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壊れかけのエアコンでは真冬の空気を温めることはできず、かじかむ指先を擦り合わせながら湯が沸くのを待っている。カーテンから覗く外の景色は白く染まっておりベランダの柵の上にまでこんもりと雪が積もっていた。
どうりで冷えるはずだ。除雪車が仕事をしてくれているはずだが、それでも早めに出た方がいいだろう。
もう少しすれば湯沸かしポットが真っ白な湯気を吐き出し始める。それを待っている間に、寝巻きにしているTシャツの上から厚手のパーカーを着る。パーカーの裾に昨夜の味噌汁が染み込んでいたが気にしなかった。
歯を磨き終わるのと同時に、電気ポットがかちりと音を立てるのを聞いた。湯が沸いた合図である。熱くなっているポットを持ちマグカップに向かって傾ける。百円均一を謳う雑貨屋で購入した白いカップは縁が欠け、そこから一筋の線が底の方まで走っていた。湯が漏れてくることはないが買い替えどきなのかもしれない。
雑に注いでいるせいでシンクの上に小さな水溜まりができていく。
湯気に触れるだけで火傷してしまいそうな温度であるが、それだけでは部屋は暖まらなかった。吐き出した息も、まだ僅かに白いままだ。
インスタントコーヒーの粉末はすぐに溶け出し、真っ黒な液体が陰鬱なばかりの顔を映し出す。コーヒーの中では見えないだけでひどい隈は消えていないはずだ。水面が揺れるたびに、反射している顔が一緒になって歪んだ。真っ黒な自分の口角が上がったように見えたが、実際にはぴくりとも動いていない。
淹れたばかりのコーヒーは熱を持ち過ぎている。そのくせに冷え切った室内に置いておけばすぐに冷めてしまうのだろう。
すでに柯衣は、丁度良い塩梅が長く続かないことを知っていた。
停留所に滑り込んできた都営バスは平日の昼間であるせいか、特段混んでいる様子もない。乗り込むのも、柯衣の他には腰の曲がった老人一人であった。
ステップを上がったところから二番目の座席が空いているのは、外から見て確認していた。特段座りたいわけではないのだが乗り降りする乗客を避ける方が面倒なのだ。
前のシートとの狭い隙間に脚を詰め込む。バスはすでに発車している。目を瞑り不規則な揺れに身を任せていると、三つ先のバス停で大勢が乗り込んできた。主要駅の前であるのだから仕方がないが、人口密度が増えるにつれ明確に酸素濃度は下がっていき、息苦しさで眩暈がする。汗と香水が混じっていてひどい臭いだ。騒ぐ子どもを叱りつける声が鼓膜をいじめてくる。
聞こえてくる声の全部が、おまえならいいのに。
不毛な願いがエンジン音で掻き消されていく。余計なことを考えないようにと、フードを深く被った。
車内では人の分だけ熱気が立ち込めており、耐えきれず額を窓に付けた。外気との温度差に結露しているせいで顔が濡れるが、その冷たさが今だけは心地良かった。暑くても寒くてもつらくて、だからといって、ちょうど良い気温になった程度でこの身を蝕む不快感が消えるとは思えなかった。
柯衣が唯一穏やかに呼吸ができるのは、ただ、三谷の傍にいるときだけなのだから。
理性とは裏腹に近づきつつある悪夢に気づいていないふりをして、柯衣はバスを降りた。
空は灰色で、凍り付いた街に今にも雪がちらつきそうだ。遠くの山はすでに白く染まっている。身体を錆びつかせる冬の寒さに晒されながら、足早に三谷のアパートを目指した。
三谷のもとへと通い始め、すでに半年もの時が経った。
夏の熱さを忘れた街並みはすっかり色褪せており、アスファルトの上で踏みつぶされた枯れ葉も冷たい風に消えていく。
洗剤はまだ残っていただろうか、ティッシュも補充しておいた方がいいだろう。そんなことを考えながら街路樹の影に隠れるように歩いていく。
依然として、紙袋に詰め込んだタッパーの中には手の込んだ料理はない。格安スーパーで買い揃えられる食材で、素人の作った域を出ないものばかりだ。今どきネットの中には誰でも簡単に作れますと謳ったレシピが山のようにあるのだろうが、柯衣はそれらに手を出すつもりはなかった。
半年前からずっと、学生時代に彼が「美味しい」と言った料理だけを作り続けているのだ。
彼に再び美味しいと言って欲しいから──ではない。
ただ柯衣には、あの何の変哲もない料理のどこを三谷が気に入っていたのかが、ついぞわからなかったのだ。どうしてあんなに嬉しそうに、美味しいと何度も紡げたのだろう。
柯衣の手料理の大半が、醤油、砂糖、みりん、酒で味付けされたどこにでもある和食でしかない。特別なものなど、食材や調理法のどこをとってもなかった。ましてや、肝心の作り手が自分なのだ。調理師免許があるわけでも特別に肥えた舌をもつわけでもない。
バリエーションを加えるためにと洋食のレシピを見たこともあるが、結局のところ今の今まで作ったことはなかった。和食が好きな彼に、流行りの料理や洋食は食べてもらえないのではないだろうか。こういった考えが頭を過るからだ。
和食以外を嫌った祖父の影響が消えない限り、柯衣は延々と同じものを作り続けるのだろう。
