第15話
「おかえりなさい」
家に帰るかどうか、正直悩んだ。
パチンコで勝ったんだ、どこかのホテルで一泊することだって出来る。
だけど、外泊だけで生きていけるほど、僕はお金持ちではない。給料だけで見たら、ユリカの方が多いまである。
弁護士費用がいくらになるかも分からないし、ここは出費の少ない自宅へと帰った方が良い。
つまりは金銭面の為に帰宅する。
それが、僕の出した答えだ。
「悠君、今日、仕事じゃなかったでしょ?」
僕の上着を脱がしながら、ユリカは微笑と共に言った。
ナチュラルな化粧、ほのかに香る臭いは、勤め先の商品サンプル、という訳ではなさそうだ。
「うん、有給だったよ。どうして気づいたのさ?」
これが夫婦の会話だろうか。
そんな疑問を抱きながらも、僕は真実を語る。
「部屋の中にあったものが無くなってたから」
ユリカは視線を、棚の上へと向けた。
カメラはどこに行ったの? そう言いたげだ。
暖房の効いた部屋の中で、コートとスーツの上だけを脱ぎ、リビングのソファへと座った。ユリカは僕の脱いだ服を畳むと、当然のように隣に座る。
「ユリカはいつから、アレに気づいていたの?」
聞くと、ユリカは柔和に微笑む。
「私が綺麗好きなの、悠君知ってるでしょ? 月曜日の夜には気づいてたよ。部屋に帰ってすぐに違和感を覚えてね、それで気づいたの」
「外そうとは思わなかったんだ?」
「全然? あ、悠君可愛いことしてるなって思って、嬉しかった。だって、私のことが気になっちゃったんでしょ? だから、敢えてそのままにしたの」
何をどうするか頭の中で考える。
ユリカのこの態度……本当に、このまま真正面で殴り合っていいものか。
口を閉じていると、彼女は喜んでいる猫のように瞳孔を広げながら、胸を押し当て僕の腕にくっついてきた。
「全部見た……ってことで、良いんだよね?」
「……ああ、全部見たよ」
「それで家に帰ってきたってことは、もう私の全部を理解した上で、側にいてくれるってことだよね?」
嬉しそうに語る精神が理解出来ない。
けどまぁしかし、全部を理解したと言えば、そういう事になるのだろう。ユリカの性癖と後悔と懺悔の全てを把握し、僕は今、ここにいるのだから。
「結婚前に言って欲しかったな」
「無理、結婚前は悠君一筋になろうって思ってたから。でもダメだった、刺激とか魅力がね、時間と共にどんどん無くなっていくの」
言葉とは裏腹に、頬は紅くなり、身体は熱を持つ。
「レスになっちゃったのも、それが原因。悠君のことは世界で一番好き、誰よりも愛してる。だから、嫌いになるのが怖かった」
「……それで、不倫を?」
僕の頬にキスをすると、彼女は身体を起こし、自らの服を脱ぎ始める。あっという間に胸をさらけ出すと、もう一度、僕へと寄り添った。
熱を持っていた唇とは裏腹に、以前だったら抱きしめ、温めてあげたくなるような冷たくて柔らかい肌を、僕へと押し付ける。
「うん。でも、心はずっと悠君だけ。あの人とは恋愛を楽しめればそれでいいと思ってる。悠君が別れろって言えば別れる。だって、私が一緒にいたいと思うのは悠君だけだから」
「……養うんじゃなかったんだ?」
揶揄いだと感じたのか、ユリカは口に手を当て「あははっ」と軽快に笑った。
「養う訳ないじゃない、やだな悠君、おもしろ。ホントに好き、大好き、愛してるよ悠君」
屋炭が聞いたら、どんな顔をするんだろうな。
必要の無い笑みが、頬の形を変える。
「あの人ね、私と付き合う前は全然、普通の人だったんだよ? でも、私と釣り合う為にって、無駄に身なりを整えたりしてね。腕時計とか車とか、私からは何も言わなかったのに勝手に散財して、勝手に犯罪に手を染めて。バカだよね、本当にバカだと思う」
ユリカの手が、僕の股間へと伸びる。
まさぐるような手つきは、とても手慣れたもの。
結婚前から〝上手だな〟とは思っていたけど。
「ユリカ」
「なに、悠君?」
「僕の心は、何も変わっていないよ」
近寄る彼女をそのままにし、僕はカバンから薄い、離婚届と書かれたA3用紙を取り出した。
「必要な部分は全部記入してある、後はユリカの名前と、証人欄を書くだけで終わるよ。証人は巻島と、ユリカの相手で大丈夫だと思う。ご両親にこんなことを頼む訳にもいかないからね」
僕とユリカを他人へと戻す、一枚の紙。
いや、マヤに言わせれば、僕たちは今も昔も他人なんだ。 僕とユリカの間には子供がいない。それが、今はとても幸運なことだと思える。
温度差で風邪を引きそうなくらい冷めた僕の態度は、半裸のユリカの動きを止めた。
「なにこれ?」
そして、きょとんとした様子で、返事をした。
「離婚届」
「ううん、そうじゃなくて」
離婚届を手に取ると、彼女はそれを両手で持ち、僕の前で二つに裂いた。
「私と離婚、出来ると思っているの?」
二つに裂いた用紙を更に半分にし、もう一度裂いた。細切れになっていく離婚届を両手で放ると、それは花吹雪のように舞上がる。
「悠君」
離婚届けの花吹雪の中、彼女は僕の頬へと手を添えた。
「悠君だって、同じこと、してるでしょ?」
これまで以上になく熱いその手は、彼女の心の内を言葉にせずとも曝け出す。いや、それだけじゃない、目に見えるところ、その全てがこれまで以上にない、獣と化したユリカを物語っていた。
