第28話
事件から一ヶ月後、無事、ユリカは退院する事ができた。
とはいえ、顔のガーゼは付けたまま。
傷は未だ、完全には治っていない。
「忘れ物ない? 大丈夫?」
聞くと、ユリカは「うん」とだけ返事をし、手でOKサインをする。
口を開けて喋る、ということが、まだ難しいらしい。
これからリハビリをして、やがて会話、飲食は出来るようになるのだろうけど、神経の再生痛に襲われたり、治っていく過程で皮膚が拘縮してしまう可能性があるとかで、まだまだ油断は出来そうにない。
可能な限り、側で見ていてあげないと。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
人の噂も七十五日と言うけれど、ユリカが退院する頃には、事件は既に風化しつつあった。
出迎える記者もいないし、ネットのニュースを見ても、ユリカの名前はどこにも存在しない。
常に最新を求める現代人の飽くなき探究心に、本当に感謝だ。その調子で、ユリカの名前も何もかも忘れ去って欲しいと、ネットの神様に祈る。
「さ、着いたよ。ここが、僕たちの新しい家だ」
「んー!」
以前住んでいたマンションは、既に退去済みだ。
事件現場である以上、ユリカが精神的にダメージを負ってしまう可能性がある。それに、僕たちの住所が晒されてしまった以上、今後何かある可能性だって捨てきれない。
二人で生きていく以上、新しい家は必須。
あまり思い出したくないけど、浮気現場でもあったからね。それらを精算する意味でも、やっぱり引っ越しは必要だったんだ。
「都心からは遠いけど、ここなら僕たちを知ってる人は誰もいないからね。海も近いし、ユリカものんびりと休むといいよ」
「うん」
新居はマンションではなく、一戸建てにした。
庭付き二階建ての一軒家。
マンションみたいに外廊下で誰かとすれ違うこともないし、一戸建てなら僕とユリカ、二人だけの生活を送る事ができる。
都内では絶対に買えないけど、地方なら何とか手が届く値段、ユリカの退職金やこれまでの貯金をフル稼働させてしまったけど、それでも後悔はない。
「んー!」
「あははっ、広いキッチンだよね」
「うんうん!」
「それにリビングも開放的だし、吹き抜けみたいに天井が高い。二階に四部屋もあるし、お風呂も物凄く大きい、これなら二人で入れるね」
「うん!」
喜びながら、僕にしっかと抱きついてくる。
新しい家に引っ越して、本当に良かった。
それにここなら、屋炭に狙われる心配もない。
あの日の事件は、ユリカの顔だけじゃなく、精神をも破壊してしまった。夜になる度に怯え、突然開いた扉や大きな物音に、ユリカは反応する。
しゃがみ込み、頭を抱えて怯える彼女を、僕は何度も目撃した。PTSD、トラウマ。死の恐怖は、そう簡単に癒えることはない。
「うん?」
新しい家を無邪気に喜ぶ。
そんなユリカを抱きしめる。
今、ここに彼女がいることが、ただただ嬉しい。
☆
夜になり、僕はユリカの前に座る。
お風呂に入る為に、しなくてはならないこと。
「じゃあ、ユリカ、外すね」
顔の傷を隠しているガーゼとネットを、ゆっくりと外す。ナイフによって斬りつけられた部位は、まだカサブタのままだ。
顔へのシャワーは厳禁、基本的に顔から上は濡らさない。髪を洗いたい時は美容室みたいに横になってもらい、頭だけを洗う必要がある。
「……」
アイパッチ以外の全てを外すと、今のユリカの顔が顕になった。
斬られた頬は縫合され、一応の形を留めているものの、切創による皮膚の硬質化により、以前のようなモチモチとした感触は存在しない。
右目の部分にも傷跡が走り、額や鼻、耳たぶなど、削り取られてしまった部分が痛々しいままだ。
「……ふぅうん」
歪んでしまった唇から、空気が漏れる。
ふぅうん、多分、悠君だ。
「なに? どうしたのさ」
「おえんね……」
言いながら、ユリカは涙を流し始める。
脱衣所から浴室まで、いや、この家には鏡のように姿が映るものは全て取り外している。
それらはもちろん、ユリカが自分の顔を見ないためだ。
だけど今、彼女は僕を見つめている。
僕の中に映る、自分を見てしまっている。
「謝る必要なんてないさ、ユリカは今も昔も、誰よりも綺麗だよ」
嘘偽りなんて一切ない。
僕は昔から、ユリカのことが好きだったんだ。
姿形が変わろうが、愛は変わらない。
巻島の言っていたこと。
不倫されても、僕はユリカとの離婚を考えることが出来なかった。ユリカもそうだ、僕が不倫をしても、離婚を考えることが出来なかった。
