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薄氷の恋 ――不倫した妻と僕を結ぶものは、罪悪感という名の感情、ただひとつ――  作者: 書峰颯


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第25話

 玄関を開けた時から気づいていたけど、家の中から妙に良い匂いが漂ってきている。


 焼けたチーズの美味しそうな匂い、それに聞こえてくる鼻歌は、これから修羅場を迎えようとしている雰囲気ではない。


「……行こう」


 異様な雰囲気に飲まれるな。

 今のユリカが何を考えていても良い。

 結果が変わらなければ、それでいいんだ。


「あ、悠君、お帰りなさい」


 廊下からリビングへと入るなり、彼女は言った。

 

「花桐さんもどうぞ、ソファで座って待ってて下さいね。二人とも、お昼ご飯まだでしょ? 今ラザニアとスープ作ってるから、ちょっと待っててね」


 セーターにロングスカート、エプロン姿で昼食を作っているユリカを見て、僕たちはその場で固まる。 

 

 今日、僕たちは離婚するんだぞ?

 なぜ、そんな態度を取れるんだ。


「ユリカ、今日僕たちは」


「ゼン君」


 突っかかろうとした僕のことを、マヤが止めた。


「ユリカさん、初めまして、花桐マヤと申します」


 そして、丁寧に頭を下げる。

 

「今日、私たちは昼食を仲良く食べに来た訳ではありません。話の内容は既に分かっていると思いますが、貴女と悠全さんの今後についてです」


 毅然とした態度、貴女と一切仲良くしようとは考えておりません、というマヤの気持ちが、そのまま表に出ている。


「……そうね、分かってる。でも私、お腹空いちゃったの。一緒にご飯食べるくらい、許して貰えないかな? 私の手作りが嫌なら、下のレストランでもいいけど」


 無言のまま、マヤと目を合わせる。

 この空気で食事とか、絶対にあり得ない。


 そもそもこの三人で食事とか。

 そんなの、あり得る訳ないだろ。


「私の手料理じゃ、やっぱりダメか。悠君が最後に食べたのも、結構前だものね。ごめんね、最後くらい、昔みたいに食べたいなって思っちゃったの」


 これは……演技だろうか?


 これまでの冷たい、女王様みたいな態度をやめ、泣き落とし戦法へと変えてきたのだろうか?


 それらはもう、何の意味も持たないのに。


「ごめんなさい、私たち、朝ごはん食べたの遅いんです。今はちょっと、お腹に入らないというのも本音だったりします」


「……そうでしたか、じゃあ、私も後にしておこうかな。ごめんなさい、そっちの都合も考えないで」


 そもそも、ニコニコと食卓を囲む仲ではない。

 僕たちはこれから離婚するんだぞ。

 一体何を考えてるんだ。


 ユリカのどこか余裕のある態度に、なぜか、少しだけイライラが募る。


「じゃあ、改めて紹介するよ。この方が花桐マヤさん、僕の恋人だ」


 ソファに腰掛け、エプロン姿のままのユリカへとマヤを紹介する。もちろん、僕の隣にはマヤが座り、ユリカは僕たちとは対面する位置だ。


 本来、今更紹介する必要は無い。

 でも、これは必要なこと。


 ユリカはもう、僕の恋人ではない。

 この意思を、明確にしないと。


「初めまして……で、いいかしら? 悠全の妻、有堂ユリカです」


「ユリカ、君はもう」


「悠君、私はまだ、離婚届を提出していないの」


 提出していない、だからなんだ。

 沸々としたイライラに、胸が痒くなる。


「ユリカさん、今日は貴女と言い争いをしに来た訳ではありません。私はお礼を言いたくて、ここまで足を運んだのです」


 そんな僕とは対照的に、マヤは涼やかな表情のまま、微笑まで(たずさ)えながらユリカの挨拶に返事をする。


「お礼?」


「はい、貴方が裏でいろいろと動いてくれたお陰で、私の元旦那である花桐哲臣との円満離婚、更には妹一家まで夫婦円満の状態へと戻ることが出来ました」


 ここまで語ると、マヤは僕の手を握る。


「更に更に、有堂悠全という素晴らしい男性まで私に譲っていただけるとのこと。心の底からの感謝を伝えたくて、今日はここまで足を運んだのです。本当に、ありがとうございます」


