【神楽坂の章】トラウマ 03
「先生、あれやってよ。フライングキャット!」
今日は一時間目から、一年二組で英語の授業があった。
いつもはハミングを奏でながら自分のクラスへ行く神楽坂先生も、さすがに足取りが重たかった。稲田先生に叱られたこともこたえたが、それ以上に、職員室で向けられた教員たちの目つきが、頭から離れないのだ。
白く煙る霧雨が窓の外の景色をかき消し、じっとりと湿った空気が、体にまとわりついてくる。
ふだん苛立つことなどめったにない神楽坂先生から、めずらしく笑顔が消えていた。
そこへきて、教室へ入ったとたん、さきほどの言葉を投げかけられたのである。
「もう、みんなちゃんとして! 最近ちょっと気が緩みすぎよ!」
さすがの神楽坂先生も教卓に教科書を叩き付けて怒鳴ったが、生徒たちは反省の素振りを見せるどころか、いっせいにツッコミを入れてきた。
「……からの~?」
お決まりのギャグをやるまえに、わざと怒る姿を見せたと思っているのだ。
『緊張からの緩和』は、お笑いの基本だからだ。
「そんな挑発には、もう二度と乗りません!」
それでも、かたくなにギャグをやることを拒む姿に、ようやく生徒たちも、先生の態度が普段と違うことに気が付いた。
「なんだよ、ノリ悪いな」
「空気読めよ」
「つまんね~の」
口々に文句を言う生徒たち。
向けられていた笑顔が、潮が引くように消えていく。
尖った視線で見つめる生徒たちの姿が、職員室で向けられた教員たちの目つきと重なり、神楽坂先生はめまいに襲われ、足もとがふらついた。
目の前が真っ白になり、思い出したくもない学生時代の記憶が、頭を駆け巡る。
なんなの、こいつ。
やな感じ。
ねえ見て、笑ってるよ。
マジ、キモい……。
「おまえら、無茶ブリしすぎっ!」
とつぜん弾けた高城の怒鳴り声で、神楽坂先生は、はっと我に返った。
いつのまにか、先生は床に膝をついていた。
どきどきと波打つ心臓を押えつけるように、ブラウスの胸元をきゅっと握りしめながら見上げると、高城が先生をかばうように、みんなの前に立ちはだかっていた。
「まったくこれだから素人はこまるんだ。ちょっとは流れとか考えろよ、先生、困ってるじゃないか」
クラスメイトにそう言い放つと、高城は振り返って神楽坂先生に手を差し伸べてきた。
そのときの笑顔が、かつての恩師の笑顔と重なる。
(成績はいまいちだし、調子に乗りすぎるという短所もある。だけど、それを上回る長所が、この生徒にはあるのだ……)
神楽坂先生は目に涙をにじませながら、差し出された高城の手に、そっと自分の手を重ねようとした、そのときーー。
「……ねぇ、アッコさん?」
さっきと何も変わらない笑顔のはずなのに、とつぜん高城の笑顔に恐怖を感じた。
のぞき込むような視線で、高城がささやく。
「先生、ここは小田アッコのギャグ、『あ~かさ~たな~』です」
まるで、脅迫されているように聞こえる、その言葉。
「ほら、早く……」
じっと見つめる視線。
いい知れぬ恐怖に体をこわばらせながらも、教室の中で唯一残された高城の笑顔までが、風に吹かれた砂山のように、少しずつ形を崩していくことに神楽坂先生はおののいた。
たったいまも怖ろしくてたまらないその笑顔でさえ、いまの先生には暗闇に輝く小さな灯火に感じたのだ。
(この火を消したら、わたしの人生はまた暗闇だ!)
神楽坂先生は藁をもつかむ気持ちで、高城に言われた通りの台詞を叫んだ。
「あ、あかさたなぁ……って、誰がアッコさんよ!」
そのとたん、生徒たちの尖った視線が、一転して笑顔に変わった。
陰鬱とした学生時代の教室の風景が、一瞬にして生徒たちの笑い声に吹き飛ばされる。
「ナイスな『ノリツッコミ』です、先生!」
親指をつきだし、満面の笑みでたたえる高城。
しかし神楽坂先生から、締め付けるような胸の痛みが消えることはなかった。
無意識のうちに、自分が媚びるような笑顔を生徒たちに向けていることに気付いたのだ。
「ちょっと先生、具合が……。みんな自習してて」
あわてて両手で顔をおおい、そう言い残して教室をあとにする。
はしゃぐ生徒たちの笑い声が、背中越しに聞こえた。
神楽坂先生はトイレに駆け込んだ。
暗い個室にとじこもり、額から流れ落ちていく、いく筋もの汗を乱暴にハンカチで拭う。
痛みを感じるほど、心臓が激しく脈打っている。
生徒たちに媚びるような笑顔を向けていた自分を思い返し、吐きそうになって口を押さえた。
「あの頃から、わたし、なにも変わっていないじゃないっ!」
トイレのドアを叩きつけながら、押し殺した声で自分に毒づく。
みんなに合わせるのが苦手で、とりあえず笑顔でいた自分。
みんなの尖った視線から逃げたくて、楽しくもないのに笑顔を浮かべていた自分。
ばかにされて、けなされて、悲しくて仕方がないのに、それでもなぜか笑顔を浮かべて、みんなに媚びへつらっていた、
情けなくて、大嫌いな、あの頃の自分――。




