜めに切られたごぼうをつまみ上げる。人参同様に繊維が気にならないほどに柔らかい。相変わらず味はほとんど感じないが、それでも咀嚼を止めることはなかった。鶏肉もぱさつきがなく、蓮根のしゃくしゃくとした食感が飽きさせない。指先から伝う汁で服の袖が汚れたが構わなかった。

 気がついたときには、皿の半分ほどまで平らげてしまっていた。

 ふっと息を吐く。熱い血液が体内を駆け巡っているのがわかる。食事をしたことで体温が上がったのだろう。それはあまりにも久しぶりの感覚であり、懐かしさすら感じてしまった。もっと食べていたいという衝動が湧き上がってくるが、これ以上は弱っている胃が耐えきれないだろう。吐いてしまうことは避けたかった。

 最後に味噌汁を一口飲み、残った分はラップをかけ直す。どれほど日持ちするのかはわからないが捨てるという選択肢は浮かばない。

 不法侵入した者が作ったであろう料理を食べるなど、正気ではないのだと思う。何が入っているのかもわからないのだから。

 生きたいから食べたのだろうか。あるいは、死にたいから食べたのだろうか。

 答えが出る前に、三谷は重くなった瞼を閉じた。


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