【神楽坂の章】それぞれの憂鬱 01(珠木・神楽坂)
窓の外に広がる緑が、すっかり深くなった頃。
芽吹いたばかりの新芽のように初々しかった一年生たちも、新しい生活にすっかり慣れたせいか、ふてぶてしいまでの態度で我が世の春を謳歌していた。
とくに神楽坂先生が担当している一年二組は元気がよかった。
元気がよすぎるクラスというのは、なぜか教師たちからは疎まれるもので、一年二組では授業がやりづらいと、職員室ではよくささやかれるほどだった。
が、そんなささやくような愚痴が、天然キャラで売り出し中の神楽坂先生の耳に届くはずもなく、ここにもひとり、我が世の春を謳歌する教師が、ハミングを奏でながら担当クラスに向かって職員室をあとにした。
「ださっ! なにその服。どこで買うたん?」
教室へ入るなり、高城が駆けよってきて、先生のカーディガンの袖をつまみあげた。
薄紫色の手編み風、くるみボタンのカーディガン。
このところ肌寒い日が続いたので、週末に買ったばかりのものだ。
「駅前の商店街だけど……。『ファッションセンター しもむら』で」
「あほか! ウチらの商店街にあるのは『ファッションの友 いまむら』!『しもむら』は電車乗らんと行けへんから!」
「そうなの? てっきり『しもむら』のチェーン店かと思ってた」
「あんなちっこくて、店のなか、ほとんど小豆色と薄紫色の店が、チェーン店のわけあるかい! 六十歳以上限定の店やで!」
いつも神楽坂先生にまとわりついてきて、一挙手一投足にツッコんでくる高城。
先生はとまどいながらも、高城とのやり取りが、結果として生徒たちの笑顔につながることに笑みがこぼれた。
「高城のやつ、カーディガンひとつでしつこくね?」
教室が笑い声に包まれるなか、そんなふたりの様子を遠巻きに見いていた珠木早苗は、苦笑しながら、佐倉の席に駆け寄ってささやいた。
「あいつ、もしかして好きなんじゃない? 神楽坂先生のこと」
冗談で言った珠木の言葉に、佐倉はまっすぐに高城を見つめたまま、真面目な顔でなにかこたえたが、その言葉は朝の予鈴にかき消され、珠木の耳には届かなかった。
みんなが自分の席へ着席していく。
珠木もあわてて自分の席に戻りながら、いま一度、佐倉の席を振り返る。
笑顔があふれる教室のなかで、ひとり寂し気にたたずんでいる佐倉の表情が、珠木の胸をずきりと痛めた。
*
「ああ、神楽坂先生、ちょっとこちらへ」
鼻歌まじりで職員室に戻った先生に、一年一組の担任、稲田大吾先生が声をかけた。
稲田先生は生徒指導を担当する体育の教師で、生徒からは『大魔神』と呼ばれ恐れられている。決して声を荒げたりしない落ち着きのある年配の教師だが、その据わった目で見つめられると、同じ教師の神楽坂先生でさえ、ヘビに睨まれたカエルのように体がこわばってしまう。
「あの、なにか……」
稲田先生は座った椅子をくるりと回転させて、かっぷくの良い体を神楽坂先生に向けた。
正面に立つ神楽坂先生の顔をゆっくりと見上げる姿はまるで、職員室に呼び出した生徒を説教しているようだ。
「あなたのクラスはまとまりがあるけど、ちょっと羽目を外しすぎる傾向があるね。さっき、となりでホームルームをしているときに聞こえてきたんだが、とくにあなたは生徒に舐められている節がある。仲良しこよしもいいけども、大事なところでは一線を引いて上から指導しないと、これから大変なことになっていきますよ」
生徒とは一定の距離を保ってつき合いなさい。
つまりはそう言いたいのだと、神楽坂先生は理解した。
先生の頭に、陰鬱とした学生時代の記憶がよみがえる。
(中学生のとき、わたしに対するいじめに気付かないふりをする教師を嫌というほど見てきた。
