【高城の章】神楽坂先生の覚悟 01
「屋上に逃げ道がある? 答えってなにが? どういうことだよ、徹!」
階段を駆け上がり、屋上に通じるドアを開けた高城は、ぐるりと周囲を見渡した。
フェンスに囲まれた屋上には、逃げ道なんて、どこにも見当たらない。
ただ一カ所、厚い雲が夜空を覆う完全な闇が支配するなかで、屋上の一番奥のフェンスの金網が破られているのが見えた。
誘われるままに駆けよる。
暗闇から吹き上げる風が、高城の前髪をかきあげた。
「まさか、ここから飛び降りろって?」
「そうよ」
吹きすさぶ夜風の音に紛れて、高城の背後から、神楽坂先生の声が聞こえた。
「追い込まれた人間にはね、そんな穴の先にも逃げ道が見えるのよ。昔のわたしがそうだったもの」
振り返ると、暗闇のなかに神楽坂先先が立っていた。
風で巻き上がる長い髪を手で押さえつけながら、先生は血で汚れた眼鏡を無造作に地面に投げ捨てた。
「徹は……。塚田もやったの?」
そう聞く高城に、先生はなにもこたえずに、ゆっくりと近づいていく。
「先生、お願いです。もうやめてください」
「一回目」
「お願いです。こんなところから、突き落とさないでください」
「二回目……。ねぇ、高城くん。楽しかった? みんなが驚いたり怖がったりする姿を見て満足した? 大好きでしょ、こういうの?」
神楽坂先生が一歩ずつ近づくたびに、高城は一歩ずつ後ずさりした。
振り返れば、高城のすぐ背後には、フェンスの穴が迫っている。
「先生は何もわかってないよ……。
先生、テレビ見ないでしょ? あれはお笑いの『お約束』なんだ。やられるほうは苦しんでいるように見えるけど、本当はいじられて『おいしい』と思っているんだ。
見ているほうも、演技だとわかっているから、笑えるんだよ」
高城に近づきながら、神楽坂先生がこたえる。
「わたしも初めはそうだったかも知れない。みんなの笑顔が見れて嬉しかった。でもいつからか、とっても辛くなったの。演技じゃなく、本当に嫌がっていました。
それでも高城くん、すごくイキイキしてたじゃない? すごく楽しそうだったじゃない?
ほんとは気付いてたんでしょ? わたしが嫌がっていること。
でも楽しいから、『いじる』のを止められなかったのね?」
また一歩、高城に近づきながら続けた。
「高城くん、考えたことある? 驚いたり、痛がったり、恥ずかしい思いをさせられてる人を見て、なぜ人間は笑うのか?
演技とかそんな言い訳、関係ないんじゃない?
根本的に大好きなんでしょ? 滑稽に取り乱している人を見て笑うのが。
どうりで『いじめ』もなくならない訳よね。
だってそれが、人間の本性なんだもの……」
高城が振り返る。もう、後ろには下がれない。
穴のあいたフェンスの先は、夜の海原のような闇が広がっていた。
「人間の本性とか言われても、俺にはわからないよ……」
高城の手に汗がにじむ、もう逃げ場はなかった。
手が届くほど近くまできた神楽坂先生が、高城の目をまっすぐに見つめながら問う。
「高城くん、ちゃんと半年前に戻っている? 先生が半年前……、入学式の日にみんなに言った言葉を覚えている?」
高城は首を横にふった。
(ただでさえ後先考えずに突っ走る性格だと人に言われるのに、半年前に先生が何を言ったかなど、覚えているはずがない。
いや、ちゃんと聞いていれば覚えていたかもしれない。
心のどこかに、しっかり残っているはずだ。
でもあのとき俺は、自分のネタをやることばかり考えて……)
「言いなさい。三回目の、押さないでって」
神楽坂先生がまた一歩、高城に近づく。
ふたりのあいだには、もう拳ひとつはさむ隙間もない。
高城は、神楽坂先生の刺すような視線から逃れようと顔をふせた。
そのとき高城の目に飛び込んできたのは、先生の胸元で風になびいている佐倉の名札。
高城はふたたび顔を上げて、自分を見据えている神楽坂先生の目を見つめ返した。
「わかった、言うよ。
もう俺だけ逃げるわけにはいかないからね……。
でも俺は、先生が咲美や徹、クラスのみんなにしたことを絶対に許さない」
逃げるばかりだった高城が、ぐっと胸を張ってこたえた。
佐倉の制服を通して、神楽坂先生の胸の鼓動が、高城の胸にまで伝わってくる。
「先生にもう一つ教えてあげるよ。お笑いのお約束。
俺は三回目の『押さないで』を言います。でもそのとき、落とすほうも腕を引っぱられて一緒に落ちるんです。
いじっていたほうも、一緒に落とされる……。
それでこの笑いは、完成するんだ」
神楽坂先生は眉一つ動かさずに、高城を見つめている。
少しも動揺を見せることのない先生の態度に気圧されながらも、高城は、まっすぐに先生の目を見つめ返して言った。
「このお約束は、絶対です!」
先生に背を向けて、フェンスに手を掛けて穴をくぐる。
校舎の端からさきは、吸い込まれそうな夜の闇が支配している。
なにも見えない。
フェンスから手を離したとたん、足が震えて、そこから一歩も動けなくなった。
横を向けば、暗闇のなかにちらほらと輝く、わずかばかりの街の灯りが見える。
(お父さん、お母さん、今ごろ心配しているだろうな。
でもごめん、もう引き返せないんだ。
追い込まれたひとって、こんなこと考えるんだね。
もうどこにも逃げ道なんてない。
この吸い込まれそうな暗闇に、飛び込むしか道はないんだ……)
校舎の端に足をそろえる。
裸足のつま先は、もう、どこにもふれていない。
高城の頬に、涙が伝った。
堰を切ったように、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
生きていることを示す、温かい涙だった。
「先生、お願いです。押さないで……」




