【神楽坂の章】トラウマ 01
真夏のように暑かった日々から一転、霧雨が降り続ける梅雨の日々へと変わる頃。
急激な温度変化についていけずに体調を崩す生徒が、神楽坂先生のクラスにもぽつぽつと出始めていた。
「どうしたの? 高城くん、風邪引いた?」
英語の授業中、教科書を読み上げながら教室を歩いていた神楽坂先生は、いつも無駄に元気がいい高城までもが、苦しそうに咳をしているのに気が付いた。
眉間にしわを寄せながら喉元を指差す高城。おもむろに制服のポケットをまさぐり、先生に手をつきだした。
高城の手のひらには、透明なセロハンでくるまれた真っ赤な飴玉が、三つ。
「いいよ。喉が痛いなら舐めなさい」
そう言って、教壇に戻ろうとした神楽坂先生を、高城があわてて引き止める。
「先生も舐めてください。先生の喉がだめになると、ぼくたちがこまるんです」
いつも元気で小生意気に絡んでくる高城の、妙にしおらしい態度がかわいくて、先生は遠慮するのも無粋だと思い飴玉をひとつもらった。
「ありがと」
そのままカーディガンのポケットにしまおうとした先生の腕を、高城がむんずとつかむ。
「せんぜぇ、いま舐めてぐだざい。もう感染じでいるかもじれない!」
わざとらしいガラガラ声で訴える高城を、神楽坂先生はいぶかしそうに見つめた。
いくら天然の神楽坂先生とはいえ、あからさまな悪戯に引っかかるようでは、大人の女性として務まらない。
神楽坂先生が舐めるのを拒んでいると、仏像のような穏やかな表情で、塚田が追い討ちをかけてきた。
「先生、亮介の想いを汲んでやってください。こいつは、先生が苦しむ姿を見たくないんです」
(苦しむ姿を見たくないとか言って、舐めたほうがよっぽど苦しむくせに。塚田くん流の洒落なんでしょうけど……)
困惑する先生をよそに、男子生徒たちも次々に声を上げて、せき立てる。
「そうだよ、なめてやれよ! なめろっ! なめろっ!」
いつのまにか教室に湧きあがる、舐めろコール。
これ以上騒ぎが大きくなると、また、となりのクラスにまで迷惑を掛けてしまう。
先生は仕方なく、飴玉を口の中へ入れた。
「…………!」
悪戯にしては尋常じゃない飴玉の辛さに、先生は言葉を失った。
顔から汗が噴き出す。
もはや辛いというより痛い。舌も、喉も、口の中が隅々まで痛くなってきた。
「せんせぇ、そこは声を出して大きくリアクションしてくれないと~。じゃないと、うしろの人たち、何が起きたかわかりませんよ!」
大笑いしている高城の姿が、涙でかすんでよく見えない。
神楽坂先生は、しびれる口からなんとか飴玉を吐き出して、高城を怒鳴りつけた。
「もう、高城くん本当にやめて! 先生、辛いのが大の苦手なんだから!」
「先生、これはお笑いの罰ゲーム『ワサビ寿司ルーレット』と同じです。辛いのは三つのうちの一つだけだったんですよ。これ、どうぞ」
高城が差し出したペットボトルを受け取り、急いで口を洗い流す。
「…………!」
水だと思って飲んだそれは、驚くほど酸っぱいレモン水だった。
たまらず吹き出してしまった神楽坂先生。
あろうことか、霧のように吹き出されたそのレモン水が、高城の顔面にまともに直撃してしまった。
先生は恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にしながらも、びしょ濡れの高城をハンカチで拭くが、高城は濡れたことなど全く気にしていない様子で親指をつきだした。
「やるじゃないですか、先生! いまのはナイスリアクションです! みんな、リアクションの神が降臨されたぞ!」
高城の言葉に呼応して、やんややんやと喝采をあげる男子生徒たち。
女子生徒たちは、そんなクラスの光景を、冷めた視線で見つめていた。
「ばかじゃん、あいつ。先生が吹き出した水浴びて喜ぶような変態、やめときなよ」
珠木が体を乗り出して、ななめ後ろの席に座っている佐倉に耳打ちする。
佐倉はだまって、下を向いているだけだった。
「先生、ちょっと!」
授業が終わるや否や、教室を出た神楽坂先生を呼び止めたのは珠木早苗だった。
鋭い視線を向けながら、地響きが聞こえそうな足取りで先生に近づいてくる。
「いくらなんでも、男子たちとはしゃぎすぎじゃないですか? テストが近いってのに、授業中にあんなことされると、ウチらも引くんですけど」
山の瀬中学校は二学期制なので、梅雨入り後に前期の中間テストが控えているのだ。
「はしゃいでたんじゃなくて、ほんとに辛かったのよう。大変だったんだから」
「そんなこと言って、ほんとは男子にからかわれて、嬉しいんじゃないの?」
ふんっと鼻を鳴らして、教室に戻っていく珠木。
神楽坂先生は廊下を歩きながら、珠木に言われた言葉を思い返した。
(自分が思い描いていた以上に、生徒たちと仲良くなれたのは嬉しかったけれど、わたし、珠木さんの言うように、ちょっと浮かれすぎているのかしら……)
学生時代から人付き合いが苦手だった先生が、初めて受け持つクラスで一番不安だったのは、生徒との関係がうまくいくかだった。
『大事なところでは一線を引いて上から指導しないと、これから大変なことになっていきますよ』
稲田先生の忠告が、頭のなかによみがえる。
朝から降り続いている雨のせいだろうか。ついこのあいだまでパステルカラーに包まれていた校内の風景が、今日はモノトーンに暗く沈んで見えた。