 言い争いをしに来た訳じゃないとか言いつつも、物凄い攻撃的な挨拶に思わず苦笑いだ。


 いや、頼もしい挨拶、とも言えるかな。


 確かに、どういう意図があったにせよ、ユリカの行動は全てマヤにとって良い結果をもたらした。


 ユリカ一人、こっそりと哲臣やカナミさんへと会いに行き、事情を説明し写真を手渡す。


 本当はもっと拗れさせるのが狙いだったのだろうけど、結果的に哲臣はいなくなり、春雪さんとカナミさんは元鞘になった。


 思惑が外れ、全てが僕たちへのプラス要素へと変わる、それはもちろん、僕とマヤの関係に関しても同じことが言える。

 

 障害があるほど恋は燃え上がる。  

 ユリカの存在は、まさにその言葉通りだ。


 だけど、ユリカはそんなマヤの攻撃を受けたとしても、表情を崩さなかった。


 エプロンを脱ぎ、普段から姿勢の良い、一本の線が入ったみたいな背筋のまま、マヤへと反論する。


「元々、攻撃の手段としては弱いなって思っておりましたからね。接して分かりました、あの哲臣って男は、ただ単に性欲が満たされてないだけなんだなって」


「そうでしたか」


「はい、だって話をしている時、ずっと私の胸を見てましたから。どれだけ奥さんに不満があるでしょうか? って、内心笑ってしまいました」


 ふふっと、手の甲を口元に当て、微笑する。

 

 ユリカは大学時代、コンテストで優勝を果たしたこともある程の美貌の持ち主だ。


 仕草ひとつで男は意識してしまうし、歩く姿を見るだけで目で追ってしまう。


 自分ならそういう理由での不倫はさせない。

 そういった自信の現れなのだろうね。


 ユリカは前かがみになり、僕へと向けて細めた視線を送る。


「悠君、その人で悠君は満足しているの?」


「……何が言いたいのさ」


「だって、私だったらいろいろと考えちゃうから。旦那が他所の女に手を出すのならまだ理解出来る、だって私も同じだから」


「僕は理解出来ないけどね」


「ふふっ、そうだね、悠君は私とエッチしたくてたまらない日々を過ごしていたものね。でもね、哲臣さんは違う。あの人は自分の奥さんの妹にまで手を出した。血縁はどうあがいても切れない関係なの、そこに手を出すということは、よっぽど不満があったんだろうなって。ね? マヤさんもそう思わない?」


「別に、私は思いません」


 哲臣がカナミさんに手を出した理由。

 それはカナミさんの怒りに便乗したに過ぎない。


 ……それをここで暴露する必要はないな。

 

「ユリカ、繰り返すけど、僕たちは今日ここでユリカと言い争いをしに来た訳じゃないんだ」


「別に、私は最初からそのつもりはないけど? いきなり喧嘩腰だったのはそっちじゃない?」


「そこは謝罪する、でも僕たちはユリカに対して、そうせざるを得ない程に迷惑を掛けられていたということも忘れないで欲しい。それと、先に不倫をしていたのはユリカだと言うことも」


 僕たちが今日ここに足を運んだ理由。


「ユリカ、もう一度お願いするよ。この用紙に名前を書いて欲しい。証人欄はマヤの親族、それとユリカの親友でもある巻島にお願いするつもりだ」


 A3の薄い用紙。

 僕たちの関係を白紙に戻す為の手続き。


「この家含めて、この場にあるものは全てユリカに譲る。車はいらないなら処分して構わない。貯金だって僕は四分の一でいい。他にユリカが望むものがあれば、それも譲る」


 だから、離婚届に名前を書いて欲しい。

 屋炭との不倫を訴えないこと。

 それらを含めて、僕が出来る最大の譲歩だ。


「私が望むものは、悠君だけだよ」


「それは出来ない」


「……そっか」


 ずっと余裕のある態度だったユリカの表情が、ようやく陰る。


 ……ん?

 

 ようやく?

 

 僕は、ユリカに後悔して欲しかったのか?


 僕という存在がいなくなることで、彼女が傷つき、嘆いて欲しいと思っていたのか?


