【神楽坂の章】プール事件 02
「よおし、おまえら! プールに入って床をこすれ! 滑るから気を付けろよ!」
稲田先生の号令のもと、水が抜かれたばかりのプールに、生徒たちがおそるおそる降りていく。
「きゃあ、ぬるぬるしてる。きも~」
とたんにそこかしこから、悲鳴が上がった。
プールの底は汚れが溜まっているだけではなく、こびりついた水垢のせいで、ぬめりもあるので、気を抜いたらすぐにでも転んでしまいそうだ。
梯子からプールに降りた神楽坂先生は、デッキブラシを杖のようについて、なんとかバランスをとっていた。ただでさえ運動神経の鈍い先生にとって、床をこするどころか、その場に立っているだけでも精一杯なのだ。
一歩でも前に進もうとするたびに、つるつると足もとを滑らせて、デッキブラシにしがみつく。その腰の引けた姿は、まるでおばあさんのようで、生徒たちの期待に違わず笑いを取っていた。
笑いに関してはスベり知らずの先生が、つるつると滑って笑いを取っている。
「スベりたいんか、スベりたないんか、どっちやねん」
塚田の落ち着いたボケが、みんなの笑いに拍車をかけた。
そんな神楽坂先生とは対照的に、男子生徒たちは、そのぬめりを利用して、まるでスケートリンクのようにプールの底を滑って遊んだ。
「危ない! 先生、ぶつかる!」
「きゃあ、やめて!」
わざとよろけて神楽坂先生にぶつかるふりをするだけで、先生は悲鳴を上げて足をばたつかせる。それに味を占めた男子生徒たちは、何度も先生のそばをすり抜けるようにして滑り、あわてる先生の姿を見て笑った。
高城は、その光景を眺めつつも、男子生徒たちの仲間には入らなかった。
「なんだ、あの笑いの取り方。ベタすぎて、見てるこっちが恥ずかしくなるよ」
そんな風にバカにしていた高城だったが、予想以上の盛り上がりに触発されたのか、笑いでは他の生徒に一歩も引けを取りたくなかったのか。はたまた、自分が発掘した天然キャラの神楽坂先生を、他人にいじられるのが不愉快だったのか――。
とつぜん男子生徒たちを押しのけて、高城が声を上げた。
「わかってないよな素人さんは。本物のお笑いってのは、こうやるんだよ、みんな見てな!」
プロの笑いの取り方を教えてやるとばかりにみんなの注目を集めると、高城は神楽坂先先のまわりをぐるりと滑り始めた。
観客に向けるような笑顔でみんなを見回してから、先先の肩を軽く押す。
「やだ、高城くん! 押さないで!」
「それって、押せってことですよね? 先生」
神楽坂先生のそばをすり抜けるたびに、肩を押すふりを繰り返す高城。
「押しちゃだめったら、だめえっ! 本気で怒るよ!」
神楽坂先生は力のかぎりに叫んだが、本気で怒った先生の怒鳴り声は、なんともかわいらしく、まるで迫力がなかった。
「お笑いじゃ、押すなって言われたら、押すのがお約束なんですよ。三回押すなって言われたら、そのときが……」
男子生徒たちが一斉に押せ押せコールを始めた。
プールは水深の浅いところから、深いところへと緩やかに傾斜しているので、深いところにはまだ、膝下あたりほどの水が溜まっている。
いつのまにか先生はつるつると足もと滑らせながら、その場所に近づいていた。
(こんな格好で転んだら、頭からつま先までずぶ濡れになって、午後の授業ができなくなっちゃう。絶対に転んじゃだめだ!)
先生は必死になって浅いところへ移動しようとするが、かつて簡単な飛び込み台があった山の瀬中学校のプールは、深い所で水深が三メートル近くある。
普段は深さ調節のために置かれているプールフロアも、今日は掃除のためどかされているので、プールの底の傾斜はさらにきつくなり、もがけばもがくほど、蟻地獄のごとく水の溜まった場所へ滑っていってしまうのだ。
「神楽坂先生、生徒と一緒にふざけてないで、ちゃんと掃除をしなさいよ」
稲田先生が、曲げていた腰を伸ばしながら、あきれたように声を上げた。
(ふざけているですって?)
神楽坂先生は自分の耳を疑った。
(わたしがこんなに嫌がっているのに、みんなからはふざけているように見えるの?)
高城が両手を掲げて、よろけている先生に近づいてくる。
神楽坂先生の背後には、枯れ葉や泥にまざって、ヤゴなどの生き物までが泳ぐ、汚れた水が迫っている。
ついに足首が、その水に浸かった。
「もうやめて! 絶対に押さないでっ!」
「言ったぁ! 三回目!」
手を叩いて歓声を上げる男子生徒たち。
高城が満面の笑みで近づき、神楽坂先生の両肩を押すふりをした。
――瞬間。
先生は派手な音をたてて、水の中に尻餅をついてしまった。
ベージュのタイトスカートも、白いブラウスも、汚れた水でびしょ濡れ。
そんな神楽坂先生を見て、男子生徒のひとりが、ひゅうっと冷やかしの口笛を吹いた。
濡れたブラウスから、下着が透けて見えていたのだ。
「……きゃあっ!!」
両腕で体を隠しながら、おそるおそる顔を上げる。
眩しいほどの青空を背にした男子生徒たちの笑顔が、まっ暗な影となって周りを取り囲んでいた。
「おまえらも、気ぃ抜いてるとああなるぞ! 真面目にやれ!」
助けるどころか、その状況に一瞥をくれて、声を張り上げる稲田先生。
女子生徒たちも、ずぶ濡れの神楽坂先生を、冷ややかな笑みを浮かべて見つめている。
(なんで? こんな酷い目に合っているのに、なんでわたし、みんなに笑われているの?)
神楽坂先生は、呆然とみんなの笑顔を見つめていた。
「先生、大丈夫ですか? まさか本当に転ぶだなんて……」
そのなかでただひとり、高城だけがばしゃばしゃと汚れた水の中へわけ入り、神楽坂先生に手を伸ばした。
以前、同じようにくずおれている自分に手を差し伸べてくれた高城から、笑いを強要されたことを神楽坂先生は忘れていない。しかしいまの高城は、体操服が汚れるのもいとわず汚水の中に入り、自分に手を差し伸べている。
学生時代、暗い底なし沼に沈んでいくみたいに、逃げ道を失っていた神楽坂先生の手を、力強く握りしめ沼から救い出してくれた恩師。
差し伸べられたその手が恩師の手と重なり、先生は、今度こそ高城を信じようと、その手をつかんだ。
「先生、訴えてやるって」
神楽坂先生の手をつかみながら、高城が満面の笑みで言った。
「え?」
一瞬、何を言っているのか、わからなかった。
なおも高城は、神楽坂先生の手を引っぱるふりをしながら、先生の耳元に顔を近づけ、ささやいた。
「ほら早く、こんなチャンスは二度とない! リアクション芸人がやられたときに言う、お約束の台詞です。『ちくしょう、訴えてやる』って!」
先生の頭のなかが真っ白になった。
学生時代、信じていた、たったひとりの幼なじみの親友にまで裏切られた当時の記憶がよみがえり、先生の目に涙があふれる。
悔しくて、悲しくて、胸が張り裂けそうだった当時の感情と、いまの悲惨な状況が重なり合って、神楽坂先生は言われたままの言葉を大声で叫んだ。
「ちくしょう! 訴えてやるっ!」
涙声で叫んだその言葉は、みんなを爆笑の渦に巻き込んだ。