「愛してるよ、ユリカ」
ユリカが襲われ、傍目には醜くなってしまったことは、もしかしたら僕達にとって、とても良い出来事なのかもと、最近は思う。
もう、ユリカは僕から離れることが出来ない。
他の誰かに狙われることもない。
彼女はもう、僕だけの大切な人だ。
☆
事件から三年が経過した。
ユリカの顔に傷跡は残っているものの、日常生活を送る分には支障をきたしていない。
失ってしまった右目には義眼があるし、顔には幾つもの切創痕があり、斬られてしまった頬、唇は歪んだままだ。
「悠君、行ってらっしゃい」
でも、それでも僕はユリカとキスが出来る。
愛しているから、当然とも言えよう。
「ユリカ、行ってきます」
「うん、愛してる、悠君」
毎日が幸せで、毎日が楽しい。
もう二度と、裏切ったりなんかしない。
あの事件は僕たちの中の繋がりを、どこまでも強固なものへと変えてくれたんだ。
☆
「おっ、悠全か、なんか久しぶりだな」
喫煙所へと向かうと、久しぶりに巻島がいた。
「それはこっちのセリフ、三年間の出向、本当にお勤めご苦労さまだったね」
巻島は名古屋での暴言が原因で、関連会社への出向の辞令を出されてしまっていた。
事実上の更迭処分、戻ってこれたという事は、出向先での評価が高かった、という意味だろう。
「へっ、単なる出向だろ? そんな極道みたいに言ってくれるなよな」
「それだとしてもさ、何だか巻島がいない日々は、ちょっと物足りないぐらいだったよ」
「物足りない生活で、課長代理から課長、更には部長代理へと出世なんか出来るかよ」
「はは、羨ましい?」
「当然だろ? なんだ、嫌味か?」
「親友ならではの毒舌だね」
「けっ、まぁ、そういうことにしておいてやるよ。何にしても、大出世おめでとさん」
名古屋での仕事ぶりが評価され、僕は今では関東と関西、両方で顔が効く営業マンになってしまった。顧客や部下が増えて行くのと同時に、役職という肩書も名前を変えていっただけのこと。
多忙な生活。
それを支えてくれているのは、間違いなく愛妻であるユリカだ。
「私生活が幸せに満ち溢れているからね」
「そうか、寄りを戻して大正解だったな」
「うん、巻島にも感謝してるよ」
「俺は別に、何もしてねぇよ」
ビルの屋上から見える青空へと、巻島は煙を吐き出す。吐き出した煙は雲にはならず、青空の中へと霧散していった。
「でも、ユリカさん大変だったろ? 傷とか、今はどうなんだ?」
「塞がってるけど、傷跡はあるし、右目は完全に義眼だよ。遠近感が狂ってたみたいだけど、最近は車の運転も出来るぐらいには回復してる」
「運転も? そりゃ凄いな」
「ユリカは元々努力家だからね、それと……」
「それと?」
「それと……そろそろ家族も増えるから、運転ぐらい出来ないとって、凄い頑張ってるよ」
言うと、巻島はポロリと、咥えていたタバコを地面へと落とした。
「家族が増えるって、お前」
「……うん、今ユリカ、妊娠七か月目」
マヤが言っていた言葉。
他人と他人が家族になる唯一の方法。
僕とユリカは、今はもう、完全に家族だ。
「そうか……うん、そうだな」
巻島は落としたタバコを拾うと、それをそのまま灰皿へと捨てた。
「妊婦さんがいるんじゃ、タバコの臭いは厳禁だな。おめでとう、悠全」
「ありがとう……そういえば、巻島はどうなのさ?」
「俺か?」
「うん、巻島ももう三十五だろ? そろそろ良い人見つけないと、間に合わなくなるんじゃないか?」
言うと、巻島は「くっくっくっ」と、悪役みたいに笑った。
「そうだな、お前には、ちゃんと報告しないとな」
「報告?」
「ああ、実はな悠全、俺はもう結婚しているんだ」
「え、そうなの?」
「しかも、既に子持ちだ」
「え、そうなの!? いくつ!?」
「二歳の娘、可愛いもんだぜ?」
嘘だろ、全然気付かなかったんだけど。
大親友にまさかの報告をするはずだったのに、逆に報告を受けてしまい、夜空に大輪の打ち上げ花火が連続で上がるみたいに喜びが止まらない。
「なんだよ、それなら連絡のひとつでも寄越してくれたら良かったのに! お祝いしないとじゃないか! 今度ユリカと巻島の家に行くから、そこで盛大にお祝いしようよ!」
僕の興奮とは裏腹に。
巻島はどこか困惑した瞳を、僕へと向けた。
「それは、やめておいた方がいいな」
「え、なんで?」
「実はな悠全」
「うん」
「俺の結婚相手、マヤさんなんだ」




