【神楽坂の章】トラウマ 02
鉛色の雨雲が空を覆い、いつ止むとも知れぬ雨がしとしとと降り続ける朝。
「おはようございます」
職員室に入った神楽坂先生は、いつもどおり元気よく挨拶をしたが、教員たちは机に顔をふせたまま、誰も挨拶を返さなかった。
降り続ける雨の音だけが、じっとりと湿った空気とともに、薄暗い職員室に漂っている。
よく見れば、昨日まで行なわれていた中間テストの採点作業をしているようだった。
神楽坂先生は、ほかの先生方の邪魔にならないよう静かに自分の席へ行くと、となりの席に座っている富田恵子先生に、こっそり声をかけた。
神楽坂先生より七年先輩の、一年三組の担任をしている社会科の教師。
「富田先生、これ三組の英語のテストの結果です。すごいですよ、満点が五人もいて……」
昨日のうちに採点作業を済ませていた神楽坂先生は、カバンから一年三組の英語の成績一覧表を取り出し、富田先生に渡した。
しかし、富田先生は目も合わさずにだまって成績表を受け取ると、なにごともなかったように中間テストの採点のつづきをした。
心臓が、どくんと波打つ。
いつもなら『ゆとり世代っていつもそう? おめでたいわねぇ……』なんて茶化しながらも、ことあるごとに笑顔でアドバイスをくれる富田先生の頼もしい背中が、今日は、まるで別人の背中に見えた。
とっさに顔を上げて、薄暗い職員室を見渡す。
いつもと変わらないはずの職員室の風景が、一瞬、思い出したくもないほど、暗く憂鬱だった学生時代の教室の風景と重なった。
神楽坂先生の顔から血の気が引く。
どくどくと心臓が波打っているのに、めまいがして倒れそうになる。
呼吸をするのも苦しくなり、先生は首筋に流れ落ちる汗を拭きながら、ゆっくりと椅子に腰を掛けた、そのとき。
「先生、先生……。神楽坂先生!」
頭の上で弾けた怒鳴り声に、神楽坂先生はあわてて振り返った。
鬼瓦のような表情で、稲田先生が見下ろしている。
「なんですか、朝からぼうっとして。まだ寝ぼけているんですか?」
稲田先生は眉間に深いしわを刻んだまま、ジャージのポケットから一枚の紙を取り出した。
「以前、あなたのクラスの高城が、職員室にこんなものを持ってきましてね。了解したんですか?」
稲田先生が差し出したのは、同好会設立の申請書だった。先生はふらつきながらも急いで席を立つと、その申請書を受け取った。
顧問の欄に神楽坂先生のサインがある。
「ええと、はい……」
身に覚えはなかったが、高城のためを思って、そう返事をした。
「まだ採点途中だというのに、ひどい点数の生徒がいると複数の先生方から報告を受けました。どこかで見た名前だと思い返してみたら、以前、この申請書を持ってきた高城という生徒だ。同一人物だと知ったら、いまさらながら無性に腹が立ちましてね。だってそうでしょう? ろくに勉強もしてないくせにお笑い同好会なんて……。どうせこのサインも、本当はあなたが書いたんじゃないんでしょう?」
めずらしく声を荒げて感情をあらわにする稲田先生の姿に、神楽坂先生はすっかり恐縮して肩をすぼめるばかりだった。
「見なさい、この誤字脱字。おまけに部員も署名もろくに集めちゃいない……。学校というものを、舐めきっているんですよ」
神楽坂先生は深々と頭をさげた。生徒との関係ばかりに気をとられて、肝心の学業や生活態度の指導がおろそかになっていたことを痛感したのだ。
「お手数をおかけしてすみません。すぐに書類の不備を正して、再提出を……」
「余計なことは、しないで結構!」
稲田先生はぴしゃりと告げると、神楽坂先生の手から申請書を奪い取って、目の前でびりびりと破り捨てた。
「この件は、わたしの裁量で不許可です! 理由は本人の生活態度! およびその悪影響がほかの生徒にまで伝染し、学校全体の風紀が乱れるからです!
あなたのクラスを見ればわかるでしょう。あれが勉学を勤しむ環境ですか? ほかの先生方も迷惑されているんですよ!」
神楽坂先生は顔を上げて、職員室を見渡した。
さっきまで机に顔をふせていた教員たちが、みな冷淡な目つきを神楽坂先生に向けている。
学生時代の教室の風景が、再び神楽坂先生の脳裏によみがえり、心臓が、またどくんと波打った。