暗い底なし沼に沈んでいくみたいに、どこにも逃げ道を見いだせなかったわたしの手を力強く握りしめ、沼から救い出してくれたのは、当時の担任の『先生』、ひとりだけ。
わたしが目指す理想の教師像は、わたしと同じ目線になって悩みを聞いてくれた、あの『先生』。
わたしはいまでも、あのときの『先生』の笑顔と、手の温もりを覚えている)
神楽坂先生は深く息を吸い、胸を張ってこたえた。
「生徒と仲良くなるのは、悪いことじゃないと思います。わたしは、いくら教師と生徒だからといって、上から指導するのは、違うと思います!」
静かな職員室に、神楽坂先生の言葉がぴしゃりと響いた。
まわりにいた他の教師たちが、ぽかんと口を開けて、その様子を見つめている。
まさか言い返されると思っていなかった稲田先生は、目をしばたかせて神楽坂先生を見つめていた。
「……まあ、好きになさい。あとで泣きつくようなことがないようにね。何事も、始めが肝心なんだけどなあ……」
そう言うと、稲田先生はくるりと椅子を回して、神楽坂先生に背を向けた。
ほかの教師たちの刺すような視線を感じながら席へ戻った神楽坂先生は、自分の言葉を何度も頭の中で反芻しながら、胸をざわつかせていた。
(新米教師のくせに、いまの態度は生意気すぎたかな……。『先生』だったら、いまのわたしの言葉、どう思っただろう……)
「あっ、ファッションリーダーいまむらさんだ」
「おはようございます。いまむらさん」
職員室から出てきた神楽坂先生に、生徒たちが次々と笑顔で挨拶をしてくる。
「おはよう。今村って誰?」
先生は自分が今村と呼ばれていることが不思議だったが、廊下を歩いているだけで笑顔を向けて話しかけてくれる生徒の存在が、嬉しくて仕方がなかった。
(やっぱり生徒と仲が良いことは大切だ。生徒と距離があるから、悩みやいじめに気付かなかったり、気付かないふりをしても平気になってしまうんだもの。
わたしの考えは、きっと正しい。
『先生』だって、きっとそう思ってくれるはず……)
神楽坂先生は何度もそう自分に言い聞かせ、胸のざわつきを吹き飛ばそうとした。
そんな神楽坂先生の前に、ひとり女子生徒が立ちふさがった。
仁王立ちで、神楽坂先生を睨みつけている。
「先生、朝の件でバカにされてるんだよ。わかんないの?」
珠木早苗だ。後ろ手に、佐倉咲美を引き連れている。
「えっ、朝の件……?」
先生は口に手を当てて、しばらく焦点の定まらない視線をさまよわせていたが、やがてはっと驚いたような顔をしてつぶやいた。
「あっ、そういうことか」
「気が付くの遅すぎ! 高城が他のクラスの連中にまで言いふらしたんだよ。
先生、おめでたすぎるでしょ? いいように男子たちにおちょくられているのに、まったく怒らないでさ。咲美も黙ってないで、なんか言ってやってよ」
珠木は背中に隠れている佐倉の腕を引っぱって、先生の前に押しやった。
「わ、わたしは別に、そのカーディガン変じゃないと思うよ。やわらかそうな先生の雰囲気に合ってて……」
「そうじゃなくてっ!」
苛立つ珠木に、先生がやさしく微笑みかけた。
「わたしなら平気よ。以前のわたしなら、男の子に笑顔で話しかけられるなんて、まるで考えられなかったんだから……。高城くんがいろいろかまってくれたから、みんなと仲良くなれたんだもの。感謝しなきゃ」
しかし、神楽坂先生を見る珠木の眉間には、みるみる深いしわが刻まれていく。
「は? ばかにされて感謝って、意味わかんないし! 行こう、咲美。高城くんのおかげだってさぁ!」
呆然としている佐倉の腕を引っぱり、珠木が走り去っていく。
ふたりの背中を見送りながら、神楽坂先生は胸に渦巻くざわざわとした感覚が、さらに大きく広がっていくのを感じた。




