【終章】笑いの力
破裂したような大きな音に驚いて、校務員室にいた西尾は目を覚ました。
あわててワイシャツの袖をまくって腕時計をのぞく。
夜の九時十八分。
「寝ちまったのか。まさか、こんな時間から寝るだなんて」
部屋の明かりをつけようと、蛍光灯からぶら下がるひもを何度も引っぱったが、電気はつかなかった。
見渡せば、校務員室の窓の外のどこにも明かりは見えない。
「ブレーカーが落ちてるな。さっきの音はカミナリか。いや、あの音は……」
暗闇のなか、手探りで懐中電灯を探す。
留守番電話の着信を示すオレンジ色の光が、せわしなく点滅している。
テーブルの角にすねをぶつけ、半分以上も残った状態でのびきっている、神楽坂先生から差し入れしてもらった山菜そばを、畳の上にぶちまけた。
西尾はそれらを無視して、見つけた懐中電灯を手に部屋から飛び出した。
(いまは一刻も早く、あの音がした場所へ向かわなくてはならない)
異様な胸騒ぎを抱きつつ、サンダルの音を響かせて廊下を走った。
第一校舎を飛び出し、中庭を横切って第二校舎わきへと向かう。
あの破裂したような大きな音を、西尾は夏休みの夜にも何度か聞いたことがある。人の気配は感じるのに、現場についたときには、誰の姿もないのだ。
だが今日はちがった。
その場所に近づくにつれ、人の声が聞こえてくる。
大勢いるようだ。
西尾はすぐにでも警察に連絡できるよう、ポケットから取り出した携帯電話を手に握りしめながら、恐る恐るその場所へ近づいた。
鍵がかけられているはずの、開け放たれた鉄柵の門をくぐる。
頭上から聞こえる、大勢のざわめき。
その場所は高台の上にあるので、ここからだと人の声しか聞こえない。
足音を忍ばせて、コンクリの階段を一歩ずつ慎重に上がり、その場所をのぞき込む。
夜のプールサイド――。
月明かりに照らされたその場所に、大勢の人影があった。
見れば、プールの中にも人影がふたつ。
そのまわりを沢山の生徒たちが囲んでいる。
西尾はあわてて階段を駆け上り、生徒たちをかきわけてプールをのぞき込んだ。
胸まで水に浸かった人影は男子生徒と女子生徒。いや、女子生徒は大人だ。
「……先生? 神楽坂先生じゃないですか? なにをやっているんですか、こんな時間に、そんな格好で!」
そのとき、西尾は気が付いた。
ざわめきだと感じていたその声は、取り囲む生徒たちの笑い声だった。
西尾は、いまだ狂ったように笑い続けている生徒たちに詰め寄った。
「おい、おまえら説明しろ! 先生に何をしたんだ!」
「いいんです、西尾さん。これは授業です。課外授業」
よく見れば神楽坂先生も、こらえ切れないというようにお腹を抱えて笑っている。
西尾は事態が飲み込めないまま呆然と立ち尽くし、言葉も出なかった。
「ねぇ高城くん、びっくりした? 夏休みのあいだに綿密な計画を立てて、こっそりみんなに声をかけて協力してもらったの! まったく気が付かなかったでしょう?
