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浮上
工場内には黒い煙と、その隙間を縫うようにして灰が舞っている。
この空間に鮮やかさなどはどこにもない。視界は完全に塞がれ、数分前までは感じていた焦げ臭さもすでに感じなくなっていた。
酸素が足りていないのだろう、微かに聞こえるサイレンさえ重くぼんやりとした頭では、現実なのか幻聴なのかの区別がつけられない。このままでは意識を保っていられない。けれども息を吸うたびに入ってくるのは新鮮な空気ではなく、灰にまみれた煙なのだ。眼球にまで灰がへばりつくような感覚に瞼を閉じそうになり、思いとどまった。
今目を閉じてしまえば、それを合図に意識を失ってしまいそうだからだ。
胸を締め付けられるかのような痛みに耐えきれずに胃液を吐き出した。そのまま激しく咽せこめば、足の力が抜けてバランスを崩してしまう。
反射的に伸ばした先がベルトコンベアのベルト部分でありぞっとするが、みなが避難するときに電源は落とされていたようで、ほっと胸を撫で下ろした。
破裂した電球が降り注ぎ、火の粉が舞う。全身から滴る汗も即座に乾くほどの熱風が渦巻いている。それらが逃げ遅れていまだ炎の中に居座る者たちの肌を焼いた。一呼吸するごとに肺が悲鳴をあげるせいでますます酸素が足りなくなる。酷い耳鳴りの中では自分が声を発せているのかもわからないが、それでも、三谷 翔は叫ぶことをやめずにいた。
「──さん、村田さん、しっかりしてください!」
勤務中の工場内で爆発が起き、なにが起きたのかを把握するより早くに天井が崩れた。爆風が収まるより早く従業員は悲鳴とも怒号ともとれない声を上げる。
それでも、パニックに陥ったせいで逃げ遅れる者がいた、という事態にはならなかった。数日前に、地震を想定した避難訓練が行われたからだ。地震ではないものの避難の手順は記憶に新しく、ほとんどの者が比較的スムーズに逃げられたはずだ。
すでに工場内ではあちらこちらで炎が威力を強めており、安全な場所などない。
それでも三谷は逃げ出せずにいた。パニックになったわけでも出口が塞がれてしまったわけでもない。目の前で、自分に助けを求める同僚がいるからだ。
崩れた天井の一部が、休憩から戻ったばかりの村田 慎吾を目掛けて落ちたのだ。
彼は地面と瓦礫の隙間に下半身を挟まれており、煙の匂いでも掻き消せないほどに鉄臭さが漂っている。嗅ぎなれた金属片のものではない。人体から流れる、血液の匂いだ。瓦礫に埋もれて見えはしないが、目も当てられない惨状であるには違いなかった。
「み、たに……しが……脚が、動……ね」
離れたところで小さな爆発が繰り返され、彼の声をかき消していく。血に塗れた助けの声をなにかが壊れる音が上書きしていくのだ。人一人の命の価値を現実が否定してくる。
その無情さから目を背けたくても、僅かにでも視線を外せば村田の命は消えてしまいそうで、文字通り必死に足掻く同僚の姿を目に焼き付けるほかなかった。
還暦間近である村田は、しかし年齢を感じさせないほどに精力的な男であるのだ。
白髪混じりの髪は重力に抗うように立っており、同じく灰色の太い眉は彼の持つ意志の強さを提言している。骨張った指の先の爪は常に深爪で、それも精密機器を扱う工場なのだから爪のかけら一つでも落とすわけにはいかない、という理由からだそうだ。だが作業中は常に手袋を嵌めるのだから、どれだけの意味があるかはわからない。
しかしその適当さというか、愚直さというかが実に村田らしいのだ。
稼働中の機械より大きな声でどうでもいい話をしながらも、太く短い指で精密な動作をこなす姿は、憧れとまではいかないものの心地の良いものである。流れ作業で毎日同じことをこなす日々の中、誰よりも楽しそうに働いている村田の姿に活気付けられていたことは間違いない。それは三谷だけでなく、従業員の誰もがそう感じているはずだ。
そんな彼が、血に塗れた腕を弱々しく震えさせながら、こちらに伸ばしている。
丈夫な作業着も薄い紙のように裂けており、肌の色がわからないほど赤く染まっていた。下半身を押さえ付ける瓦礫を退かそうとした際に爪もはがれてしまったのだろう。指先から滴り落ちる雫が、彼の生命が終わるまでのカウントダウンをしているようで見ていられなかった。「たす、たすけ……く、れ」
「今、今助けますから。消防車もすぐに来ます、もう少しの辛抱ですよ!」