「私ね、ずっと悠君が隠し事してて可愛いって思っていたの。一生懸命バレないようにして、それでいて気づいて欲しい素振りを見せて、私の態度に一喜一憂して。……悠君、どうして私が悠君をこんなに好きなのか、知ってる?」
下着をも脱ぎ散らかしながら、ユリカは迫る。
ソファの上、後退りして身体を倒してしまった僕の上に、彼女は女豹の如く覆いかぶさった。
重力に引かれるも、それでも彼女の乳房は形を整える。しだれ柳のように落ちてくる長い髪を、細い指で掻き上げながらアンニュイに微笑んだ。
さながら女神のような美しさだ。
恋愛感情が無くても、綺麗だと思わせる。
迫ってくるユリカから視線を逸らし、考える。
どうしてユリカが僕を好きなのか。
僕自身、そんなに恋愛経験が豊富な訳じゃない。
好きな人は沢山いたけど、実際に交際まで発展したのはユリカ一人だ。
だから別れられなかったし。
だから思い悩んだんだ。
「ふふっ、分からないって顔してる」
互いの額が触れ合うと、僕たちの距離はほとんどゼロになった。キスの時は目を閉じる、でも今はキスの時ではない、絶対に、目は閉じない。
「悠君はね、私を裏切らないの」
「……裏切らない?」
ふわっと唇を重ねた後、彼女は身体を起こした。
股の間に僕をはさみ、まるで騎乗位の体勢のまま、彼女は妖艶に微笑む。
口端を持ちあげ、美味しいものを食べたみたいに、人差し指を口元へと当てた。
「何があっても、悠君は私を心の底から嫌いになんてなれない。私はね、悠君。悠君が想像している以上に、男の人を知っているんだよ?」
「……だろうね」
「だから、私には分かるの。裏切る人、私から離れる可能性がある人がどんな人か。悠君は私を裏切らない、絶対に離れたりしない、どんな私であっても悠君は受け入れてくれる」
「さすがに、それはないよ」
現に、僕はユリカから離れたいと思っている。
離婚したい気持ちに、嘘はない。
「花桐マヤさん、だっけ?」
ユリカの口から彼女の名前が出て、心臓が強く動いた。
いや、驚く必要はない。
ユリカは巻島と繋がっていたんだ。
知っていて当然、何も不自然なことはない。
「彼女、家に連れて来ても、いいよ?」
まるで、それが当然だと言わんがばかりに、ユリカは言った。
「私の愛する悠君が好きになった人なんでしょ? 私にも紹介して欲しいな」
「何を、バカなことを」
「いいじゃない、悠君だって彼のことを知ってるんだから、私だって知る権利があると思うけど? この家に呼んで、私の前でセックスすればいいと思う。悠君のことだから、今日からこのソファでも寝れないんじゃないの?」
クスクスと、口元に手の甲を当てながら含み笑う。
盗撮映像の内容。
確かに、このソファではもう寝れそうにない。
二人がセックスした場所なんて、汚れている。
けれど、それはマヤとここでセックスをしたからといって、上書きされるものじゃないんだ。
「悠君、こんなに懐が深くて可愛い奥様なんて、他にいないよ? うふふっ、今日の悠君可愛かったな。駅で私が仕事に行くのも見守っててくれてて。あの時だって心の底から嬉しかったんだからね? 表情整えるの大変だったんだから」
見たことないくらいの笑顔を見せると、彼女は僕のベルトを外そうと手を伸ばす。
どうやら、何もかも見透かされていたらしい。
そして想像通り、不倫をしている僕のことが、堪らなく愛したくて仕方がないといった感じだ。
マヤという女性を愛しているのに、身体はユリカと共にある。ユリカからしたら、僕がこの家に帰ってきたという事実だけで、勝利宣言に近しいものなのだろう。
「ユリカ」
「悠君、今日は昔みたいに、激しくしようね」
「僕はもう、君とはしないよ」
男としての本能は、ユリカを受け入れようとしている。彼女は上手だ、とても魅力的だし、肉体的な勝手な反応だから、それは仕方のないこと。
でも、僕はそんな理性の無い、獣のような男じゃないんだ。
彼女の手を掴み、強引に引き剥がす。
どれだけ強がっても男と女、力の差は歴然だ。
「……悠君にはまだ、希望が残されてるんだね」
希望、当然、残されている。
一緒にいて楽しくて、忘れていた感情を取り戻させてくれた大切な人。僕の心に彼女がいる限り、僕はいつだって笑顔になることが出来る。
僕の決意を汲んだのか、ユリカは僕から離れ、立ち上がった。
「わかった、じゃあ今日はしないでおくね」
言うと、裸のままユリカは自らのスマートフォンを手に取り、再度僕の隣に座った。
なんだろう? 今更屋炭とのやり取りでも見せつけるのだろうか? 僕に寝取られの趣味はないし、それはハッキリ言って逆効果なのに。
そう、考えていたのだけど。
「その代わり、悠君にはこれをプレゼントしたいと思います」
ユリカは僕へと、スマートフォンの画面を見せつける。その画面を見た僕は、凍りつき、一瞬、思考が停止した。
「……なに、コレ」
「私が大好きな悠君の相手を調べないとでも思った? しっかりと全部調べて、その途中で撮れた写真なの。どう? 綺麗に撮れてるでしょ?」
ユリカが見せてきたもの。
「悠君の相手も、いろいろと楽しんでるみたいだね」
それは、見知らぬ男性とホテルの前で微笑む、マヤの姿だった。




