12
転がっているスニーカーに手を伸ばした状態で反射的に振り返る。案の定、バランスを崩してしまい手を付いた。フローリングの冷たさに気づく暇もなく扉が閉まる音が響く。久しぶりに聞く施錠の音に、背筋が総毛立つのを感じた。
これはいったい、誰だ。
逆光で顔は見えなかった。玄関の電気も付いておらず、薄暗い中では真っ黒なばかりのシルエットにしか見えない。その影は言葉を発することもなく、ただ三谷を見下ろしているのだ。ドアの縁に頭をぶつけそうな程の高身長から男であることがわかった。驚きから目を瞠っているせいで眼球が渇く。緊張から、咥内の水分も失われていくようだ。
──強盗か?
沸いた疑問を直接ぶつけるわけにもいかず、しかし無断で侵入してきたくせに男は動かないのだから、狭い空間の中で二人の呼吸音だけが強調されるようだ。
ゆったりとしている服のせいで体格がわからない。揉み合いになったとして、果たして三谷に勝機はあるのだろうか。肌で感じる雰囲気から、男がただ部屋を間違えた隣人でないことは明白であった。
男の発する、目に見えない陰気で沈んだ空気に押しつぶされてしまいそうになる。
それに耐えきれず、口火を切ったのは三谷であった。
「あ、あの──」言葉を遮るようにして男の影が動く。三谷に覆いかぶさるように大きく動いたのだ。「ちょ、おい!」
仰け反った拍子に背中から倒れ込んでしまう。
軽く後頭部を打ちつつもすぐに身体を起こそうとして、それを許さないとでもいうように男の手が顔のすぐ横に置かれた。身長と比例した大きな掌だ。三谷を圧し潰すかのようにして身体をぐっと近づけられ、視界いっぱいに真っ黒な影が広がり何も見えなくなってしまう。筋の目立つ手の甲やちらりと覗く手首からして細身のようだが、だからといって押し倒されてしまっては、簡単に抜け出すことはできないだろう。
真冬であるというのに、全身から汗が噴き出してくる。刃物でも持っていたら、すっかり体力の衰えてしまった今の三谷にはひとたまりもない。
自身と男の身体との隙間に腕を差し込んで距離を取ろうとするが、それより早く、全身を密着させるかのように押し付けられた。二人を遮るものは着ている服だけになる。恐怖から、次第に呼吸が荒くなっていくのを感じた。
早く逃げなければならない。
生きたいと願っていたわけではないのに、命の危機を前にして、死にたくないという感情が頭の中を支配する。全細胞がただ生きるためだけに沸き立つのを感じた。恐怖に捕らえられたせいで浅い息しかできない。いや、物理的に肺を圧迫されているからだろうか。
男の身体が僅かに動き、思わず目を瞑った。殺される覚悟などできそうもないが強張った身体は都合よく動いてはくれなかった。
だから、抱きしめられたことに狼狽する。
危害を加えるためではなく、男は三谷の身体をかき抱くように腕を回したのだ。
背中に腕の硬さを感じるが、温もりは微塵も感じなかった。冷え切った床の方がまだ温かいのではないだろうかと思えるほどだ。
痛いくらいに力を込められているのに不思議と悪意は感じられないが、それでも押し寄せる恐怖心によって震える身体を落ち着かせようとして、気づく。震えているのは三谷ではなく、この男なのだと。
荒い息が耳にかかってびくりと震える。
三谷の耳に吹き込むように吐かれている息は、彼の身体と同様に冷たいものであった。興奮しているわけではない。上手く呼吸ができていないようなのだ。喘ぐように漏らす呼吸の狭間で「寒い、寒い」と呟いていることに気がついた。
抱きしめてくる腕は抱擁や拘束というよりも、酸素を求めて藻掻いているようにしか思えない。まるで陸地にいるのに溺れているようではないか。
男がなぜ、三谷に助けを求めているのかがわからない。
けれども触れている箇所全てが、「助けて」と訴えかけてくるのだからたまらなかった。
自分の助け方すら知らないのに、他人になにができるのだろうか。
頭の隅に浮かんだ疑問に蓋をして、どういうわけか、三谷は男の背中に腕を回した。考えて出して結論というよりは咄嗟の行動である。痩せてはいるが、広い背中であった。
呼吸を落ち着かせようとぎこちない手つきでさすってやる。摩擦で、ほんの僅かにでも熱が生まれればいい。男は服だけでなく身体の芯から冷え切っているのだろう。こちらまで凍り付いてしまいそうで、自分に残るわずかな熱さえもを移すように掌を当て続けた。
いつの間にか、震えは治まっていた。
相手の体温が上がったのか三谷が同じだけ冷えたのかはわからないが、先ほどよりも耳に当たる吐息は穏やかな温度をしている。自身の身体に取り込むようにと強く抱いていた腕の力も、幾分か和らいでいるように感じた。
もう大丈夫なのかと思いさすっていた手を止めると、もっととねだるかのように、三谷の頬に顔を擦りつけてくる。男の長い前髪が顔に触れてくすぐったい。それはまるで、甘えたなくせに甘えるのが下手な猫のようで、現実の光景との差に眩暈がした。
彼の身体に染みついた香りには、覚えがあった。
ホテルのように丁寧なベッドメイキングがされた日、決まってシーツから漂ってきた香りと同じなのだ。柑橘系となにかのハーブが混ざった匂いと同じものが、自身の身体を押し倒している男からもしている。
偶然だろうか──まさか。
自分を助けていた男が、今、助けを求めている。
わからないことだらけの中で、それだけは確かであった。与えられた熱を返すようにと強く抱きしめる。一瞬、男は身体を大きく揺らしたが、咎められることはなかった。三谷の首筋に顔を埋めながら、ゆっくりと呼吸しているのがわかる。ようやく落ち着いたのだろ。それでも、回された腕がほどけることはなかった。
先ほどよりかはましになったとはいえ、隙間風の入り込む玄関にいては冷える一方だろう。早く中に入った方がいい。
立ち上がるために声をかけようとして、いまだに彼の名も知らないことに気が付いた。「……あんた、名前は?」
彼は動かない。大きな背丈を必死に隠そうとするように、脚を曲げて小さくなっている。
こちらの頬に頭を押し付けてくる様はあまりに必至で、答えたくないのだということが言外に伝わってきた。だからといって呼ぶ名がないのでは不便だろう。
少し癖毛な黒い髪に指を入れる。頭の丸さを確かめるように撫でると、彼の力が抜けていくのがわかった。
「大丈夫だから。絶対に……大丈夫だから」
正直、彼がなにに怯えているのかはわからない。それを察するには知らなすぎるからだ。何を思って三谷を助け、なにを恐れて今ここにいるのか。
知ったところで望んだ答えが返ってくるとも限らないし、本当に彼のためになるのかもわからない。
だからこそ、知りたいと思ったのだ。
──おまえが大丈夫ならな、それがいいんだよ。
彼を知ったときにようやく、あの言葉の正しい意味が理解できるような気がした。
終わり。