意識を保っているのも精一杯なのだろう。僅かに首が動いたが、こちらの言葉に頷いたのか、ただ呼吸をしただけなのかもわからない。「誰か、誰か来てくれ! このままだと村田さんが──」
肺がじりじりと炙られる痛みなど気にしている場合ではなかった。今目の前で、一人の人間の命が消えそうになっているのだから。会ったばかりの他人ではない。五年間、毎日のように顔を合わせていた同寮なのだ。
とてもではないが彼を置いて逃げることなどできなかった。
「お、おい三谷か? なにしてんだ、さっさと逃げろ!」
都合の良い幻聴かとも思ったが、声の主は煙を手で払いながら三谷の前に現れた。工場長の佐々木だ。逃げ遅れた従業員がいることに気づいて戻ったのだろう、白くなり始めていた頭に灰が被さり、さらに白く染まっていた。「村田さんが、村田さんが挟まれて」
「嘘だろ、おい、おい村田さん」佐々木は熱せられた地面に両膝を付き、天井の破片を両手で掴んだ。突出した釘が刺さったようで手を引っ込めたが、またすぐに掴み直す。三谷もそれに倣い、全身の力を込めて押し上げようとし──できなかった。
石膏や金属の入り混じったそれは、大の大人が二人がかりで力を込めても微動しただけで、その下で呻き声を上げる男を救い出すことはできなかった。すでに全員が、一酸化炭素や炎に体力を削られていたのだろう。「頼む、たの…たす、たすけ……」
その声は、とても小さなものであった。火の粉のはじける音にすら掻き消されそうなほどにか細い声であった。普段の彼であれば信じられないほどに頼りなく、命を振り絞るような悲鳴であった。数分前にも聞いた張りのある笑い声が恋しくてしかたがない。
──仕事中なのにうるさいですよ、集中してくださいって。
そう言える日常は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
黒い煙の中では到底みつけられそうもなかった。
「大丈夫ですって、絶対、絶対たすけ──」
佐々木が、三谷の左肩をぐっと掴む。
爪が食い込むのではないかと感じるほどの力強さにはっとして顔を向ければ、彼は汗なのか涙なのかもわからない液体で顔中を濡らしていた。太い眉はひしゃげ、下唇を血が出るほどきつく嚙み締めているのだ。釘で切った掌から滲む血が、三谷の作業着を汚す。
ぎょろりと大きな目がいつも以上に見開かれており、その顔を見て、彼の言いたいことがわかってしまった。「だ、だ、だめっすよ、そんなの」「三谷」「だって、だってまだ、生きて──」
「三谷!」大きく呼ばれ、びくりと身体が揺れた。「もう、間に合わねえよ」
佐々木の声はとても小さかったが、自身の荒い息や瓦礫の崩れる音の中でも聞き取ることができたのは、三谷の想像通りの言葉であったからだ。
まだ息のある村田に聞かせてはならない。彼は動きを止めた三谷たちを視線だけで仰ぎ、変わらずに掠れた声で助けを求めているのだから。
わかっている、わかってはいるのだ。たとえ天井を退かすことができても、怪我をしている村田を背負って逃げ出せる可能性がどれだけあるのか。また爆発が起きるかもしれず、一度目に命があったのは運が良かったからで、次は全員が即死してもおかしくないだろうということは。
それでも、間に合わないから助けないという選択をとる勇気が、三谷にはなかった。自身の命を賭して助けるより、見捨てる方が勇気を必要とするなんて思わなかったのだ。
これはハッピーエンドを目指すゲームでも、マルとバツで答えるクイズでもない。選択次第で全員が助かるなんて救済措置は存在せず、答え合わせをしようにもはなから正解がないのだ。
見慣れたプラスチックの容器が溶けいく様が視界に入る。
これはただ、村田 慎吾を見殺しにしなくてはならないだけの現実であった。
「村田さん」佐々木はしゃがみこみ、顔を村田に近づけた。もうこちらの声があまり届いていないことは明確であるからだ。「俺たちが、助けを呼んできます。絶対にすぐ戻ってきますんで、それまで、それまで、なんとか持ち堪えてくださいよ」
その言葉は届いたようで、彼はゆっくりと瞬きをして応えた。
耳元で、佐々木が急かすようなの声がした気もするが、わからなかった。はっきりとしていたことは、ごうごうと燃える火の鮮やかさや吸い込んだ空気の熱さ、そして、村田 慎吾を助けられないという事実だけであった。
真っ赤に染まった指先がこちらに向けられたとき、三谷は背を向けて走り出していた。




