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薄氷の恋 ――不倫した妻と僕を結ぶものは、罪悪感という名の感情、ただひとつ――  作者: 書峰颯


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第23話

「……ん」


「あ、起きた?」


「…………あれ? 悠君? ……えー? ちょっと待って、私、何も覚えてない」


「昨日、相当飲んでたものね。はい、とりあえずのコーヒー、ミルク入ってるから頭痛にも効くよ?」


 カップを差し出すと、素直に受け取る。

 目覚めの良さは、昔から変わらないね。


「ありがと……」


「しじみ汁とおかゆも作っておいたけど、ユリカっておかゆ嫌いだよね。違うの作り直そうか?」


「え……ううん、平気。ねぇ、悠君」


 ベッドから出ると、彼女はとたとたと近づいてきた。


「あの……、私と離婚の話は……」


「……今は、いいんじゃないかな」


 別に、気が変わった訳じゃない。


 離婚はする、でも、離婚するからといって喧嘩する必要もない。


「遅く起きた土曜日の朝ってことで、今はマッタリしようよ」


「……うん」


 キッチンのテーブルには、おかゆやバナナ、それと経口飲料も用意してある。彼女はテーブルに付くと、それらを目を輝かせながら眺めた。


「凄い、いろいろだ……」


「ネットで二日酔いに効くものって調べて、ありったけを一階のコンビニで買ってきた」


「ありがとう、頭痛かったから、助かる」


 素直な言葉、嘘のない会話。

 ゆっくりと、日の入るキッチンで食事をする。

 

 そんなユリカを見ていたら、何だか微笑ましくて、勝手に頬の力が緩む。


「食べないの?」


「ああ、僕はもう食べたんだ」


「そっか……もう、十時だもんね」


 テレビももう、朝のニュースはやっていない。

 どこのチャンネルを見ても、バラエティばかりだ。


「悠君」


「ん?」


「あの……」


 顔を上げて何かを言いかけて、でも次の言葉が出ないままに顔を下げて、そのままどこでもない場所を見た後、視線を僕へと戻す。


「私さ、昨日……」

 

「……うん」


「えっと……」


 酒の力によってぶちまけた本音。

 だけどそれは、シラフでは言えない。

 

「あは、あはは、私、ちゃんと着替えて寝てたんだね。思っていた以上に飲んじゃったみたいだけど、着替えだけはするとか、さすが私じゃない?」


「僕が着替えさせたんだよ」


「え」


「下着も全部取り替えたの」

 

「え」


「あんまり飲まない方がいいよ? ユリカ、飲みすぎると緩むみたいだからさ」


「うぅ……」


 恥ずかしそうに赤面しながら、おずおずと引いていく。なんだかこれまでとは別人になったみたいで、ちょっと面白い。


「でも」


「ん?」


「でも、側にいたのが悠君で、良かった」


 静かに微笑む、静寂と日常。

 嘘みたいな平和な時間を、ユリカと共に過ごす。


「そういえば、買ったゲーム全然遊んでなかったね。ユリカ、今日暇でしょ?」


「あ、うん。……遊ぶ?」


「せっかく買ったんだから、遊ぼっか」


 二人コントローラーを握り、画面に集中する。

 協力型のアクションゲーム。


 僕は何度もユリカを助けてあげて、ギリギリでボスを倒すことが出来たりして。


「やったー! 倒せたー!」


「もう何回か遊べば、もっと上手くなるかもね」


「うん、やるー!」


 夫婦の日常。

 好きの先にある幸福の時間。

 本来、僕たちに与えられていた時間。


「あ、もう三時だ……何か食べに行く?」


「うん。あそこ行こうよ、スタバ」


「ああ、いいね」


 二人車に乗り込み、行きつけのお店へと向かう。


 途中、眩しいと思ったのだろう。


 ユリカはダッシュボードを開き、中にあったサングラスを手に取ろうとした。


「あ……」


 でも、ユリカは何も取らず。

 無言でダッシュボードを閉める。


 理由は聞かない。

 ユリカも何も言わず。


「あ、悠君、新作あるよ。メロンストロベリーキャラメルクラッシュレモンモカって、何味か分からなくない? ふふっ、おもしろ」


 お店に到着すると、そんなことが無かったみたいに振る舞い続ける。


 ぎこちない時間。

 だけど何も言わず。


「悠君、いつもみたいに半分こしよ」

 

