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薄氷の恋 ――不倫した妻と僕を結ぶものは、罪悪感という名の感情、ただひとつ――  作者: 書峰颯


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第27話

 僕が入院したのは、三日間だけ。


 本来なら翌日には退院出来たみたいだけど、警察の取り調べもあったし、何よりユリカの側を離れたくなかった。


 一週間もするとユリカの顔からドレーンが抜かれ、傷の具合を確認した医師の指示により、顔全体を覆う包帯が取り外される。


 包帯こそ取り外されたけど、その代わりに付けられた厚手のガーゼとネットにより、まだまだ顔の半分以上は隠されたままだ。


 唯一見える彼女の左目が僕を捉えると、ユリカは瞳を輝かせながら、目を細める。


 ——悠君、来てくれてありがとう。


 喋ることが出来ないユリカは、スマートフォンの画面に文字を打ち込み、それを僕へと見せてくる。


 ——でも、無理しなくていいよ?

 ——来てくれるのは嬉しいけど、私はもう。


「大丈夫、側にいるよ」


 ユリカがこんな事になった原因の全ては僕にある。僕が屋炭へと軽はずみに約束なんかしてしまったから。詐欺だなんだと理由を付けて、僕が無理やりにでもユリカと別れようとしてしまったから。


 ——今日ね、お母さんがお見舞いに来てくれたんだ。


 タップした文字を、僕へと見せる。


 ——でも、凄く怒られちゃった。

 ——なんで不倫なんかしたのって。


 僕たちのことは、事件として扱われ、ネット、更にはテレビのニュースにも流れてしまった。


『不倫の末路』

『自業自得』

『汚嫁は死ね』


 ユリカを乏しめる言葉が、ネット上に飛び交う。


 自宅での出来事だったせいで、住所から氏名、職業、何もかもが暴露され、有堂ユリカという名前を検索欄に入れるだけで『不倫』の二文字が出てきてしまうほどだ。


 ——会社も辞めないとだろうし、あはは、本当、ダメなことしたんだなって、思い知ってるところ。


「……そうだね」


 ——でも、悠君とマヤさんに飛び火しないで良かった。これで二人のことまでネタにされてたら、死んでも死にきれないよ。


 ユリカも何も言わず。

 屋炭も何も言わず。

 

 なぜか僕とマヤの関係に関しては、全員が口を閉ざしてくれていた。


 だから、僕の立場は『不倫被害者』という立場のまま、何も変わっていない。


 本当は、僕だって不倫していたのに。


「死にきれないなんて、言うなよ」


 ——だって、私の顔、めちゃくちゃだから。こんな顔じゃ誰も……悠君だって、嫌でしょ?


「別に、僕は顔で選んだ訳じゃないよ」


 ——そうなの?


「そうに決まってるだろ」


 ——ふふっ、ありがと。悠君がそう言ってくれて、本当に嬉しい。でも、あまり私ばっかり構ってると、マヤさん怒っちゃうよ?


「そこは、心配しなくていい」


 ——?


 わざわざクエスチョンマークをタップし、見える方の目だけで僕を見つめてくる。

 

 僕が何を考え、どうしたいのか。

 多分、それはもう、僕の中で決まっている。


「僕はもう、迷わないから」


 包帯で固められた手で、ユリカに触れる。


 どんな理由があったにせよ、彼女がしたことは許されることじゃない。

 

 でも、それは世間が決めたことだ。

 僕が決めたことじゃない。

 だから、僕なら変えることが出来る。


 許す、という選択肢を選ぶことも。





 面会時間を終えた後、一人車を走らせる。


 平日の午後五時台の道は渋滞していて、帰宅するのはどうしても遅くなってしまいそうだ。

 

