第26話
「え……、え?」
頭の中で、理解が追いつかない。
「きゃああああああぁ!」
「お前が悪いんだ! お前が僕を裏切ったから!」
突き飛ばされ倒れたまま、視線を奥へと向ける。
ユリカの上に馬乗りになった男が、刃物を彼女へと振り下ろしている。
何度も何度も何度も何度も。
男が刃物を振り回す度に、鮮血が舞い上がり、嘘みたいに僕の景色を変えた。
「や、やめろ!」
止めないと。
このままじゃユリカが死ぬ。
「うるさい! コイツは殺した方がいいんだ! コイツのせいで僕の人生は狂ったんだ! 順風満帆だった僕の人生は、もうおしまいなんだよ!」
羽交い締めにして倒れ込んだ時に、男のサングラスが吹き飛ぶ。
暴れる男を全力で押さえつけながらも、僕は男のマスクを剥ぎ取った。
「お前、屋炭か」
男は、屋炭学徒だった。
新幹線で会った時から、何も変わっていない。
ボサボサ頭で、どこか汚らしい格好のまま。
刃物でユリカを切り刻む。
「なんで、なんでお前がユリカを」
「お前のせいでもあるんだよ!」
「ぼ、僕?」
「お前が僕と約束したのに全然連絡を寄越さないから! こっそり後を付けてみれば女二人を囲いやがって! なんなんだよお前は!」
「ちょ、ちょっと待て!」
倒れ込んだせいで、体勢が上手く立て直せていない。
それにコイツ、思った以上に力が強い。
「全部お前が悪いんだ! お前がコイツの相手をしていなかったせいで! 僕は!」
二度、三度と振り抜かれる度に、痛みが走った。
このままじゃ、僕も殺される。
気づけば立場は逆転し、完全に馬乗り。」
マウントポジションを、取られてしまった。
「死ね!」
天井と共に、屋炭の顔が見える。
血走った目、開いた鼻の穴。
食いしばった歯は今にも砕けてしまいそうな程に力が込められている。、
そして、勢いそのままに、握りしめた刃が振り下ろされる。
「うぐっ!」
咄嗟に両手で刃を掴んだ。
刃体の部分を掴んでしまったから、指が切れる。
余りの痛さに、顔が歪む。
「有堂悠全、お前が、お前がいなければ! 僕はユリカと!」
「ぐっ、うううううぅ……!」
段々と、刃が落ちてくる。
これ、サバイバルナイフか。
刃体に血液がこびり付いている。
ユリカと、僕の血が。
なんだか、無駄に冷静になってしまう。
これは、ダメか?
このまま堪えきれず、死ぬのか?
格闘技、習っておけば良かったかな。
ここから巻き返す術は、僕にはないや。
手の痛みも、段々と消えてる。
あ、これ、本当にダメなやつだ。
ちくしょう、最後はこれかよ。
「安心しろ、お前を殺して、ちゃんとお前の嫁さんも殺す! だから、とっとと諦めて死ね!」
「死ぬのは貴方です!」
————ッパン!