 僕が苦しんだように。

 彼女も苦しんで欲しい。

 

 そんな、歪んだ願いが僕の中に?


「ゼン君」


「……うん、大丈夫」


 大丈夫、それでも構わない。

 ユリカの悲しみが、僕の動力源だったとしても。


 それでも、マヤと一緒になれるのであれば。

 それが、何よりも幸せなことなのだから。


「……分かった」


 差し出したペンを手に取ると、ユリカは自らの欄に氏名を書いた。


 妻、有堂ユリカ。


「ねぇ、悠君」


「……何?」


「苗字は、そのままでも良い?」


「うん……それは、ユリカの自由だ」


「ありがとう、じゃあ、そのままにしておくね」


 マヤと同じ。

 苗字は変えない。


 この選択がどういう意味なのかは、きっと本人にしか分からないこと。


「書いたよ」


「ありがとう、じゃあこれは僕が提出しておくね」


 ここに来た目的は果たした。

 これで僕とユリカの関係も終わりを迎える。


「ゼン君、それじゃあ」


「ああ、もう行こうか」


 この家は、僕の家ではないから。

 長居するのは、きっと、あまり良くない。


「ねぇ、悠君」


 玄関まで行くと、ユリカは僕の名前を呼んだ。


「……なに?」


「最後に、二人だけでお話、出来ないかな」


 最後に。


 マヤを見ると、うんって、頷く。

 最後だから、今だけは何をしても許すよ。

 そう、彼女の目が語っていた。


「じゃあ、外で待ってるね」


 マヤが玄関を出る。


「悠君」


 二人だけの空間が出来ると、ユリカは僕へと抱きついてきた。


 最後だから。


 突き放すこともせず、ユリカを受け入れる。


「悠君、ごめんね」


「……もう、いいいよ」


「だって、私、どうしても止まらなかったの」


「うん」


「ダメなことだって分かってた、してしまったら終わるって分かってた。なのに止まらなかった、止まれない自分にイライラした、何度も何度も自分を叩いた、自分でも何が何だか分からなかった」


 触れている部分が、熱くなる。


「大好きなのに、愛してるのに、なんで私はこうなのかな、どうして悠君だけにならなかったのかな、バカだよね、私、ホントにバカだよね」


「……そうだね」


「悠君は私を愛してくれてた、それが分かってたのに、私は悠君を裏切った、私が、悠君を裏切ったの…………本当に、何なのかな」


 ユリカの本音。

 僕とずっと一緒にいたい。


 だから、一人で努力したんだ。 


 マヤと僕のデートを調べ。

 マヤと哲臣の関係も調べ。

 マヤの姉妹の関係まで調べあげる。


 その全てが、僕との関係を保持したかったから。


 ……巻島の言っていたことは、全部本当だったんだな。 


 不倫は遊び。

 その先には後悔しか存在しない。

 まるで、違法薬物みたいだ。


「ユリカ……」


「悠君」


 涙目の彼女は、目を閉じ、キスを求める。

 

 だけど、それすらも。

 今の僕は、応じることが出来ない。


「……ごめん」


 彼女の両肩に手を置き、頭を下げる。

 絶対に、それだけはもう、出来ないから。


「…………」


 そんな僕の頭に。

 彼女は優しくキスをした。


「悠君は、浮気とか不倫とか、本当は出来ない人だって、私、知ってるから」


 震える喉は、油断すれば掠れてしまいそうだ。

 

「でもね、これだけは許して欲しい」


 唾を飲み込みながら、言う。

 最後の言葉。


「私、信じてるから」


 僕とユリカの復縁。

 それはない。

 だけど、言葉にはしない。


「じゃあ……待たせてるから、行くね」


 両肩に置いた手を、離す。

 何年も思い続けたのは、本当だから。

 離婚なんて、考えもしなかったのに。


「ありがとう、ユリカ」


 玄関を開けて外に出たら。

 僕たちはもう、他人だ。

 

 もう二度と、会うことは————




「————え?」




 玄関を開けた途端、誰かに突き飛ばされた。


 ジャンパーにジーンズ。 

 男物の靴、サングラスにマスク。


 そして、刃物。



「——————————!」



 声なき声が響く。

 鮮血が、景色の色を変えた。

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