 今から帰る。


 マヤにメッセージを送ると「了解」という可愛いスタンプと「夕ご飯、用意しておきますね」という返事が送られてきた。


 僕がユリカの面会へと向かうことを、マヤは何も言わず。


 行かないで欲しいとも。

 側にいて欲しいとも言わない。


 僕とユリカの関係が夫婦なのだから、面会に行かない方が怪しまれる。


 そういう考え方も出来る。


 けれど、離婚届けを出していないという事実に関しても、マヤは何も言ってこない。


 賢いマヤのことだ。 

 言葉にしない方が良い。

 そう、思っているのかもしれないけど。


「お帰りなさい、ゼン君」


「ただいま」


 僕の両手は包帯で固められているから、コートを脱いだり、上着を脱いだりするのを、マヤは笑みと共に手伝ってくれる。


「外、冷たかったんですね。今日は真冬並みの寒さってニュースで言ってましたから、ご飯は温かいシチューにしておきました」


 手が使えないから、最近はスプーンやフォークで食べられる料理を、マヤは用意してくれる。


 何気ない心遣い。

 相手を思わないと出てこない優しさ。

 そういったものが、マヤから溢れ出ている。


 ずっと側にいたい。


 僕はマヤと出会い、変わることが出来た。

 ユリカだけの世界から、救い出してくれたんだ。


 お互い両思いだ。 

 離れるなんて選択を選ぶ方が間違っている。


 間違っている、のに。


「マヤ」


 僕は、彼女の名前を呼んだ。

 

「はい」


 声の温度、質感で、彼女はそれが普通の呼びかけではないことに、きっと気づく。


「……ごめん」


 相思相愛だから。

 相手が何を考えているか分かってしまうから。


「僕、マヤと一緒には、なれない」


 顔を見ることが出来ない。

 マヤは僕を思い、いろいろと動いてくれたのに。


 さらに言えば、マヤは僕とユリカの命の恩人だ。

 恩人に対して、別れを告げる。

 

 こんなの、普通は許されない。


 頭の中で言い訳が渦巻く。

 何を伝えても、許されるはずがないのに。


「ゼン君」


 なのに、彼女の声は変わらず。

 

「私が最初に言ったこと、覚えてますか?」

 

 温かみのある言葉で、僕へと質問をしてくる。


「……覚えてる」


 マヤが最初に言ったこと。


『こんな一回ぽっきりの関係に嘘も何もないですよ。イミテーションでいいんです、嘘だらけの中でただただ互いの時間を楽しむ。それだけでいいんです』


 もう、随分と前のことなのに。

 鮮明に、思い出せてしまう。


「全てがイミテーション、嘘で構わない」


 そうである可能性。 

 そうであって欲しくなかった可能性。

 そうでいて欲しい可能性。


「はい、その通りです。ですので、ゼン君は何も気にしなくても大丈夫です。何も気にせず、ユリカさんの所に戻っても、私は大丈夫ですから」


「……そんなの」


 そんなの、あり得ないだろ。

 マヤとの日々の全てが嘘な訳がない。


 僕は間違いなく本気だった。

 マヤだって本気だったはずなのに。


 言葉にしたい、大声で伝えたい、僕はマヤのことが好きで好きで堪らない、愛している、この世界の誰よりもマヤを愛している。


「……っ」


 だけど、言えない。

 その言葉は、もう、言えないんだ。


「ごめん」


「謝らなくていいですよ」


「……マヤ」


「はい、ゼン君」


 顔を上げると。


 なぜか、マヤの姿に、ユリカが被る。

 髪型も、顔も、何もかも違うのに。

 

 イミテーション。

 真似、模倣品。


 かつてのユリカのマネを、マヤがしていた。

 そんな訳がない、そんな事実があるはずがない。


 僕とマヤは間違いなく愛し合っていたし、二人の将来を約束していたのだから。


 その全てが嘘だなんて。 

 到底、思えないよ。


「ゼン君、早く行ってください」


 ……マヤ?


「早く行ってくれないと、嘘が、バレます」


 息を飲んだ。

 疑う余地のない愛が、ここにある。


「マヤ」


 駆け寄り、強く抱きしめる。

 細くて華奢で、優しくて良い匂いがして。

 僕を見る笑顔が好きで、ずっと手を繋いで。

 作る料理が美味しくて、何もかもが楽しくて。

 

 もっと早く出会っていれば良かった。

 こんな事になるなら、出会わなければ良かった。


 僕は、バカ野郎だ。 

 クルクルと考えを変えてしまう。

 世界一のバカ野郎だ。


「ゼン君……」


 最後に、僕たちは唇を交わした。

 短くて、とても熱い口づけを。

 

「ありがとう……マヤのこと、一生忘れない」


「……こちらこそ、ありがとうございました」


 離れたくない。


「さようなら、マヤ」


「はい……ゼン君」


 だから、離れるんだ。


 これ以上一緒にいたら、離れられなくなってしまうから。


 玄関を出て、一人車に乗り込む。

 マヤの家の玄関の灯りは、まだ点いたまま。


 あの灯りが消えるまでは、ここにいよう。

 だって、マヤもきっと、あそこにいるのだろうから。

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