ねえ聞いてる? 半年前は四月一日。エイプリルフール。世界的に有名なドッキリよ?」
子どものようにはしゃぎながら説明する神楽坂先生の話を、高城は遠い街の喧噪のように聞きながら、自分を取り囲むクラスメイトの姿をただ見つめていた。
「先生の演技凄いよ。俺、本当に怖かったもん」
殺されたはずの駒井が、先生をたたえている。
「わたしもわたしも! 金づち持って追いかけてくる先生を見たとき、マジ殺されるかと思った!」
血に染まった顔をほころばせながら、女子生徒たちも先生の演技を絶賛した。
「それより高城、佐倉にキスがどうとか言ってなかったか?」
「言ってた、言ってた! なんかあったんじゃないの~」
「おい、どうした高城! まだ状況がつかめてないんじゃねえのか?」
まわりを取り囲むクラスメイトたちは、壮大な計画の上に実行した、盛大なドッキリが成功したことで、興奮を抑え切れない様子ではしゃいでいる。
「悪かったな亮介、俺は何度もヒントを出していたんだがなぁ……」
塚田がガラにもなく、舌を出してわびた。
ジャージ姿の佐倉が、笑い転げる珠木の後ろに隠れて、恥ずかしそうに手を振っている。
そんな生徒たちと神楽坂先生の姿を、呆れた顔で見ていた西尾が、ついに堪忍袋の緒が切れたとばかりに怒鳴った。
「神楽坂先生、あんためちゃくちゃだよ! 帰宅時間まで延長させといて、いったいなにをやっているんだ! このことは、明日にも稲田先生に報告させてもらうよ! まったく、なんてふざけた教師だ!」
西尾は怒りをぶちまけて、その場をあとにした。
*
プールから引き上げられた高城は、いまだ呆然と座り込んで、ただ自分を取り囲むクラスメイトたちが、お腹を抱えて笑う姿を見つめていた。
ついさっきまで死の恐怖に震えていた自分、絶望の縁に立たされていた自分を見て、涙を流しながら笑っている友人たち。
その姿を見て、高城はひどく寒気を感じた。
決して、水に落ちたせいなんかじゃない。
みんなの笑う姿が、背筋が凍るほどに怖ろしく見えたのだ。
悔しいのか。悲しいのか……。
よくわからない涙が止めどなくあふれてきたが、ずぶ濡れの高城の涙に気が付くものは、誰一人いなかった。
いや、一人だけいた。
神楽坂先生はプールに落ちたときから、ずっと高城の手を握り続けていた。
笑い声に包まれながらも、凍えるようなひとりぼっちの世界のなかで、先生の温かい手だけが、虚無の闇に堕ちいりそうな高城の心を、力強くつなぎ止めていた。
「どう、高城くん。わかってくれた?」
すでに神楽坂先生は笑うのをやめ、高城と同じ視線で、やむことなく笑い続ける生徒たちを見つめていた。
(まじめな先生のことだ。
きっと夏休みのあいだ、何度も夜のプールに飛び込む練習をしたのだろう。
昼間は家にこもって、ネットでお笑いの動画を沢山見て勉強していたのかもしれない。
それもみんな、笑わせることばかり考えて、人を笑うってことがどういうことか、真剣に考えたことがなかった俺に、わかってもらいたかったからだ。
命がけで笑いの危うさを、叩き込んでくれたのだ……)
先生の温かい手の感触を感じながら、高城の目から、また涙がこぼれ落ちる。
「もし先生が、先生を続けることができたら……」
神楽坂先生はそう前置きをしてから、高城に語りかけた。
「先生、顧問になるから、ちゃんと部員を集めて、署名も集めて、一緒にお笑い同好会を作ろう。今年は間に合わないけれど、来年の文化祭ではネタ発表できるように、これから一年、本物のお笑いを目指して頑張ろう。
一瞬にしてクラスの心をひとつにまとめて、一瞬で、人付き合いが苦手という先生の悩みまで解決してくれる……。
高城くんのそんな『笑い』は、わたしにとって奇蹟でした。
わたしが憧れる、二人目の先生でした。
だから、どうしても使い方を間違ってほしくなかったの。
高城くんの、人を幸せにしてくれる『笑いの力』を、絶対に……」
神楽坂先生の表情が、やわらかな笑顔に変わった。
まっすぐに高城の目を見つめて、続ける。
「先生、一生懸命勉強したけど、人がなぜ笑うのか、いまだによくわからないの。
でもわたしは、みんなの心を温かくする『笑いの力』を信じて、誰もが幸せを感じる学校を目指して頑張ります。
高城くんも一緒に、そんなお笑いを目指して、頑張ってくれますか?」
ただひとこと、「はい」とつぶやいた高城は、そのときはじめて、自分も微笑んでいることに気が付いた。
じわりと胸が熱くなる。そんな笑いだった。
【完】
【おまけ】12年後のふたり に続きます。