突然、屋炭の顔が蹴り上げられた。
パンプス? 女性モノの履物だ。
「っくそ、何なんだお前!」
立ち上がった屋炭だったけど。
「ふっ!」
瞬間的に襟を捕まれ、そのまま揺さぶりを掛けられたのち、股の間に足を入れられ、そして。
「せいっやあああああぁ!」
掛け声と共に、屋炭の身体が宙を舞った。
とても綺麗な背負い投げ。
「がはっ!」
叩きつけられ、苦しげに地面にのたまう。
イモムシの様に動く屋炭に、女は飛びかかった。
襟を締め上げると、即座に屋炭は落ちる。
圧倒的な技術力。
それをしてみせたのは。
「大丈夫でしたか、ゼン君!」
誰でもない、マヤだった。
そういえば、柔道黒帯とか言ってたっけ。
「……っ、よし、大丈夫」
彼女は屋炭の意識が無くなったのを確認すると、すぐさま僕へと駆け寄った。
血だらけの僕へと何の躊躇もなく触れ、怪我の確認をする。
「ああ……酷い、すぐに救急車を呼びますからね。止血もしないと……縛りますので、ゼン君は指がちぎれないよう、しっかりと押さえていて下さい」
「ぼ、僕はいい、それよりもユリカを」
視線の先。
倒れ込んだユリカは、動いていない。
マヤは僕の止血を手早く終えると、倒れているユリカへと近寄った。
「ユリカさん…………ひっ」
そして、静かに慟哭を上げた。
マヤの異変、たまらず僕も駆け寄る。
「……っ!」
屋炭は、ユリカの美貌を妬んだんだ。
懲戒免職され、何もかも失った原因。
だから、それを徹底的に破壊した。
「顔が……」
さっきまで微笑んでいたのに。
キスをせがむ唇だって綺麗だったのに。
自慢の瞳も、女神のような肌も。
触れるだけで幸せを感じられる頬も。
何もかもが、ズタズタに壊されてしまっていた。
「ゆ…………、ゆっ…………」
そんな中、ユリカは僕の名を呼んだ。
「ユリカ、ユリカ!」
「ゆ…………ぅ、く…………」
「喋らなくていい! 大丈夫、側にいるから!」
「…………、ん…………」
血の海に沈みながらも。
僕の手を震えながら握る。
動いている。
まだ、死んでない。
「……ユリカ」
これが、僕が選んだ彼女の結末なのか。
僕がユリカを信じなかったから。
僕が、ユリカを許さなかったから。
「ゼン君、救急車来ました!」
マヤが手配した救急車に搬送される時、彼女の手は既に動きがなく、とても冷たくなってしまっていた。まるで死んでしまったみたいに冷えた手を、僕は握り続け、温め続ける。絶対に死んで欲しくない、なぜか、そう思い願いながら。
☆
ユリカが搬送された病院には、僕も搬送される事となった。
屋炭によって斬りつけられていた傷は思っていた以上に多く、思っていた以上に深い。
ナイフを握りしめてしまった手に関しては、親指の付け根、中指の第二関節、薬指の第二関節辺りが半分以上切断されていて、手術が必要だった。
縫合し、治るまで固定される。
入院生活の始まりだ。
「……ユリカ」
僕の手よりも彼女の顔の方が、被害が大きい。
「右眼球破裂、及び右頬部軟部組織広範囲欠損、創縁は鋭利で皮下組織から咬筋が露出、顔面神経下顎緑枝の断裂を認めました。デブリドマン、およびマイクロサージャリーによる再健術を————」
専門用語が多くて理解は難しかったけど、分かることをまとめると、ユリカの右目は眼球破裂の状態であり、もう視力が戻らないということ。さらには頬が数回切り刻まれたことにより、完全に切り取られてしまい、元には戻せないこと。
たとえ治る……いや、この場合、完治という概念は存在せず、リハビリを終えたとしても、顔面神経麻痺による後遺症や、食事、構音障害といった、日常生活における障害も多く残る可能性があるとのことだった。
僕とは違い、ユリカの手術は丸一日を要した。
手術を終え、運ばれてきたユリカは顔面全てが包帯で巻かれており、包帯の隙間からドレーンと呼ばれる管が幾つか出ている状態。
包帯が無いのは左目の部分のみ。
痛々しい姿に、僕は涙が止まらなかった。
手術を終えた後、僕は彼女の手を握り続ける。
間違いなく生きている。
何かあったら直ぐに医師を呼べるようにと、僕は彼女の側に居続ける。
その権利が、僕にはあるから。
だって、僕は彼女の夫だから。
「ん……」
「……ユリカ?」
彼女の意識が戻ったのは、手術の翌日。
固められた包帯によって、今の彼女は喋ることが出来ない。
握っていた手に力が込められる。
それがとても、嬉しかった。
「そのまま、喋らない方がいい。ユリカは襲われたんだ。だから、喋るととても痛い」
握った手だけで、返事をしてくる。
ぎゅっ、ぎゅって、握ってくる。
「僕もずっと側にいる、ユリカの側を離れない、だから、安心して欲しい」
ぎゅって、一回だけ握ってきた。
だから僕も、ぎゅって、握り返す。
僕の手もボロボロだから、本当は凄く痛かった。
凄く痛かったけど、涙の理由はそれじゃない。
「ユリカ……」
失いそうになって、初めて価値が分かる。
人間ってのは、なんとも不完全な生き物だ。
まだ、離婚届は出していない。
今ならまだ、引き返せる。
僕はまだ、ユリカの夫のままだ。




