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浮上  作者: クイント
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 母親について思うことはあまりなかった。

 ほとんど家におらず、たまに帰ってきても財布から数枚の紙幣を置くだけで会話らしい会話もなかったからだ。陰気に沈んだ掠れた声をしていた。その声で、何を言われたかはあまり覚えていない。祖父のように罵倒されることや手を上げてくることもなかったが、愛されることもない。柯衣の小さな世界の中で、それは当然のことであった。

 柯衣を産んだせいで家計は圧迫されてしまい、両親の中は次第に悪くなっていったそうだ。記憶にもない幼い頃の話である。やがて父親は帰らなくなった。常に機嫌の悪い妻と、要介護認定を受けている義父の相手をすることに嫌気が差したのだということは想像に難くない。生きているのかどうかもわからないが、知りたいとも思えなかった。

 はっきりとしているのは、母は自分を捨てた夫と役に立たない子供に苛まれ、幸せな人生のレールから外れたのだということだ。

 柯衣が母を憎むことはなかったが、母が柯衣の死を望んでいることは知っていた。毎日のように祖父から聞かされていたからだ。

 おまえのせいで、おまえが産まれたから、おまえが生きているから。

 自分の名前よりも聞き慣れた言葉だ。

 母も祖父も仲は悪かったが、どちらとも柯衣を望んでいないことは明白であった。とうの昔に感情は麻痺して何も感じていないはずなのに、しかし本人すら気が付かないうちに言葉が呪いとなって無防備な心に沁み込んでいく。親に望まれていない人生、常に否定が隣に居座っている。自分ですら、己の人生を望むことなどできなかった。

 もっと幼い頃は、母からの愛情を求めていたのだろうか。

 今となってはそれすらわからない。

 柯衣は当然のように、祖父の言葉通りに自分が無価値な存在であるのだと信じるようになっていった。

 それが異常であると知ったのはいつだろうか。

 はっきりとしたきっかけがあったわけではない。家を出て親戚の世話になり、元のアパートで一人で暮らすようになった頃、少しずつ自身を取り巻く環境の異常性に気づいたように思う。寝返りもうてなかった幼子が二足歩行をし始めるように、少しずつ。

 最初に違和感を抱いたときのことを覚えている。

 意味もなく流していたテレビドラマの主人公が、不自然なほど常に明るく振る舞い、かと思えば涙ながらに感情を吐露し始める。その様子を見て責める者はただの一人もおらず、家族や友人はみな彼の理解者であったのだ。

 主人公が失敗をするたびに励まし支える恋人、連絡もせず帰省したときには文句を言いつつも歓迎する両親。それらの設定が当然のことのように描かれているという現実味のない設定に、思わず鼻白んだ。理想ばかりを描くドラマは胡散臭いばかりで、逆に現実が浮き彫りになってくる。クライマックスも間近であったが見ていられなくてテレビの電源を落とした。

 そして後日、そのドラマが世間で酷評を受けていることを知った。

 主人公の設定が「ありきたりすぎてつまらない」と。

 道徳の授業でやっていた「思いやり」や「助け合い」の精神は今でもわからない。実際に触れてこなかったせいで、教科書に連ねられている文字の羅列を見るだけでは理解ができないのだ。知識を得ることと理解することとでは、誰かがとった満点の答案用紙をただ眺めるのと、自身で満点を叩き出すことくらいに差があった。

 人生には正解がないと誰かが言っていた。

 なのに、誰もがあるはずもない正解を探すために躍起になっている。そしてその行為こそが正しいとされているらしい。

 柯衣は暴力は振るわないし物を盗むこともしない。ここで働いているのは倫理観ではなく、面倒ごとへの忌避感だけであった。

 仮に、人生に正答が存在するとしたら今の自分はいったい何点なのだろう。赤点であるのなら、平均点を取れるまで補習が行われるのだろうか。きっと、そんなものは存在しない。

 だけど、ほとんどの人間が満点なんて取れていないはずだ。

 あの祖父でさえ身内以外に暴力を振るうことはなかったが、それはもちろん、倫理観や罪悪感が枷となっているわけではない。他人への暴力行為はすぐさま警察沙汰になる。無闇に憎悪を買えばこちらに不利益がもたらされる可能性が生じるからだ。ただ、それだけのことなのだ。

 みなが恐れているのは人を傷つける行為そのものではなく、自由が失われてしまうことに違いなかった。少なくとも柯衣はそう信じている。


 三谷はきっと、卒業すれば俺を忘れるだろう。それで構わない。彼の人生に俺がいる必要などないのだから。

 自分のせいで光が陰ることが、なによりもあってはならないからだ。なのにどういうわけか、俺が生きていくには彼が必要不可欠らしい。今までは何も感じていなかったというのに三谷と関わるようになってから、次第に彼と話していない時間を苦痛に思うようになっていったのだ。気付いたときにはそうなってしまっていたのだから、もうどうしようもなかった。

 弁当をやらなければ良かったのだろうか、それとも、最初に話しかけられた時点で立ち去っていれば良かったのだろうか。

 今となってはどうとでも言えることで、結局のところ、僕は彼に触れてしまったのだ。

 体育館前にある水場で友人とはしゃぐ彼を、誰もいない静かな教室から見下ろしている。

 上向きの蛇口から放水された水道水が弧を描き、空中に小さな虹を描く。同時に歓声が上がった。会話の内容までは聞こえないが、楽しげに笑う声が心地良い風とともに窓から流れ込んでくる。するはずもないのに柑橘の香りが鼻口をくすぐっているような気さえした。

 自分といるときにも笑っていたはずなのに、友人と遊ぶときの笑顔の方が何倍も輝いて見えるのはなぜだろう。隣の芝生は青い、ということなのだろうか。それだけでは説明がつかないほどに、陽光を反射して何色もの光を放つ虹より、ずっとずっと眩いのだ。直視し続けていれば目は焼かれ、やがて視力は失われてしまうのかもしれない。

 それでも構わないから。

 せめてこれ以上彼を求めてしまわないように、自身の翳りで痛いほどの鮮やかさを消してしまわないように、どうか思い出だけで生きていけるように。今、あの笑顔を焼き付けよう。



 柯衣にとって、三谷と出会った高校時代がもっとも幸せな瞬間であることは疑いようがなかった。

 湿った地面に二人だけの靴跡を残し、苔の生えたベンチに並んで弁当を開く。聞こえてくるのは心地良い彼の言葉と風に揺られてぶつかり合う木の葉のざわめきだけ。そんなはずもないのに、世界でただ二人しか存在しないような錯覚に陥ることもしばしばあった。まさに夢心地な時間だったのだ。

 季節が移って外で過ごすことが困難になっても、彼は会いに来てくれた。それだけで体温が上がったことを覚えている。あの、全身の血管が一気に開いて血が巡り始める感覚は忘れようもない。上着も羽織っていない柯衣に少し呆れたように笑いながら、風邪をひくからと連れていかれたのは普段は使われていない教室で、そこでもやはり二人きりだった。

 この時間を誰にも邪魔されたくない。

 彼もそう思ってくれているのなら。

 そんな、都合の良い妄想で頭の中がいっぱいになった。

 

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