 ユリカは少食だから。

 彼女が頼んだものは、いつも半分僕が食べる。

 それを見越して、僕はいつも飲み物のみ。


「うん……じゃあ、僕のも少し飲む?」


「訳分からない新作とか、悠君良く買えるよね」


「何事も挑戦でしょ」


「じゃあ、いただきます…………あ、美味しい」


「新商品だからね、美味しいに決まってるさ」


「うー、じゃあ、次は私も同じの注文するからいいもん」


 言葉にしたあと、彼女は一瞬表情を変えた。

 暗く、悲しみに包まれた顔。


 目端に浮かんできた涙を拭い取ると「へへ」っと微笑む。


 僕も言葉にはしなかったけど。

 涙の意味は理解してる。


 次は、きっと来ない。


 僕たちの関係は、破綻しているのだから。



 帰宅し、カウチ型のソファで足を伸ばしながら、サブスクの映画をユリカと二人で眺める。


 ランキング上位にある作品で、観たことのない映画をチョイスしたけど、あまり面白くない。


(なんか暖かいなと思ったら)


 僕の腕を掴みながら一緒に観ていたユリカは、気づけばそのまま眠ってしまっていた。


 ぽかぽかのお日様みたいな体温になったユリカの頬へと手を添えると、彼女は微笑み、頬ずりするように動いた後、僕の手を握りしめる。


(しばらくは、このままでいいかな)


 結局、ユリカが目を覚ましたのは、映画が終わったあと。


 スタッフロールが流れる画面を観ながら「あ、寝ちゃった」って言いながら目を覚ました。


 そして、慌てて僕を探した後、泣きそうになりながら腕にしがみつく。


「……」


 一日が終わる。

 僕の中で決めた、夫婦として最後の日。

 

 言葉にせずとも、ユリカも気づいているのだろう。

 だから何も言わず、ただ、僕にしがみつく。


 どこにも行ってほしくない。

 自分がした過ちの大きさに、今更気づく。


 後悔。


 今のユリカを包み込む感情は、この二文字。

 嗚咽し、泣き叫んだとしても、変わらない。


(……そろそろ、かな)


 しがみつかれたまま、僕はリモコンを操作し、テレビ画面を消した。


 スタッフロールと共に流れていたオーケストラが止むと、室内は一気に静かになる。


 無音。

 

 機械が作動している音すら聞こえて来ない。

 そんな静けさの塊の中で、彼女へと告げる。


「明日、ユリカに会って欲しい人がいるんだ」


 君が行動した結果。

 これを望んだはずの未来。

 

「花桐マヤって、人なんだけどさ」


 だから、僕は正直に君へと伝える。 

 何もかもが手遅れだという事実。


 ぐちゃぐちゃになった感情なのは、しがみつかれた腕の冷たさで理解出来る。涙と涎、震える手が声なき声を語り、それでも彼女の理性を言葉にする。


「きょ……」


 全身が震えている。

 恐怖と悲しみ。


「今日はまだ、この家に、いてくれる、の?」


 終わりを選択した。

 それは誰でもない君だ。


「いや、僕は帰るべき家に帰るよ」


 ここに来たのは、荷物を取りにきただけだから。


「これ、置いていくね」


 律儀に嵌めておいた指輪を、テーブルへと置く。

 エンゲージリング。

 ユリカの指にあるものと同じ指輪。


 僕は立ち上がり、しがみつく彼女の腕を、ゆっくりと外した。


 もっと抵抗されるかと思った。

 以外に、すんなり外れてくれた。


「悠君……」


 俯いたまま、呟くように語る。


「悠君の家は、ここ、だよ?」


「……もう、ここじゃないよ。ユリカも調べたんだから知ってるでしょ? 千葉にある」


「悠君の家はここなのッ!!!」


 ソファに座り込んだまま、叫ぶ。

 そして叫んでしまった事実に、慌てる。


「あ、あ、ご、ごめんなさい、急に怒鳴ったりして」


「……いいよ、大丈夫」


 もう、荷物はまとめてあるんだ。

 それに、迎えももう来てる。


「じゃあ、また明日」


「悠君……私」


「……何?」


 最後の会話。

 夫として、耳を傾ける。


「私、信じてるから。悠君は最後には私のところに戻ってくるって、信じてるから……絶対に帰ってくるって、信じてるから……」


「……そうだといいね」


 これで、終わり。


 玄関を出たあと、扉越しに泣き叫ぶ声が聞こえてきた。 


 だけどもう、それを慰める必要は、僕にはない。


(表札、外しておこうかな) 


 離婚した後、この家は彼女のモノになる。

 僕の苗字のままだと、いろいろと不都合だろう。


 空欄になった表札は、今の彼女そのもの。

 

 有堂でも屋炭でも花園でもない。

 何者でもない、それが、今の彼女だ。


 彼女が選んだ、未来だ。

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