最近になってようやく、三谷はきちんと食事も摂り、通院以外でも外に出ることができるようになったのだ。定期的に職業安定所にも通っている。彼に僅かながら戻ってきた平穏を、些細なことで乱していいはずもなかった。
「あ、ごめんなさい!」
紙袋を持ち直した拍子に、向かいから歩いてきた女性に肩が触れる。
咄嗟に謝罪の言葉を口にした彼女とは違い、柯衣は、ほんの僅かに頭を下げただけだ。謝れないのではなく、ずいぶんと長い間喋っていないせいで声が出にくくなっているのだ。今みたいに瞬発的に言葉を出せない。いや、それはここ最近に限った話ではないだろう。ずっと昔からそうだったはずだ。
「ママあのね、人にぶつかったら、だめなんだよ?」
女性に隠れて見えなかったが、幼い子どもを連れているようであった。
今よりもっと小さいときから大人に言われてきた台詞を、ここぞとばかりに真似しているのだろう。だめだよと言いながら母親ばかりを見ているせいで、電柱にぶつかりそうになっている。女性は髪が白くなり始めており、随分と年が離れているように見えるが親子のようだ。母親は当然のように繋いだ手を引いて、我が子が痛い目に遭わないようにと守っていた。
微笑ましい光景、なのだと思う。子どもに注意された母親は、「そうだね、気をつけないとね」と柔らかな声で答えていた。
だから、すぐには気づかなかったのだ。
「母さん」
声になりそこなった空気が喉から漏れる。
唇も動いておらず、誰にも聞こえなかった。だから、母親と子どもの二人はこちらを振り向くことなく遠ざかっていく。後ろから近づく自転車に気づいて振り返った横顔には見覚えがあるはずなのに、柯衣が知るものと同じであるとは思えないほどに穏やかであった。
不機嫌そうに眉間に刻まれた皺もなく、化粧気のない乾燥した肌でもない。声には暖かみがあり目に見えない愛情がたっぷりと含まれている。それでも、紛うことなき母親であった。
いつ出所したのだろう。
あの子どもは実子なのだろうか。再婚し、新たな家族を得たということなのか。
考えるよりも先に湧き上がってくる様々な疑問を、止める術はなかった。頭の中で洪水が起きているようだ。渦巻く波が身体の外に押し出されそうで眩暈がする。ここ最近は調子が良いように感じていたのだが、それもすべて、ただの演出にすぎなかったのだろう。今この瞬間、柯衣を二度と陽の当たらない墓穴へ突き落とすための。棺に被せられた黒い土の上には花も咲かないに違いない。
できるはずがなかった。
あの女が子どもを育てるなんて、人が酸素無しに生きられないように無理なのだ。彼女にとって子供とは、顔の真ん中にできた吹出物のような存在であり、痛みと不快感を与えてくるものでしかないはずなのだ。潰すこともできず、ただいなくなるのを待つしかない。
彼女がそう感じていることは、柯衣の人生をもって、証明されたはずではないか。
信号が青に変わったばかりの横断歩道を、子どもが手を挙げながら渡るのが見えた。次第に車の陰に隠れて見えなくなってしまう。飲食店の多いこの通りには昼食にありつこうとする社会人が多く行き交っていたが、広い歩道の隅で立ち止まる柯衣を不審そうに見る者はいない。みながそれぞれの事情で忙しいのだ。
何年も前に割ってしまったコップの破片が、ある日なんの前触れもなく足の裏に突き刺さるように、時を経て鋭さを増した過去の記憶が柯衣の心を傷つける。深々と突き刺さった絶望は心を貫通し、きっともう、どんな手を使っても抜けることはないのだろう。
歩みを進めるごとに破片は深くへと入り込む。やがて膿んだ傷口からは不快な臭いが発せられるのだ。この傷を癒やす薬や消毒液は存在しない。なぜなら、すでに治療すべき時機は逸してしまっているのだから。
汚物に塗れた祖父と床に落ちて黴の生えた料理、テーブルに置かれた母親代わりの紙幣。乾いた眼球で恨みつらみを伝えてくる祖父と、やつれた表情で見下ろしてくる母。それだけが、柯衣の人生であった。すでに別の場所に住んでいるというのに、いまだにあのアパートの一室から出られないのだ。
過去を変える技術が発展しない限り、どれほど分厚く瘡蓋を重ねようとも完治することのない痛みを抱えている。大事なものでもないくせに、両腕いっぱいで抱えてしまっているのだ。
平日の昼間に往来で立ち止まってしまった柯衣は、姿の見えなくなった母親をずっとみつめていた。
何かを求めて彷徨っているうちに、いつの間にかマンションに帰っていたようで──いや、違う。柯衣の住まうマンションは内階段で、今上っている階段からは、道を挟んだ先にすでに見慣れた駐車場が見えていた。少し遠くで一台の車が走り去る様子も見える。
錆びた階段が短い悲鳴を上げた。
朦朧とした意識の中では自身がどこにいるのかもわからない。それでも身体が動くのだから、まるで生ける屍のようではないか。本当にそう思うのだから、笑うこともできなかった。
ゆらりゆらりと上体を揺らしながら扉の前に立つ。視界は揺れているが、眼球は固定されたようにただ前だけをみつめている。この扉も柯衣の家のものではない。ドアノブの冷たさで皮膚が張り付いたような気がしたが、構わなかった。
回すだけで開くドアの隙間から、少し埃っぽい空気が流れ出す。




